長崎師範学校

提供: Yourpedia
2018年9月9日 (日) 18:40時点におけるEifuku21 (トーク | 投稿記録)による版 (新規)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

長崎師範学校 (ながさきしはんがっこう) は、1874年(明治7年)長崎県に官立師範学校を設置した(ウィキペディアに1943年(昭和18年)設置とあるのは間違いである)。現在の長崎大学の母体の一つである。

沿革

1874年(明治7年)2月19日、日本全国 7大学区に設置された師範学校の一つとして、官立長崎師範学校を設置した。修業年限を2年とし、入学生徒定員を各100人(新潟のみ40人)とした。初等学校教員の養成(師範教育)を目的としていた。初代校長は渡辺温であった。同時に小学教則講習所も設置した。同年6月30日、 長崎市桶屋町光永寺を仮校舎とし、37名に入学を許可した。1878年(明治11年)2月に国の財政悪化から、官立長崎師範学校を廃止し、建物・備品は長崎県に移管された。 同年、勝山小学校に「小学教則講習所」(小学校教則教習所)を開設した。

1878年(明治11年)崎陽師範学校を県立「長崎師範学校」と改称した。1886年(明治19年)、 師範教育令により「長崎県師範学校」と改称した。1943年(昭和18年)4月1日 長崎県師範学校と長崎県女子師範学校を統合し、官立長崎師範学校」を設置した。旧長崎県師範学校校舎(長崎西浦上)に男子部、旧長崎県女子師範学校校舎(大村下久原)に女子部を設置した。1945年(昭和20年)8月9日、男子部校舎は原子爆弾投下により壊滅し、生徒54名が死亡した。

1949年(昭和24年)5月31日、 新制「長崎大学学芸学部」が発足し、長崎師範学校は長崎大学に統合され、在籍生徒が卒業するまで存続することとなった。1951年(昭和26年)3月、最後の卒業生を送り出し、長崎大学長崎師範学校 (旧制)は廃止となる。