花岡事件 (暴動事件)
狭義の花岡事件(はなおかじけん)、花岡暴動事件は、1945年6月30日または7月1日の深夜に、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の華人労務者が、同出張所の輔導員(監視員)ら5人を殺害し、約800人で集団脱走した事件。逮捕時の「山狩り」や逮捕後の警察による暴行・虐待により、華人労務者のうち数十人が殺害されたり、死亡したりした。日本の敗戦後も暴動の首謀者とされた華人労務者の幹部13人の裁判手続きが続けられ、1945年9月11日に秋田地方裁判所で無期懲役以下の判決が下されたが、受刑者は数日後に秋田に進駐してきた米軍によって保護された。
暴動前の状況
1944年に、各県警察は、華人労務者を使役する事業所に対して、中国人を厳格に管理し、待遇を良くしないように指示していた[1]。花岡鉱山も、1944年6月末日および同年10月4日付で秋田県警察部長から華人の取締・管理について指示を受けており、鹿島組花岡出張所には派出所が置かれて警官1人が常駐し、大館警察署の後藤健三巡査部長や花岡警部補派出所の警官が毎日のように華人労務者が居住していた同出張所の「中山寮」や作業現場を巡視していた[2]。
1944年7月13日には内務省・厚生省の官僚や警察関係者など20数名が花岡鉱山を訪問し、その際に内務省の本間嘱託は、宿舎の設備や布団、食糧の配給などが多すぎ、贅沢すぎる、華人を放任しており、言うことを聞き過ぎ、甘やかしすぎている、作業効率が低いのでもっと働かせるように、などの指示をした[3]。花岡出張所の作業現場では、中国戦線から帰還した傷痍軍人5人が「輔導員」として警察的な管理・監督を行い、ほか3人が輔導員に類した仕事をしていた[4]。
鹿島組花岡出張所の華人労務者は、中山寮の伊勢寮長代理や、現場で華人労務者の監督・監視にあたっていた輔導員による食糧の横領によって配給予定量の食糧を与えられず、休日なしで毎日長時間の重労働に従事し、何か気に入らないことがあったときや作業が滞ったときなど日常的に輔導員からの暴行を受け、病欠者が多くなると食糧の配給が減らされ、衣料品の支給も少なく中山寮の建物・設備が粗末で冬場の寒さがしのげないなど、劣悪な生活・労働環境に置かれていた[5]。
- 藤田組・花岡鉱山の「東亜寮」の華人労務者に比して、鹿島組花岡出張所の中山寮の華人労務者は身体や栄養の状態が悪く、病人も多かったが、警察は華人労務者を病院に入院させないように通達しており、鹿島組は医師(免許のない人物もいた)を中山寮に派遣していたが、満足な治療はなされず、仮病による労務放棄の防止に重点が置かれていた[6]。
- 中山寮には食糧が豊富にあり、鹿島組花岡出張所の職員は豊かな暮らしをしていたとの証言がいくつかあり、鹿島組花岡出張所に対しては配給品は支給されていたが、華人労務者には配給されずに、出張所の関係者や輔導員たちによって物資のピンハネ・横流しが行なわれていた[7]。
- 華人労務者の中でも、軍需長として食糧の分配を担当していた任鳳岐は、中山寮の寮長代理だった伊勢や輔導員の小畑惣之介と親しくし、寮関係者による華人労務者用の物資の横流しに協力し、配給品を輔導員に渡していたため、華人労務者の仲間から恨まれていた[8]。書記として任と同じ内勤事務を担当していた劉玉卿は、食糧の出納も記録しており、任による食糧の横流しを咎めたため、小畑から暴行を受け机を片付けられるなどの嫌がらせに遭い、書記の仕事ができなくなっていた[9]。
1944年8月に連行されてきた第1次の華人労務者300人弱のうち、8ヶ月後までに約90人が死亡した[10]。工事に必要な人数が不足したため、1945年5月に第2次約590人、同年6月に鹿島組玉川出張所から第3次98人の華人労務者が連行されてきた[11]。また新たに到着した華人労務者は悪待遇に馴れていなかったため、病気に罹患したり、監督にあたっていた輔導員から見せしめの場合を含めて暴行を受けて負傷・死亡したりする人が多く、待遇改善を要求したところ却って苛酷な労働を課されるなどして、状況は悪化していた[12]。
1944年8月から1945年6月までの間に、花岡出張所に連行されてきた華人労務者の人数は、第1次-第3次の合計で986人-979人とされている[13]。うち約700人は元農民、約140人は元軍人、約100人は元商人だった[14]。
このうち、暴動事件までに、殺害されたり、病死するなどして、第1次297人のうち113人、第2次587人のうち23人、第3次98人のうち4人が死亡していた[15]。死者のほかにも、約50人が病気や怪我で病室に入っており、怪我で後遺症を負っていた人が生存者の約1/4に及んでいた[16]。
暴動事件
蜂起のきっかけ
- ↑ 西成田(2002)pp.287-297
- ↑ 西成田(2002)pp.367-368
- ↑ 西成田(2002)pp.368-370
- ↑ 西成田(2002)p.370
- ↑ 野添(1993)pp.19-23
- ↑ 西成田(2002)pp.370-372
- ↑ 西成田(2002)pp.372-381
- ↑ 石飛(2010)p.236、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
- ↑ 石飛(2010)pp.251-252、1985年11月の劉玉卿へのインタビューによる。
- ↑ 野添(1993)pp.19-23
- ↑ 新美(2006)p.304、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.22
- ↑ 野添(1993)p.22
- ↑ 新美(2006)p.304、大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.23、野添(1992)pp.221-223。新美(2006,p.304)では、出発時人数合計は299+589+98=986人、到着時人数合計は975人で内訳の合計294+587+98=979人と不一致。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は合計992人を「移入」したとしており、内訳の合計297+587+98=982人と不一致。大館郷土博物館(2014)は出発時人数986人で連行中の死亡数を7人としており、到着時人数合計は979人となる。野添(1993,p.23)は被連行者合計は297+587+98=982人、野添(1992,p.139)は、295+587+98=980人としている。1945年4月15日の鹿島組と華北労工協会の契約書の中では「契約数」は600人とされており、差分は連行途中での死亡・逃亡数とみられる(杉原,2002,pp.67-69)
- ↑ 西成田(2002)p.365
- ↑ 野添(1975)p.89、野添(1993)p.23。大館郷土博物館(2014)は、「中山寮」に連行された979人のうち暴動事件までに137人が亡くなっていた、としている。
- ↑ 野添(1993)p.23、野添(1975)p.89