龍運鉱山

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龍運鉱山(りゅううんこうざん)、またはヅングン鉱山(Dungun mine)は、かつてマレー半島トレンガヌ州ドゥングン川(Sungai Dungun)の上流にあった鉱山。鉄鉱石の産出量は、1938年時点で約82.0万トンないし58.6万トン、埋蔵量は、1937-39年時点で約5,100万トン、1942年時点で2,000-10,000万トンと推定されていた[1]

鉱石は山元から、ドゥングン川河口のクアラ・ドゥングン(Kuala Dungun)の上流約3キロメートルにあるチェリジャー(Che Lijah)まで、私設の単線鉄道によって運搬され、チェリジャーからによって川を下り、河口の沖合いで積荷されていた[2]

元々、鉱山はトレンガヌ王族が所有していたが、1917年に日本鉱業の前身にあたる久原鉱業が鉄山を買収[3]。その後、英国の管理組織変更などがあり、同社は改めて1924年に探鉱権、1926年に採掘権の申請を行い、認可を得た[3]

久原鉱業は1927年に八幡製鉄所と年25万トンの売買契約を締結し、1929年に事業を継承した日本鉱業が1930年から本格的に採掘を開始、1930年代後半には採掘量においてマレー半島の鉄鉱山の中でも第1位を占める大規模な鉱山だった[4]

龍運鉱山や太陽鉱山などのケママン地方の鉄鉱山は、山元に近い川の上流の水深が浅いため一部鉄道による輸送を要したほか、海が遠浅のため大型船が沖合に停泊して荷役を行っており、12月-3月にはモンスーンのため沖合いでの荷役が困難になり、その間休鉱を余儀なくされるため生産費が嵩み、競争上不利な面があった[5]

また龍運鉱山では、1938年頃までに一時悪性のマラリアが流行して多数の犠牲者を出したことがあり、周囲の雑木林や雑草を切り払って蚊の発生を防止した[6]

参考文献

関連文献

  • 日本鉱業株式会社五十年史編集委員会(編)『五十年史』日本鉱業、1957年、NDLJP:2485273 (閉)、p.693[3]
  • 藤村(1934) 藤村幸一「馬来半島龍運鉄山に就て」『日本鉱業会誌』no.595、1934年11月、pp.909-921、DOI 10.11508/shigentosozai1885.50.909

脚注

  1. 奈良(1980)pp.8,9、田中館(1942)pp.158-159。田中館(1942)p.155では、埋蔵量を1,000-2,000万トンとしている。
  2. 田中館(1942)pp.158-159、奈良(1980)p.8、南洋及日本人社(1938)p.404
  3. 3.0 3.1 3.2 奈良(1980)p.10
  4. 奈良(1980)pp.5,7,10、南洋及日本人社(1938)p.403
  5. 奈良(1980)p.31、時事新報(1932)、田中館(1942)p.160。
  6. 南洋及日本人社(1938)p.404