アラン・ドロン
アラン・ドロン(Alain Fabien Maurice Marcel Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優である。1960年代のヨーロッパで最も目だっていた俳優である。
経歴
1935年11月8日、パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソー(Sceaux)で生まれる。父は小さな映画館を経営するファビアン・ドロン (1904—1977)、母は薬剤師のエディット・ドロンであった。4歳で両親が離婚し母方に預けられた。ローマカトリックの学校に入れられたが、素行が悪く寄宿学校を転々とした。14歳の時、義父の経営する豚肉加工品専門の食品店で働き始める。17歳でフランス海軍に入隊する。マルセイユより貨物船に乗り、第一次インドシナ戦争のため、1953年から1954年に掛けてインドネシアで従軍する。休戦協定により、20歳で除隊しフランスに戻り、ウェイター、秘書、営業サポート、レ・ザールのポーターとして働く。この間、1957年の夏、女優のブリジット・オーベールと親しくなり、カンヌで映画祭に誘われる。
カンヌで映画『武器よさらば』を撮影していたデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受けて合格し、英語の習得を条件に7年間のオファーを提供した。 だ。女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督と会ったとき、キャリアを開始るにはフランスに留まるべきであると確信した。セルズニックは契約のキャンセルを了承し、イヴ・アレグレ監督は『女が事件にからむ時』に出演させた。マルク・アレグレ監督は『黙って抱いて』(1958)でジャンポールベルモンドと共演した。
1959年のコメディ『お嬢さん、お手やわらかに!』はフランスで大ヒットした。1961年の『アラビアのロレンス』では、ハリト族のリーダー、アリ役にフランス人のアラン・ドロンらやモーリス・ロネらが考慮されたが、無名のアラブ人俳優オマー・シャリフが抜擢された。 1965年の『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督、原題:Plein soleil,英語:Purple Noon)に出演し、この一作で一躍世界的スターになった。次に同年ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(原題:Rocco e i suoi fratelli)でパロンディ家の三男ロッコ・パロンディとして出演した。1961年にはる根クレマン監督の『生きる歓び』(原題:Che gioia vivere)、ミシェル・ボワロン監督『素晴らしき恋人たち』に出演し、ジャン・ポール・ベルモンド、ブリジット・バルドーと共演した。1963年にはアンリ・ヴェルヌイユ監督『地下室のメロディー』でジャン・ギャバンと共演し、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(原題]Il Gattopardo)では、バート・ランカスターと共演した。しかし、それまで親密な関係だったアラン・ドロンとヴィスコンティは本作以降は絶縁状態となった。 1967年には、ジャン=ピエール・メルヴィル監督のサムライ(原題:Le Samouraï)に出演する。アラン・ドロンは侍を思わせる暗殺者を演じた。『サムライ』によって、単なる二枚目俳優の枠を越えて、渋味のある名優として認められた。 2008年『アステリックスと仲間たち オリンピック大奮闘』が最後の映画出演となった。
人物
- 1959年『恋ひとすじに』で共演した西ドイツのロミー・シュナイダーと同棲し婚約した。婚約中にモデルでドイツ人女優のニコ(Nico,Christa Päffgen,1938-1988)と出合い、1962年に息子のクリスチャン・アーロン・ブロング(Christian Aaron Boulogne)が生まれた。ニコは子供を育てることができず、ドロンは父親であることを否定したため、ドロンの両親が育てた。1963年、ドロンとロミー・シュナイダーは婚約解消を決めた。
- 1963年、ナタリー・バルテルミー(のちのナタリー・ドロン)と出会い、1964年にナタリーと結婚した。1964年9月30日に長男のアントニー・ドロンが生まれる。
- ナタリー・ドロンとは1969年に離婚した。女優を続けたいと願うナタリーと対立したためと言われる。
- 2017年5月9日、映画俳優の引退を表明する。
- 2018年のインタビューで自身が亡くなったときの報道をフランスの記者への質問で「サムライが死んだ」との回答に感動を覚えたと語る。
- 海軍ではばかなことをして首になったと語り、フランスに帰国後は「ちんぴら」として暮らしていたと回想する。