本因坊道策

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本因坊道策(ほんいんぼう どうさく、1645年(正保2年)-1702年4月22日(元禄15年3月26日))は、江戸時代囲碁棋士。四世本因坊名人碁所2004年日本棋院囲碁殿堂入り。本因坊算悦本因坊道悦門下。

経歴

父山崎七右衛門、母ハマの二男。石見国馬路(現島根県大田市仁摩町馬路)に生まれる。7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で江戸へ下り本因坊算悦門に入る。本姓は山崎、幼名は三次郎。1667年(寛文7年)に御城碁初出仕し、同じく初出仕で1歳年長の安井知哲に白番5目勝であった。算知と道悦の二十番碁が1675年(延宝3年)に終了すると、算知は碁所を返上し、1677年に道悦も退隠するとともに道策を碁所に推挙した。この時道策は2世安井算哲、井上道砂因碩に向先、安井知哲安井春知に向先二、林門入に向二子の手合であったことから、反対意見がなく、寺社奉行より碁所を命ぜられた。翌年5月に碁所の証書を下附され、これが最初の碁所の証書となった。 1682年(天和2年)、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は、国内外に威名の高い本因坊四世道策のことを耳にして、国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)を日本に送り、薩摩2代藩主、島津光久(しまづみつひさ、、1616年(元和2年)~1694年(元禄7年)の頃、島津家を通じて道策との対局を願い出た。道策はこれを受けて島津藩邸にて対戦した。道策は四子の手合割を指定した。親雲上は、琉球第一の名手であり、四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけて負ける訳にはいかない。置碁には珍しい力のこもった勝負であったが、道策は随所に妙手を繰り出し、完全に黒を翻弄し、道策はこの碁に14目勝ちを収め、人々を驚嘆させた。濱比賀はもう一局を求め、今度は濱比賀2目勝となった。その後濱比賀は免状の発行を望み、道策は「上手(七段)に二子」すなわち三段の免状を与えた。島津公よりこれへの謝礼として、白銀70枚、巻物20巻、泡盛2壷を、濱比賀からは白銀10枚を贈られた。 1696年(元禄9年)まで御城碁を勤め、14勝2敗であり、2敗はいずれも二子局での1目負けであった。1683年(天和3年)の安井春知との二子局1目負の碁は、道策一生の傑作として知られる。1688年(元禄元年)、京都寂光寺本因坊算砂追善碁会を開く。


棋風・人物

  • 呉清源九段は、いまその譜を並べ直してみても、敬服に値する棋士であるとした。
  • 当時の古風な力碁に対して合理的な思考を打ち出して、近代的感覚の第1歩を踏み出した功績は大きいとされる。
  • 後世「棋聖」とされ、史上最強の棋士の評価がある。
  • 手割による考え方から、相手を凝り形にする手法を好んで用いた。
  • 石を外まわりに導き、石をいっぱいに働かせて打つ棋風である。
  • 小林光一は道策に私淑しているため、息子が生まれたら「道策」と名付けたいと考えた時期がある。
  • 圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称された。

門下生

本因坊道知小川道的佐山策元桑原道節熊谷本碩星合八碩

参考文献