長谷部竹腰建築事務所
長谷部竹腰建築事務所(はせべたけこしけんちくじむしょ)は、建築の設計監督を業とする会社で、現在の日建設計の源流である。1933年(昭和8年)5月、住友合資会社が工作部を廃止した直後に、工作部長であった長谷部鋭吉と同部建築課長であった竹腰健造が、工作部員27名とともに退職して創立した。
昭和2年の大恐慌の後も久しく不況は続き、昭和5年には日本の金輸出解禁を断行した影響と、アメリカの大恐慌の世界的影響が重なり深刻な不況に陥る。住友の諸事業もこの例外ではなく、人員整理を行わなければならなかったが、住友ビルディングの建設が終わり、また東京丸の内に建設中であった東京住友ビルディングが完成に近づいて仕事の閑散になっていた工作部が、ここで第一にその対象となった。
住友合資会社は、昭和8年1月ついに工作部を廃止して人員を整理し、これをもとのように営繕課1課とすることを決定した。部長長谷部鋭吉は、著名な建築家でゆたかな芸術性とキリスト教の信仰を持つ温厚寡黙な人柄で[1]、対外折衝などには適していなかったので工作部解散についての処置は多く竹腰健造の肩にかかった。
長谷部と竹腰は、工作部員の離散を見るに忍びないので、自らも住友を離れ、別に建築設計事務所を設立して部員とともに活路を開くことを決意し、住友へこのことについて諒解を求め、援助を乞うた。
ちょうどこのころ、工作部は北浜の大阪株式取引所(現大阪証券取引所)の新築についてその建築設計を委託されていた。
これはもと住友銀行営業部長であった大阪株式取引所理事長浜崎定吉からの懇請で、外部の仕事には関係しない慣行を破って特に応諾したものであった。
これを聞き知ったいくつかの建築設計事務所から、市中の同業者を住友が圧迫するのは道義的でないという抗議を受けた。住友は、長谷部、竹腰らの独立して建築事務所を設立する建議がこの問題の解決にもなるので、彼らが独立して始める建築事務所は資本金10万円の株式会社とし、さしあたって住友合資会社で5万円を出資、後に経営が成り立たないときはふたたび5万円を出資してこれをもって限度とする、株式総数2000株のうち、長谷部、竹腰にそれぞれ300株ずつ合計600株を貸与する、なお2人の身分は当分嘱託として合資会社に残る、という案を示した。2人は快諾して、ここに新会社発足が決定した。
昭和8年5月長谷部ら29人は住友銀行船場支店の4階の1室を借りてここに移り、新会社設立の準備をすすめた。そして6月株式会社長谷部竹腰建築事務所が創立される。
長谷部と竹腰は共に常務取締役につき、住友合資会社総務部長兼経理部長大屋敦と総務部営繕課課長増谷平八が取締役に、住友銀行常務取締役岡橋林と合資会社商工課長小林晴十が監査役に就任した。
その後、1944年には、住友に合流し不動産部門も有する住友土地工務株式会社となるが、1945年からは商事部門を有する日本建設土地産業株式会社となる。戦後長谷部は顧問としてかかわり、竹腰は公職追放の憂き目にあうが、聖心女子大学建設の際に顧問として迎えられることになる。
1950年からは建設産業部門のみ分離し、日建設計工務(1970年には日建設計)が設立されるにいたる。
脚注欄
- ↑ 『住友商事株式会社史』住友商事株式会社、1972年12月発行(160ページ)
参考文献
- 『建築MAP大阪/神戸』toto出版、1999年6月発行(116ページ)
- 『住友商事株式会社史』住友商事株式会社、1972年12月発行(160ページ)
主な作品