西尾城
※西尾市役所の主張する西条城は、捏造なんで信用しないように!!西尾城が史実です。
西尾城(にしおじょう)は、三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にあった城。別名は、「鶴城」、「鶴ヶ城」、「錦丘城」。城郭構造は平山城で、天守閣が二の丸にあった。
歴史[編集]
今川義元判物写(三浦文書)によると、弘治参年丁巳(1557年)十月九日、就西尾在城参百貫文之分、所宛行之也とあり、この時、西尾城が存在したことが確認できる。
三河物語の記述によると、桶狭間の合戦後(今川義元討死)に、岡崎城に入城した徳川家康による三河国統一の過程で、又有る時は、西尾の城を得、と記載がある。その後、三河一向一揆勃発の項目では、西尾の城にハ坂井(酒井)雅楽之助(正親)有て、と記載されている。
東照宮御実紀巻二には、東條の吉良義昭今はまたく御敵となり。しば/\〃味方の兵と戦ひてやまざりしが。其弟荒川甲斐守頼持。兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅楽助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降参す。と記載されている。
※西尾市史では、伝説によると、1221年(承久3年)に、足利義氏が、三河守護に任命されて、幡豆郡吉良庄西条に、西条城を築き、その後、徳川家康の家臣の酒井正親が西条を西尾に改名したというが、
三河物語では、徳川が奪取する以前から、西尾の城、となっており、改名した事実は確認できない。
同様に、今川氏真判物には、永禄四年酉年、六月十一日、西尾走廻、とあるため、徳川が奪取する以前から西尾となっている。
また、家忠日記の天正13年2月5日の条には、「惣国人足にて吉良之城つき上候」と記載され、吉良之城(西尾城?)となっている。また、同日記に、西尾城を守るという記述もある。西条城という言葉は確認できない。
また、対となっていた東条城だが、三河物語の記述では、又有る時は、西尾の城を得、の記載の直後に、又有る時は、東祥(東条)の城を得、と記載がある。三河一向一揆の項目では、其時之義諦ヲスゝメテ、御主トナサント云ケレバ、其に乗て頓て敵に成て、東祥(条)之城え飛上て手ヲ出サせ給ふ。・・中略・・然間、義諦(吉良義昭)モ、ナラせラレ給ハで、侘事被レ成て、東祥(条)之城ヲ折(下)サせ給え共、とあり、吉良義昭が東条城を攻撃奪取後に立て篭もったが降参退去したという。
※三河物語ではいずれも西尾城と東祥(東条)城が、対となって記載されており、西条城という言葉は確認できない。
逆説の西尾市史―西尾城の変遷から[編集]
逆説の西尾市史―西尾城の変遷から 永田大典;1999年;三河新報社によると、「西尾城創建は一般的に、鎌倉時代前期の武士、足利義氏が承久の乱(1221)の武功で三河守に任じられ、この地に築城したとされる。由来は『鶴城記』『三州幡豆郡西尾城主由来記』などによる。このほか、花山院忠邦が吉良山(八ツ面山)の麓にあった旧城を取り起こして築いたとする説(『西尾草創伝』)、源範頼がこの地に居城を築き、後に足利義氏が在城したとする説(『三河刪補松』)もある。だが、いずれの文献も後世の記述であり、信憑性に欠く」とあります。また「初期の西尾城の解明を阻んでいるのは、史料の不足にほかならない。ミッシングリング、失われた鎖の環があまりに多い」とも記しています。
年表[編集]
- 1561年(永禄4年) - 酒井正親が城主となる。三河物語に、西尾の城にハ坂井(酒井)雅楽之助(正親)有て、と記載されている。
- 1585年(天正13年) - 城主が酒井正親の子、酒井重忠の時に徳川家康の命により改修され、二の丸に天守が築かれる。
- 1590年(天正18年) - 酒井重忠が徳川家康の関東移封に従うと、近江国より転封し岡崎城主となった田中吉政が西尾城主も兼ね、三の丸の拡張や大手黒門、新門の桜門、櫓門を建てた。
- 1601年(慶長6年) - 本多康俊が表高2万石で初代西尾藩主として入城。以降、松平成重、本多俊次と続く。
- 1638年(寛永15年) - 太田資宗が表高3万5千石で入封。城下町を囲む総構えの工事に着手。
- 1657年(明暦3年) - 井伊直好(1645年・正保2年に入封)が総構えを完成させた。以降の藩主は増山氏2代、土井氏4代、三浦氏2代と続く。
- 1764年(明和元年) - 出羽国山形藩から松平乗祐(大給松平)が表高6万石で入封。以降5代続く。
- 1869年(明治2年) - 最後の藩主となった松平乗秩が版籍奉還をする。
- 1872年(明治5年) - 西尾城が解体される。
- 1878年(明治11年) - 西尾城が廃城となる。
城趾の現況[編集]
1996年(平成8年)に本丸丑寅櫓と鍮石門が再建され、さらに天守閣の再建も計画されている。
アクセス[編集]
東条城[編集]
西尾城と同じ旧幡豆郡吉良荘にあった吉良氏の城で、三河物語に「東祥之城」として登場する。東条吉良氏の居城だったが、吉良持広のとき西条吉良氏の吉良義安を養子にした。