喜連川騒動

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喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、下野国喜連川藩で正保四年(1647)八月に起こった藩政の混乱であり一年後の慶安元年八月に幕府評定所により解決したもので、藩主喜連川尊信自身が狂乱を演んじていたとする旧喜連川町誌編さん委員会説と、歴史実証主義に誠実に喜連川と江戸に残る古文書の記録により寛永十八(1641)年から七年におよび藩主喜連川尊信は狂乱を理由に三家老により押籠められ、慶安元(1648)年の幕府評定でも藩主尊信の狂乱の事実は確認され、承応二(1652)年3月の死去にいたるまで継続されていたとする二つの説がある。


旧喜連川町が昭和52年に編纂出版した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」と「付属年表」によると

「正保四(1647)年に三人の家老、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門らは藩主
喜連川尊信を狂乱の病であるとして城内に座敷牢を設け押籠めにし藩政を思いのまま
にしていたが、実は尊信の狂乱は尊信自身の演技であった。
あるとき尊信は近習の高野修理に江戸に訴え出るよう命じた。高野修理は同士を集い
自らは先に脱藩し江戸に住み、翌年の慶安元年の春、藩内に残る若家老二階堂又市と
近習梶原平右衛門等の同士達と内応し、藩主喜連川尊信の娘万姫とお供の五人の百姓
達を喜連川から密かに抜け出させた。この時、尊信の命令書を百姓達に手渡した二階
堂等同士は出奔、梶原平右衛門はこれより先に江戸の高野修理と合流し直訴の準備を
進め江戸に来る万姫達を待っていた。そして、合流し同年七月には共に直訴に至った。
結果、万姫、二階堂、高野、梶原及びその他家臣、五人の百姓の活躍により同年七月
十一日喜連川の地に幕府から三名の御上使が遣わされ藩主尊信にたいする三家老
の不当な押籠めの事実が確認され江戸表に報告された。そして、幕府評定が終り同年
七月二十五日には喜連川で待つ尊信に書状にて結果が知らされ、長く城内の座敷牢に
押籠められていた三代藩主喜連川尊信は開放され藩政を取り戻した。三家老は伊豆
大嶋へ遠流、妻子は大名旗本預かりとなった。
その四年後となる承応二(1652)年三月十七日尊信(32歳)は逝去。嫡子の喜連川昭氏
(七歳)が家督を継ぎ、幼年のため将軍家綱の命にて榊原式部大輔忠政[1](徳川四天王
の一人)が後見した。」

とされる。

一方、同時代に記録された関係史料である多くの古文書等は

「寛永十八(1641)年、藩主喜連川尊信が狂乱の病を発したので三人の家老は藩主
尊信を押籠めとした。 幕府には藩主尊信は病気であるとして、時の大老土井利勝
などに書状を通じて連絡し、長年にわたり正月恒例の江戸の将軍家への挨拶は家老
が名代となり勤めていたが途中、尊信の近習、高四郎左衛門・梶原平右衛門に不届
きがあり二人は藩を追放された。
彼らはこれを恨み密かに江戸に向かい「正常である藩主尊信が三家老により押籠め
られており藩政が乗取られている。」と慶安元年春に直訴を起こした。『徳川実紀』
「大猷院殿御実紀」の同年七月六日条には幕府老中の命により喜連川家の親族であ
る白河城主松平忠次(榊原忠次)の家医関ト養を治療に派遣した記録が残る。
その後、幕府から御目付花房勘右衛門と三宅大兵衛の二名が喜連川の地に派遣され
るなど「尊信の狂乱の事実」は暴露された。御目付は江戸にもどり、先に旗本等に
預け置いていた高・梶原を交えて幕府評定所にて詮議したところ二人は屈した。
九月においても喜連川家に対する処置は討議され、二名の老中達は松平忠次に二通の
書状を発し、押籠め部屋から幾度も脱け出てしまう喜連川尊信の押籠め番に松平忠次
の家来を当てるよう依頼している。 上(将軍家光)はこれを聞き及び「藩主の狂乱
を長く幕府に隠していたことは不届きである。」とし三人の家老は伊豆大嶋に流罪、
妻子達は諸大名預かり、藩主尊信(28歳)は三家老の処置通り押籠のまま隠居、幼い
喜連川昭氏(七歳)が四代藩主となり、親族にあたる白河藩主榊原式部大輔忠次(生
母は徳川家康の姪、別名松平忠次)が喜連川昭氏の後見人に命じられた。
三名の幕府老中達から松平(榊原)式部大輔忠次に宛てられた十月十八日付の書状に
もこの処置内容が記録されている。」

