Yourbooks:義と友情に殉じた漢・平塚為広の関ヶ原
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為広の関ヶ原 平塚為広の前半生については不詳であり、生年等についても定かではありません。 (一説では明智光秀に仕え、本能寺の変に参加したとも言われています)
やがて為広は、豊臣秀吉に馬廻衆として仕えました。 為広は小牧長久手の戦いや小田原攻めで武功を挙げ、朝鮮出兵では名護屋に駐屯しました。
豊臣秀吉は、そんな為広を信用していたのでしょう。 為広は1595年に5000石(一説に8000石)を与えられ、1598年の醍醐の花見では秀吉の側室の護衛に抜擢されました。 また、1598年の秀吉の死後、金5枚を遺品として受領しました。
その後、為広は豊臣秀頼に仕え、関ヶ原の戦い直前、大谷吉継と共に石田三成に諫言します。 しかし、石田三成はその諫言を聞き入れずに挙兵してしまいます。 そのため、為広は大谷吉継と共に西軍に属し、伏見城を攻めました。
関ヶ原本戦の9月15日、為広は大谷吉継の隣に布陣しました。 この際、病身の吉継に代わって大谷勢(の一部)の指揮を執っていたとも言われています。
戦いのさなか、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷軍を攻め始めます。 為広は自らも武器をふるって奮戦し、防戦に努めました。 ですが、脇坂安治・朽木元綱ら西軍諸将が次々と裏切った為、隊は壊滅状態になってしまいます。
為広は覚悟を決めると、討ち取った首の一つに辞世の句を添えました。 そして、それを大谷吉継に届けるように部下に命じると、自らは小川祐忠隊に突撃し、討死したのです。
辞世の句を添えた首は、無事に大谷吉継の元に届きました。 それを見た吉継は、「祝着至極である。改めて冥土で再会しよう」と言い、切腹したと言います。
最後に、下が為広の辞世の句です。
名のために棄つる命は惜しからじ つひに止まらぬ浮世と思へば