ビハール号事件

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ビハール号事件(ビハールごうじけん)とは、1944年3月18日に、スマトラ島東方の公海上で、日本海軍の重巡洋艦「利根」が、捕虜として艦内に収容していた英国商船ビハール(Behar)号の乗員・乗客約65人を殺害し、死体を海に投棄した事件。ビーハー号事件利根事件とも呼ばれる。1947年にBC級戦犯裁判(イギリス軍香港裁判)で裁かれた。[1]

背景

1944年2月上旬、海軍南西方面艦隊司令部(司令長官・高須四郎中将)は、インド洋上における敵の交通破壊、敵商船の捕獲を目的とする「インド洋作戦」("サ"号作戦)を計画し、第16戦隊(司令官・左近允尚正少将)に実行を命令していた[2][3][4]第7戦隊所属の重巡洋艦「利根」(艦長・黛治夫大佐)は、「インド洋作戦」実行のため、僚船「筑摩」とともに臨時に第16戦隊に配属された[2]

事件

1944年3月1日、「利根」は、第16戦隊の旗艦「青葉」や「筑摩」とともにジャワ島バタビア港を出発[2]。同月9日午前11時頃、インド洋のココス島南西海域で英国商船ビハール(Behar)号を発見した[5][2][6]。利根はビハール号を拿捕しようとしたが[7]、ビハール号が指示に応じなかったため、撃沈し、生存者の乗客・乗員80人(約100人、約115人とも)を収容した[8][9][10][11]

「利根」の報告を受けた第16戦隊の左近允司令官は、「(情報聴取のため)2,3名の捕虜を残し、残りは所定のとおりに速やかに処分せよ」との信号命令を発したとされる[2][12]。しかし「利根」の黛艦長は、尋問中であることを理由に捕虜を収容したまま6日後の同月15日にバタビアに帰港し、捕虜のうち女性およびインド人を含む15人(ないし約40人、35人)を上陸させた[13][12][14][15]

同月18日、バタビアで「利根」は、第16戦隊指揮下を脱して第7戦隊に復帰するよう命じられ、シンガポールに向かうため、残る捕虜65名(約60人、80人とも)を艦内に抑留し続けたまま、出航した[16][17][18]バンカ海峡English版スマトラ島寄りのリンガ湾上まで来たところの公海上で、黛艦長は、捕虜全員の殺害を命じ、深夜に捕虜を1人ずつ船艙から甲板上へ連れ出して殺害し、死体を海中に投棄した[19][16][20]

裁判

1947年に、イギリス軍香港裁判で第16戦隊の左近允司令官と、「利根」の黛艦長が事件の被告人として起訴された[21][22][16][12]

捕虜を処分するよう指示したのは左近允司令官だったが、捕虜の殺害が実行されたのは「利根」が第16戦隊の指揮下を離れた後だったため、法廷で、左近允司令官は、「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛艦長は、「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した[23][12]。被告の陳述や証人の証言もそれぞれ食い違ったが、証人は総じて「司令官は部下の十字架を負うべき」という態度だったとされる[23]

1947年10月29日に判決が下され、左近允司令官は絞首刑、黛艦長は禁錮7年を宣告された[21][22][24][12]

1948年1月21日に香港のスタンレー刑務所English版で左近允司令官の死刑が執行された[12]

裁判記録では、黛艦長が比較的軽い刑となった理由の一つとして、黛艦長が殺害の命令を改めるよう意見具申し、却下されていたことが挙げられている[25]

脚注

  1. この記事の主な出典は、小板橋 (2015 84-124)、井上 (2010 387-388)、岩川 (1995 238-240)、Linton (2010 )および軍艦利根 (1944 )。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 岩川 1995 238
  3. 小板橋 (2015 84-90)では、日本軍の船舶不足を補うための作戦だったとしている。
  4. 軍艦利根 (1944 2043)では、拿捕を建前とし、止むを得ない場合のみ撃沈することを定めていた、としている。
  5. 井上 半藤 秦 保阪 2010 387-388
  6. 船名は、井上 (2010 387-388)では「ビハール号」、岩川 (1995 238)および東京裁判ハンドブック (1989 115)では「ビーハー号」、軍艦利根 (1944 2053)では「ベハー号」としている。英語表記はLinton (2010 )による。
  7. 利根は艦首の菊の御紋章を隠し、米国旗をメインマストに掲げるなどして米国艦船を偽装しており(軍艦利根 1944 2030)、ビハール号に「重要通信あり近寄れ」との信号を送った(軍艦利根 1944 2034-2035)。
  8. 小板橋 (2015 84-90)。同書では、生存者115人を救助したとしている。
  9. 井上 (2010 387-388)。同書では、生存者約100人、としている。
  10. 岩川 (1995 238)。同書では、女子を含む乗員80人を収容したとしている。
  11. 軍艦利根 (1944 2032-2037)。軍艦利根 (1944 2045-2046)では、捕虜の人数について、英国人41名、中国人3名、インド人・ゴア人計60名の総計104名と報告している
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 Linton 2010
  13. 岩川 (1995 238)。同書では、80人のうち15人を上陸させた、としている。
  14. 井上 (2010 387-388)では、約100人のうち約40人を上陸させたとしている。
  15. 小板橋 (2015 102-107)では、捕虜115人のうち35人をバタビアへ送ったとしている。
  16. 16.0 16.1 16.2 岩川 1995 239
  17. 井上 (2010 387-388)では、残りの捕虜約60人について、左近允司令官から「おれの責任とするから、残務処理のつもりでシンガポールに到着するまでに処理せよ」と命じられた、としている。
  18. 小板橋 (2015 102-107)では、残る捕虜の人数は80人としている。
  19. 小板橋 2015 110-118
  20. 殺害された捕虜の人数は、Linton (2010 )では約65人とされており、岩川 (1995 239)では65人、井上 (2010 388)および東京裁判ハンドブック (1989 115)では約60人、小板橋 (2015 110-118)では80人とされている。
  21. 21.0 21.1 井上 半藤 秦 保阪 2010 388
  22. 22.0 22.1 東京裁判ハンドブック 1989 115
  23. 23.0 23.1 岩川 1995 239-240
  24. 岩川 1995 240
  25. 林 1998 118-119

参考文献

  • 小板橋 (2015) 小板橋孝策 [ 海軍操舵員よもやま物語‐艦の命運を担った"かじとり魂" ] NF文庫 光人社 2015 1 1995
  • Linton (2010) LintonSuzannah Hong Kong's War Crimes Trials Collection Website > Case No. WO235/1089 University of Hong Kong Libraries  2010-12-25 [ arch. ] 2013-08-25
  • 井上 半藤 秦 保阪 (2010) 井上亮 半藤一利 秦郁彦 保阪正康 [ 「BC級裁判」を読む ] 日本経済新聞出版社 2010 9784532167523
  • 林 (1998) 林博史 [ 裁かれた戦争犯罪‐イギリスの対日戦犯裁判 ] 岩波書店 1998
  • 岩川 (1995) 岩川隆 [ 孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判 ] 講談社 1995
  • 東京裁判ハンドブック (1989) 東京裁判ハンドブック 東京裁判ハンドブック編集委員会 [ 東京裁判ハンドブック ] 青木書店 1989 4250890139
  • 軍艦利根 (1944) 軍艦利根 [ 昭和19年3月9日 軍艦利根戦闘詳報 JACAR C08030573400 ] 6 防衛省防衛研究所 1944-03-09

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