サレジオ学園首切り事件
サレジオ学園首切り事件は、1969年(昭和44年)4月23日、神奈川県で発生した殺人事件。
事件概要
1969(昭和44)年4月23日16:20、川崎市向ヶ丘1765の私立サレジオ高1年の加賀美 洋君(15)が学校の校庭の裏にある、250メートル離れて東名高速をくぐった向かって左脇にあたるつつじ畑で首を切られたと、加賀美と一緒にいたという同じく1年の石川(15)が学校に訴え出た。
石川も2ヶ所を怪我しており、3、4人の男に襲われたと証言した。被害者は47ヶ所を滅多刺しにされて発見され、首は死後に切断された様子で、凶器のジャックナイフが見つかった。
当初から石川が疑わしいという声があったものの、学校側では捜査員が校内に立ち入る際にもヨハネ・ペトゥ校長自ら1人1人首実検してから通すという対応で、少年の取り調べにも校長や父親などを立ち会いの下で行うように警察に要求、受け入れないと取り調べはさせられないとするなどの状況もあり、遅々として捜査が進まなかったが、4月25日6:15、警察署内での取り調べへと切り替えたところ、石川は犯行を自供した。
石川は自分のやったことが怖くなって、自身の左肩をナイフで二回切って襲われたかのように偽装し、凶器のナイフは現場近くの土の中に埋めて隠した。そして車で通りかかった人に、3人の不良に襲われて友達が殺されたと嘘をついた。二日後の4月25日にAは警察署で取り調べを受けたが、巡査部長らに「これまでの供述は矛盾だらけだ。本当のことを言いなさい。」と言われ、午後6時15分に加賀美君の殺害を自供した。
石川は被害者におわびの言葉を述べたが、20:30には出されたカツ丼を残さず食べるなど余裕も見せていた。
石川の父はセミナー会社社長で、母は病弱だったという。祖父は樺太帰りで銀座でかつて貸金業をしていたが、石川の父は祖父の仕事を嫌い、事業は受け継いでいなかった。
石川は小学校から高校までミッションスクール、目黒の私立星美学園小からサレジオ中、高と進んでいた。テニスが得意で図書委員も務め、妹より背丈が低い150センチと小柄で太っていたという。性格は陽気で、弁護士になるのを夢としていて、中学時代から六法全書を愛読書としていた。
しかし中学時代には些細な喧嘩から、同級生を突き飛ばして腕の骨を折るといった事件も起こしていたが、表沙汰にならないように処理されていた。石川は加賀美君とは中高とずっと同じクラスで、傍目にはむしろ親しく見えたという。加賀美君は石川より無口だったが、170センチとやや大柄で、他人の欠点を付く毒舌で笑いをとるのを得意にしていて、石川をよくからかいの対象として同級生の笑いをとっていたが、それは殺人に至るまでのいじめと呼べるようなものではないと周囲には思われていた。 石川はかねてから加賀美君の見下げたものの言い方が鼻についており、表面上は親しく付き合いながらも不満が鬱積していたという。
背中に毛虫を加賀美君に入れられるなどの仕打ちも、ひどく不快に思っていた。中学時代に石川がその体型からつけられた「コブタ」というあだ名も、当時流行していたエースコックのラーメンテレビCMの「ブタブタコブタ、お腹がすいた、ブタブタコブタ、こいつに決めた」と連呼する囃子文句から加賀美君が付けたのではないかと、同級生たちは思っていたほどで、加賀美君は悪意は無かったとしても、自分の気にしている身体的特徴を笑いのネタにされた石川の心の奥底には加賀美君への憎悪が滓のように溜まっていたともいう。
さらに高校でも同じクラスとなった事で、石川は新しく高校で一緒になった別な中学からの進学者にも、加賀美君が石川に対して中学時代にしていたからかいが伝染し、バカにされるのではないかとひどく恐れていた。 事件当日も14:55、1人の生徒が石川の辞書を取り上げて嫌がらせをしたのを、加賀美君が追い討ちをかけるように横からビニール袋に入れた毛虫を辞書に挟むふりをして周囲の笑いをとっていた。腹に据えかねた石川は加賀美君を散歩に呼び出したが、加賀美君は掃除当番だったため、先に寮に帰った石川を加賀美君が迎えに行く形で、15:30、2人は事件現場へと向かった。
