桜井王
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桜井王(さくらいおう、生没年不詳)は、奈良時代の皇族。大原真人の氏姓を賜ったことから大原桜井(おおはらのさくらい)とも呼ばれる。兄に高安王、弟に門部王がおり、子に大原継麻呂がいる。
『本朝皇胤紹運録』によれば天武天皇の曾孫で、長親王の孫・河内王の子とされる。しかしこれには異説もあり、『新撰姓氏録』には百済王(敏達天皇の皇孫)の後裔とされる。いずれにせよ彼には高安王(大原高安)・門部王(大原門部)という兄弟がいたらしい。
和銅7年(714年)1月、従五位下に叙位される。天平3年(731年)1月、従四位下に昇叙(以上『続日本紀』)。この間、時期は不明だが弾正尹(『日本高僧伝要文抄』第三石山大僧都伝)を務めたことがあり、また天平年間に遠江守として聖武天皇と交わした歌が残っている(『万葉集』8-1614)。天平11年4月、兄の高安王とともに大原真人の氏姓を賜り、大原真人桜井と名乗った。天平16年2月には大蔵卿の任にあり、恭仁京(現在の京都府木津川市に宮跡がある)の留守司を務めた。天平勝宝8歳(756年)11月頃は存命していたらしい(『万葉集』20-4478)。
在世中は文人として名声があり、六人部王(「むとべおう」と読み、元斎宮田形皇女の夫)・門部王・佐為王(橘佐為)らとともに聖武天皇の風流侍従を務めた(『藤氏家伝』下)。また『万葉集』の編纂にも何らかの形で関与していたともいわれる。
「遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首」
- 九月(ながつき)のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも(『万葉集』8-1614)
「大原桜井真人、佐保川の辺を行く時、作る歌一首」
- 佐保川に凍りわたれる薄氷(うすらび)の薄き心を我が思はなくに(同20-4478)