平井庄壱
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平井 庄壱(ひらい しょういち、1906年-没年不明)は、戦前日本の官僚。1932年に満鉄に入社し、満鉄調査部で法律調査を担当。1939年に上海の興亜院、1941年に日本大使館に移り、兵要調査や日本企業への労務者の割当業務に従事。1944年から東京の大東亜省管理局(戦後は外務省管理局)の調査官として、華人労務者の日本への移入、中国への送還事業を担当した。1946年にいわゆる『外務省報告書』を作成したことで知られる。
経歴[編集]
1906年生まれ[1]。
1932年、東京大学法学部卒業、満鉄に入社。満鉄調査部で満州の法律の調査を担当していた[1]。
1939年、満鉄からの推薦で上海にあった興亜院の華中連絡部に入る[1]。
1941年、日本大使館の3等書記官となる[1]。
上海では、華中の鉱山・経済状況などの兵要調査を担当。途中から労務関係も担当し、華人労務者を集めて、華中に進出した日本の石炭採掘会社に割当てるような仕事をしていた。[1]
1944年、東京の大東亜省管理局に調査官として配属される。この頃、戦局は悪化し、調査するような仕事はほとんど無くなっていたという。[1]
1945年の終戦後、大東亜省は解散して外務省に吸収され、外務省管理局の調査官となる。日本各地に連行され使役されていた華人労務者の中国への送還を担当。[1]
1946年、華人労務者の実態調査を命じられ、満鉄調査部の先輩だった赤塚正朝に支援を依頼し、いわゆる『外務省報告書』を作成した。[1]
同年5月、外務省を退官。鹿島組から花岡事件での戦犯訴追を免れるよう支援を要請され、花岡の現地調査をするなどして支援した。[2]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書−中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670