石川は加賀美君を脅してやろうと4月に鷺沼駅近くの商店で万引きしたナイフを隠し持って出たが、そのナイフに気付いた加賀美君は石川を畏れるどころか、「いいナイフじゃねえか」とさらにバカにするような口調で応じたため、石川の憎悪はますます募ったという。
現場に着いた2人だったが、先に石川は東南の土手に登り、加賀美君は1人で西側の土手に登った。石川は加賀美君が土手から降りてきたらナイフで刺してやろうと思い、待ち構えて被害者の後ろから首筋にナイフをあてがったところ、加賀美君が振り向いたので、トドメを刺そうと滅多刺しにしたという。
そして殺害した加賀美君が、万一、生き返ったりしたら自分の犯行がばらされるという恐怖に取り付かれ、10数分かけて首を切断、石川は他人の犯行を装うため、自分自身もナイフで傷をつけて、学校へ「通り魔殺人」の被害者として駆け込んだのだった。三浦綾子は「人間は底なく恐ろしいものだ」と感想を述べている。
加賀美君と石川は4月7日から学修寮での生活を始めていた。寮での生活は6:30に起床、そしてミサが行われ、外泊は月に1回のみ、門限は20:00というものだった。
漫画は置いておらず、テレビや週刊誌は禁止、なお寮生によれば寮のテレビは届出をすれば視聴はできたが、暗黙の了解のようなものがあり、結局、年に1度見れればいい方であった。
寮では4人1部屋の生活だったという。4月17日にはキリスト教徒であった加賀美君と一緒に石川はカルロ・キエザ神父の下に出向き、洗礼したいと申し出ていた。その心境についてはよくわからない。寮の日記に少年は4月21日、「どことなくなじめないところがある」と寮生活の感想を述べながらも、早くこの生活になれて自分のものとしたいとの記述を残していた。
出所後
- 得意ジャンル - 民事全般及び刑事
- 趣味 - ヨット
加賀美君の家族には石川の父から2年間、月2万円ずつ送金され、それが受けた補償のすべてであった。石川の父はアパート経営をしようと建築したばかりの家作から財産からすべてを、事件以降に突然、判明した祖父の借金のカタとして、事件を知ってより入れ代わり立ち代わり出現した暴力団関係者などに取り立てられて失ったという。
石川は初等少年院を出所したのち、進学して大学院を修了し弁護士となった。一方、遺族は家庭崩壊寸前の状態に陥っていた。石川の父親は、加賀美君の遺族に対し和解金計720万円を毎月2万円ずつ支払うとの示談書を交わしていたが、40万円ほどを払って以降は支払いを滞らせ、1998年に死亡した際には680万円が未払いのままであった。
事件後、石川は少年院に送られたが、名前を変えて社会復帰して中学時代の夢を実現した、と1997(平成9)年の「文藝春秋」誌上に掲載された。
2003年頃ニュースステーションにて久米宏と対談。画像、音声処理ありだった。
「謝罪も、賠償金の支払いも、一切してないし、するつもりもない。未成年でしたから、前科なんて付きませんよ。私が弁護士をしてるのは私の能力だし、その収入は私と家族のために使います。法的にみて、全く何の問題もありません。幸せに暮らしてます。少年事件は匿名性が極めて高いので、誰もこのことは知りませんしね。」
殺した少年と、その遺族に対する思いについて聞かれても、なんの思いもないと語った。
2006年、事件を取材した奥野は著書『心にナイフをしのばせて』を出版し、ノンフィクションとしては異例の8万部を超える売上となった。一方、石川は個人情報がインターネット上で流出するなどの被害を受けた。石川は同年10月に遺族へ謝罪の手紙を送り、残された和解金を支払う意思があることを伝えている。手紙には、遺族に面会して直接詫びたい旨が書かれていたという。しかしその後石川は弁護士を廃業し、石川からの連絡は途絶えた。
『心にナイフをしのばせて』への批判
少年犯罪データベース主宰の管賀江留郎は奥野の著書について、少年に対するいじめが存在しなかったかのように記述するなど精神鑑定書の引用方法が恣意的かつ悪質であり、「鑑定書の一部だけを引用することによって少年を怪物に見せようとする意図があるのではないか」とした上で、「一方の側に立って精神鑑定書の都合のいいところだけを出すようなやり方で」刑期を終えて以降罪を犯していない個人を糾弾すべきではないと批判している。
裁判
【事件番号】横浜家決昭和44年9月3日 昭44(少)2461号 家庭裁判所月報22巻7号78頁