ことを示している。


この『喜連川町誌』の喜連川騒動の記述は市町村が編纂する地方誌特有の地域に住む時代時代の利権者の主観や都合に左右された可能性は否定できない。同時に、これとは異なる記録を示す史料『及聞秘録』も江戸時代のものではあるが「及び聞いた記録」であり作者不明であるため全てが正しいというものでもない。

この喜連川騒動事件は未だ専門とする公的機関の歴史学者等により正式に研究発表・出版などされたこともない。ここでは誰にでも入手・閲覧可能な史実に関係する史料等を紹介するにとどめ、史実は読者自身が判断するものとしたい。


また、寛永十八(1641)年に三代喜連川尊信は三家老の合議により狂乱を理由として押籠となる中、座敷牢内にあって翌年10月24日には長男昭氏をもうけ[2]、さらに慶安(1648)元年十二月の事件解決の翌々年、慶安三年(1650)5月にも次男氏信をもうけるなど、けして狂乱を理由として幕命により隠居させられ、継続して座敷牢に押籠であった病人とは思えない。この喜連川尊信の狂乱とは「精神の病」ではなく喜連川藩の立場や幕府体制の存在を危くする行動や発言のことではなかったか。三家老が喜連川尊信を押籠とした十年前、寛永八年(1631年)5月に将軍徳川家光の実弟、駿河大納言徳川忠長は狂乱を理由に隠居させられ改易となっており全国の大名家を震撼させた。歴史とは興味深いもので、喜連川尊信が二男氏信をもうけた一年後の慶安四年4月には幕府を衝天させた由比小雪の慶安事件が発覚し7月に解決し、この半年後の承応二年(1652)3月17日に喜連川尊信(32歳)は急死している。


事件の背景

喜連川家は、鎌倉公方から古河公方と小弓公方の流れをくむ足利家嫡流家とされ外様で約5000石の小大名だが、 徳川家親族扱いとして10万石扱い(国主格)であり、諸役御免で参勤交代の任も免除された特殊な大名である。また、喜連川家の家老は江戸城においての将軍との謁見を許されており、参勤交代の任のない喜連川家当主の代行として、徳川将軍家や幕府との折衝に当たっていた。このことは外様では同家だけで、譜代大名家であっても数少ない特権であった。


また、喜連川の一色家は鎌倉公方期から古河公方期と関東公方家と運命を共にした足利一族であり、喜連川期においても喜連川藩祖足利国朝から、国朝の弟の2代藩主喜連川頼氏、頼氏の孫の3代藩主喜連川尊信の時までの58年にわたり喜連川家の筆頭家老格であった。騒動を起こしたとされる一色刑部は、一色氏久(官位は右衛門佐)の嫡孫で喜連川家三代筆頭家老であり、四代喜連川昭氏の生母はこの一色刑部の養女(実父、日光浪人伊藤某)である。

一色刑部の祖父である一色氏久は、初代室町将軍足利尊氏の四代前の足利泰氏の六男足利公深が三河吉良庄の一色郷に住まったことから始まる流れで初代九州探題一色範氏・二代九州探題一色直氏の嫡孫一色直兼そして、この養子一色直明の三男一色右衛門佐蔵主を祖とする鎌倉から古河に移った一色家の嫡流であり古河城代、古河公方家の御奉公衆筆頭・御連判衆の筆頭を勤め、古河公方足利義氏の頃より公方家の実質的な政務を担当しており、その子足利氏姫の時代に喜連川家が起こると、その初代筆頭家老を勤めた。

