民主党政権
2009年7月21日、衆議院が解散され、事実上の任期満了選挙に突入する。鳩山由紀夫はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、連立を見据える社民党、国民新党と合わせて過半数の議席確保を目指した。マニフェストには、前回の参院選で訴えた内容とほぼ変わらぬ政策が盛り込まれた。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられた。
結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、結党以来の悲願であった政権交代をついに実現する。308議席は、一つの党が獲得した議席数としては過去最多であった。また比例区の得票も2984万票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。
第172回国会で鳩山由紀夫内閣が正式に発足し、社民党・国民新党との連立政権が誕生する。党幹事長に小沢一郎、内閣官房長官には平野博文が起用された。
鳩山内閣は当初、70%を超す高い支持率を得てスタートした。CO2削減目標の引き上げ、自衛隊インド洋派遣の撤退、公共事業の見直しなどの政策を推し進めるが、同時に小沢幹事長と鳩山自身に政治資金収支報告書の虚偽記載問題が再燃する。「政治とカネ」を巡る不信に加え、鳩山よりも小沢に実質的な権力が集中する「二重権力構造」や、選挙支援と引き換えに予算配分を行う小沢の政治手法などが党内外で問題視されるようになると、内閣支持率は一転、下降の一途を辿ることとなる。
そんな中、行政の無駄をあぶりだすことを目的に事業仕分けが行われ、これが世論から概ね好意的な評価を受ける。しかし子ども手当などの新たな歳出や、不況による税収落ち込みもあって平成22年度予算では過去最大となる44兆円の国債発行をするに至った。
2010年1月、くすぶり続けていた政治資金収支報告書の虚偽記載問題で、石川知裕衆議院議員を含む小沢一郎の公設秘書と元秘書ら3人が逮捕される。3月には小林千代美衆議院議員の選対関係者2人も政治資金規正法違反で起訴され、民主党は厳しい批判を浴びることとなった。特に小沢に対しては幹事長、又は国会議員の辞職を求める声が世論の8割を超えるまでに高まっていた。
同時期、並行して深刻な問題となり始めていたのが、アメリカ軍の普天間基地代替施設移設問題であった。移設先を「最低でも県外が期待される」と総選挙時に明言していた鳩山は、沖縄及びアメリカが合意していた辺野古沿岸部へ移設する現行案を白紙に戻し、県外・国外移設の道を探っていた。しかし5月、移設先を見つけることができず、これを断念。失望した沖縄が現行案の辺野古沿岸部案をも受け入れ撤回する事態に発展し、移設問題は大きく後退してしまう(この際、あくまで県外移設を求める社民党が連立を離脱する)。
このほか、野党時代の民主党の主張と、与党としての民主党の能力や政策との乖離が徐々に明らかになるにつれ、鳩山内閣への国民の不信はピークに達し、来る参議院選挙では20議席台に留まるという衝撃的な事前調査も明らかとなる。鳩山は事態打開のため、一連の問題の責任を取る形で首相を辞任した。
菅政権、党内対立の激化[編集]
後継の代表選挙は、まず小沢の影響力排除を目指す菅直人がいち早く出馬を決め、小沢と距離を置く議員から支持を受ける。これに対し党内最大勢力を誇る小沢グループは中立派として出馬した樽床伸二を支持した。6月4日に行われた両院議員総会では、小沢グループ以外の票を固めた菅が圧勝した。この代表選では小沢の処遇を巡って党を二分する激しい攻防が繰り広げられ、党内には深刻な対立が残ることとなった。
