清洲同盟
清洲同盟(きよすどうめい)とは、戦国時代の永禄5年(1562年)に尾張の戦国大名・織田信長と三河の戦国大名・徳川家康との間で結ばれた軍事同盟。それぞれの一文字から織徳(しょくとく)同盟、尾三(びさん)同盟ともよばれる。
同盟[編集]
結ばれるまでの経緯[編集]
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれると、それまで今川氏に従属していた徳川家康(当時は松平元康)は、凄まじい勢いで勢力を拡大する隣国の織田信長と同盟を結んでいたほうが得策と考えた。そこで、当時は家康の片腕であった石川数正を交渉役として、信長との同盟を模索する。
一方の信長も、美濃の斎藤氏と交戦している経緯、そして関東の北条氏康や甲斐の武田信玄に対する抑えへの対抗策から要出典家康との同盟を考えており、家康の母方の伯父に当たる水野信元らに交渉を命じていた。
しかし、両家は織田信秀(信長の父)と松平広忠(家康の父)が宿敵関係で戦っていた経緯から、両家の家臣団の間での遺恨も強く、同盟はなかなかまとまらなかった。正式に同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後である。このとき、家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されたことから、これは清洲同盟と呼ばれているのである。
対等同盟から従属同盟へ[編集]
信長と家康は、はじめは対等な盟友であった。永禄10年(1567年)には信長の娘・五徳姫と家康の嫡男・松平信康が結婚し、二人の関係はますます深まった。
軍事的には織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛したときや朝倉氏追討戦、姉川の戦いなどで家康は信長に対して援軍を派遣している。また、信長も家康に対して三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、対武田氏戦で援軍を派遣している。このように、お互いの利害が一致して信長は将軍・義昭によって信長包囲網が敷かれたときの危機的状況から家康の援軍を、家康は武田信玄という強敵との戦いを勝ち抜くということから信長の援軍を求めたのである。
しかし、信玄が病死した頃から、信長と家康の関係は微妙に変わり始める。元亀4年(1573年)に信玄が病死したことから、信長と対等に戦えるだけの人物はこの世にいなくなった上、武田氏の脅威も半減し、信長包囲網も瓦解した。このため、信長は家康との同盟がなくても武田氏と対等に戦えるようになったのである。そして、信玄没後の信長は室町幕府をはじめ、浅井氏や朝倉氏、伊勢長島や越前の一向一揆衆を次々と滅ぼして勢力を畿内・西国・北国に拡大する。天正6年(1578年)に上杉謙信が死去すると、もはや信長の脅威は完全に無くなることとなる。この頃になると、信長の領土は畿内の大半から北陸・中国・四国・東国の一部を支配するという強大なものとなっていた。それに対して家康は、三河と遠江の二ヶ国だけを支配する小大名でしかなく、もはや家康の力など必要としなくても信長には天下を統べる実力を保持していた。このため、対等な盟友と関係は形式的なものとなり、実質的に家康は信長の臣下という立場になり家康もその立場を甘んじて受け入れた。
そして天正7年(1579年)、信長が家康に対して、嫡男の松平信康とその生母である築山殿の処刑を要求してくる。理由はこの両名が武田勝頼と内通していたという訴えが五徳姫より信長にもたらされたためであるが、当時、もはや盟友とは名ばかりであり、実質的に織田を盟主とする従属国であった家康には信長の要求を拒否し、同盟を破棄して戦うだけの実力も無かったため、家康は要求に従って信康と築山殿を処刑するしかなかったと言われている(もっとも、この時期信康と家康、厳密に言えば家康家臣団との対立が激しくなっており、信康粛清は信長の要求ではないとする説が近年では有力視されている)。
天正10年(1582年)、信長・家康の同盟軍は武田領に侵攻し、武田勝頼を天目山に滅ぼした。その後の武田氏旧領の分割において、信濃は織田家臣の森長可と毛利秀頼、甲斐は河尻秀隆、上野国は滝川一益にそれぞれ与えられ、家康には駿河一国が与えらた。しかしそれは、家康が安土城にいる信長のもとに赴いて、信長から賜るという形で与えられている。この頃になると、家康は他の織田部将のような軍事官僚や代官としての扱いではなかったものの、もはや信長を盟主とした臣下の立場に成り下がってしまった。
同盟の終焉[編集]
天正10年6月、本能寺の変が起こり、信長が横死することで、同盟関係は自然消滅した。本能寺の変の直後に甲斐において河尻秀隆が武田氏の遺臣の一揆により横死したのは家康が暗躍したためともいわれるが、信長の死に乗じて甲斐・信濃に侵攻し、おなじ意図をもって旧武田領に侵攻した北条、上杉とのあいだに騒乱を起こした(天正壬午の乱)。
信長死後、織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉が台頭すると、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて信長の後継者を自称する織田信雄に対して家康は援軍を派遣する。しかし信雄には父・信長のような器量も実力もなく、信雄と家康の関係はどちらかというと家康のほうが優位な立場にあった。
戦況は信雄・家康連合に優位であったものの、信雄が領国としていた伊勢伊賀を秀吉に占領され講和要求に屈したため、合戦の大義を失った家康は家臣内の分裂や石川数正の秀吉側への出奔、秀吉直々の懐柔もあり、天正14年(1586年)10月27日大坂城で秀吉と謁見することで清洲同盟以来の臣従関係を秀吉に対しあらためることとなった。
同盟の意味[編集]
「信義」という言葉が紙切れに近かった戦国時代において、20年間も同盟関係が維持されたのは(後半10年間が完全な従属同盟であったことを考慮しても)異例のことである。また、この同盟は信長にとっては、後顧の憂い無く上洛に成功して西方に勢力拡大に乗り出す事が出来るようになった。一方家康は武田・北条などの強敵に阻まれてそれ程の勢力拡大こそは果たせなかったものの、苦境においても愚直にも信長への信義・忠誠を貫いた姿勢が内外における名声を高めて後年の天下取りに役立ったと言われている。その後の日本の歴史を大きく左右することになった同盟といえるのである。