なお、この喜連川の一色家は室町将軍家の支族でもある。喜連川一色家祖の一人、鎌倉の一色直明の実父は室町三代将軍足利義満の次男足利義嗣であり、新御所様ともいわれ次期天皇になるであろうと当時の公家や武家の間で目されていた。足利義嗣の元服式(京都御所内で皇太子同様の様式で行われた)の翌月に父義満は急死(毒殺とも)。その後、権大納言正二位足利義嗣(25歳)は応永二十五(1418)年1月24日、兄である四代将軍足利義持との権力抗争に敗れ将軍義持の命を受けた富樫満成により京相国寺にて殺害された。

「喜連川町誌」における事件の経緯

昭和52年に喜連川町の町誌編纂委員会は事件にかかわったとする百姓家の一家である佐野家に残された家伝書である「喜連川御家」を基礎資料として「喜連川騒動の顛末」という記述を『喜連川町誌』に残した。以下はその概要である。

慶安元年(1648年)春、先に自等で脱藩浪人となり江戸で待つ尊信派の老臣高野修理[3]藩主尊信の長女万姫(十歳)[4]がお供の5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老[5]一色刑部等の三家老が君主喜連川尊信公を狂乱の病と偽り城内に閉じ込め藩政を我が物にしている」と直訴に至った。[6]

事件の現地調査に当たった幕府御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰って「高野修理等の直訴内容に偽りなく喜連川尊信は正常である」と報告した。幕府御上使は甲斐庄喜右衛門[7]・野々山新兵衛・加々見弥太夫の3名であった。喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名は事件後の一代家老となったとしている。

幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが、このときは大老酒井忠勝老中松平信綱阿部忠秋阿部重次の4人[8]が特別にその審理に参加し、評定役には酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たったとしている。[9]

喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島流罪、相木与右衛門(一色刑部の長男)・一色左京(一色刑部の嫡男)・石塔八郎(一色刑部の三男)・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の6名は大名旗本預かりとなったとしている。また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(15歳)は、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守[10]に預けられたとしている。

高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は押籠めより開放され藩政を取り戻し、その約5年後の承応2年(1653年)の尊信の死去により幼い4代喜連川昭氏(7歳)[11][12]が大叔父である榊原忠政を後見人として家督を相続したとしている。[13]


この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった記録はなかったが、藩主尊信の押籠に合意した一色派家臣の家は皆追放となり断絶となったとし、忠臣として記述された尊信派家臣の中で、二階堂又市だけが喜連川騒動事件の23年後の寛文11年(1671)に帰参を許されたとしている。しかし、旧喜連川町の町誌編纂委員会の執筆者によりこの事件の功労者として記述された高野修理と梶原平右衛門のその後の記述がない。


また、五人の百姓は評定後に松平信綱に呼び出され「元武士であるとはいえ百姓の身でありながら藩主のために命をかけて江戸に上り直訴したことはアッパレである。」として仕官を勧められたが彼等が断ったので「もしお前達の子等が江戸に出て当家に仕えるつもりがあるならいつでも百石で召抱える。」という約束の書付をもらったが、帰国の途中の利根川を渡る船の上で「もしこの書付を持ち帰るなら子孫が喜連川の殿様への忠義を忘れてしまう」と皆で相談して破り捨てたとしている。[14]

江戸や喜連川及び古河に残された文献・史跡が語るもの

一方、江戸時代の文献である『及聞秘録』には一色派とされた家臣およびその家族達は皆、三代将軍徳川家光の十三回忌(1662年)に赦免され、しかも主持ちで再興されたと記録されている。これは昭和52年編纂の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」で三代喜連川尊信を一色刑部等三家老の押込から開放したとされる尊信派の中心人物であった二階堂主殿又市より、逆臣と記述された一色派家臣のほうが約十年近く早く幕府から許されていたことを意味する。