菅内閣は発足にあたり、党幹事長に枝野幸男、内閣官房長官に仙谷由人など、主要ポストにいずれも非小沢の急先鋒を据えた。政策面では「強い経済、強い財政、強い社会保障」を一体的に実現させていく「第三の道」を打ち出し、財政再建と雇用創出を最大の国家的課題とする方針を表明。併せて消費税率見直し議論の提起、経済効果の薄い一部マニフェストの修正に着手するなど、鳩山内閣の政策方針からは大きな転換を図った。発足当初、60%を超える内閣支持率を記録する。
しかし、2010年7月11日投開票の第22回参議院議員通常選挙では現有の54議席に届かず44議席獲得に留まり、参議院で過半数を失うねじれ状態に陥った。小沢グループは参院選敗北の責任は選挙前に消費税議論を提起した菅にあるとし、総理退陣や枝野幹事長の更迭を迫る。しかし国民の7割超は菅の続投を支持し、これを背景に菅も応じる姿勢を見せなかった。
こうした中で迎えた9月の代表選挙に小沢が出馬する。小沢による事実上の倒閣宣言であった。財政再建とマニフェスト一部修正を目指す菅陣営には菅、前原、野田の各グループに加え岡田克也が、消費税議論封印とマニフェスト堅持を掲げる小沢陣営には小沢、鳩山、羽田、樽床の各グループが参集し、結党以来最も深刻な党内抗争が始まる。新聞主要四紙が揃って小沢と鳩山を批判し、世論調査でも菅支持が小沢支持の4倍超を記録するなど、戦いは次第に菅優勢へと傾いていく。9月14日、地方議員票と党員・サポーター票で大差を付けた菅が圧勝で再選を果たす。幹事長には外務大臣から転じた岡田克也が再登板となり、閣僚からは小沢グループの議員は一掃された。この戦いにより党内の亀裂は更に深刻化することとなった。
尖閣諸島中国漁船衝突事件の対応を巡り仙谷由人内閣官房長官と馬淵澄夫国土交通大臣に対する問責決議が参議院で可決されるなど政局は混乱。2011年1月14日に菅第2次改造内閣が成立。3月11日には東日本大震災が発生し、政権は震災復興と福島原発事故の対応に追われることとなる。
6月1日、「菅首相では災害復旧と復興、原発事故の処理に対応できない」との理由で自民党などが提出する内閣不信任決議案に対し、小沢に近い50人余りの議員が同調する意向を示したが、翌2日の採決前に開かれた党代議士会で菅が辞意とも取れる発言をしたことで小沢派は自主投票となり、不信任案は否決された。菅はその後、福島第一原発事故の対応にメドがつくまで続投する意欲を示したが、仙谷由人官房副長官ら党執行部内からも菅への退陣要求が出始めた。
8月26日に菅が退陣を正式に表明し29日に民主党代表選が行われることとなり、野田佳彦、海江田万里、前原誠司、鹿野道彦、馬淵澄夫の5人が出馬した。代表選では小沢と鳩山のグループから支援を受けた海江田が先行し、前原と野田が追う展開となった。第一回投票では海江田が最多の143票を得るが過半数には至らず、野田との決選投票では前原・鹿野陣営の支持を集めた野田が勝利し、第9代党代表に選出。
野田政権、消費増税と相次ぐ離党者[編集]
第9代党代表に選出された野田は、2011年8月30日の衆参両院本会議内閣総理大臣指名選挙において第95代内閣総理大臣に指名された。野田は代表選挙当時から消費増税を掲げたが、歳出削減が進んでないうえ、景気にも悪影響だとして党内の小沢グループや連立を組む国民新党などから反対意見が噴出した。
菅内閣の不信任案に賛成し、首相指名選挙で海江田万里を支持した松木謙公は著書の中で年内の新党大地への入党を示唆していたが、最終的に横峯良郎が一身上の都合により民主党から離党したため、横峯と新党大地の党員を中心に新党大地・真民主を結党した。さらに、民主党から離党した内山晃ら9人の衆院議員が新党きづなを結成。また、八ッ場ダム建設問題でも前原系の中島政希が離党した。このほか、民主党の増税路線に反発して民主党を離脱した佐藤夕子や先の菅内閣不信任案で造反し除名された松木謙公と横粂勝仁をあわせ、2011年の間だけでも民主党は14人の議員を失うことになった。
2012年に入り野田は消費税増税を断行しようと内閣改造を行った(野田第1次改造内閣)。