さらにこのことを裏付けるように喜連川家墓所の正面には昭和52年編纂の『喜連川町誌』の記述で断絶とされた一色家墓所が現存する。一色家墓所内の中心となる最古の墓石は事件の二年後となる慶安三年七月十一日に死去した「二代頼氏公直臣」「大禅勘作胤栄」の文字と「□□院長岳宗久居士」の戒名を刻んだ喜連川家二代筆頭家老一色下野守義久のものであり、明暦二年に伊豆大島で死去した三代筆頭家老一色刑部少輔義貞(「翠竹院松山宗貞居士」)と岡崎藩水野監物家で再興された嫡子一色左京(「乾利院道山松公居士」)の墓石も現存し、十四人分の計十基あり最新の墓石は慶安元年の事件評定の三十一年後、一色刑部少輔義貞の実弟一色五郎左衛門連談のもので延宝七年(1679)十二月十六日と刻まれている。

そして、この一色五郎左衛門は浪人中に「山本勘作」を名乗っていたとの記録がある[15]。つまり、喜連川の一色家は慶安元年の事件の二年後、慶安三年には実質的には一色五郎左衛門連談をもって再興されていたことを意味する。

また、一色刑部少輔義貞は喜連川家の前身である古河公方家の墓所、古河の徳源院過去帳(『古河市史』より)においても

 「歓喜佛 翠竹院松山宗貞居士 一色刑部 明暦二年七月 伊豆大嶋にて死去」

と記録され、喜連川家四代喜連川昭氏と共に弔われている。

なお、この古河の徳源院過去帳にはこの一色刑部少輔義貞の祖父一色下野守(前右衛門佐)氏久も

 「熱田大明神 松香院圭峰周玄居士 一色下野守 慶長六年十二月」

と記録され、喜連川家初代足利国朝と共に弔われている。


一方、旧喜連川町が編纂発刊した明治44年の『喜連川郷土史』の「狂える名君」・昭和52年の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」のいずれにおいても忠臣として記述された尊信派の高家・梶原家等の墓所・墓石は喜連川領内には現存しない。

また、二階堂家の墓所は慶応四年(1868)八月十三日に評定があった第二の喜連川騒動である二階堂事件にて二階堂主殿輔(28歳)はさらし首、二階堂量山(54歳)および二階堂邦ノ助(18歳)は死罪[16]となり墓所は破棄され現存しない。

江戸に残る公的文献と記録

東京大学史料編纂所の「史料稿本」には、『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明日記』『寛政重修諸家譜』『足利家譜(喜連川)』を出典とし、『及聞秘録』を参考とした以下の綱文(慶安1年12月22日2条)がある。

是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を
  相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す」

この綱文によると、幕府は藩主3代喜連川尊信に隠居を命じ、高野四郎左衛門たちを伊豆大島に 流したことになる。


また、『徳川実紀』(大猷院殿御実紀)の慶安元年7月3日条には

喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医である関ト養に治療をさせた」(要約)

旨が記されている。松平忠次とは、『喜連川町誌』の「年表」で4代喜連川昭氏の後見人とされる、榊原忠政の嫡子で、慶安二年1649年6月まで白河藩主であった榊原忠次を指し、喜連川尊信の母方の叔父である。『喜連川町誌』で喜連川尊信の病状確認のため幕府御上使が江戸を発ったとされる7月11日は、この記録の8日後である。

幕府老中から榊原式部大輔忠次に宛てられた関係文書

一方、阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」(慶安元年9月7日付)によると、

    55「江戸幕府老中奉書」
      一筆令啓候、喜連川右兵衛方押籠置候所、破之被出候と申来之由承候
      今程御??半之事候間、先如前々押籠番之者堅付置候様ニ彼家来江
      被相達犬候、勿論富地江被参候義者、必無用可然候、若言上有之度事
      候ハ?、致書付以貴殿家来被差越候様ニ可被申候、為其如批候、
      恐々謹言
                                      阿部豊後守(忠秋)
       九月七日(慶安元年)
                                      松平伊豆守(信綱)
       松平式部大輔殿(榊原忠次)
    概訳)喜連川右兵衛を押籠ているが破り出てしまうと申して来ると聞いている。
       今ほども???先が如く、何度も押籠番の者に堅く付置くように、かの
       家来に申付けている。もちろん、当地へ参らせる者は必無用可然候
       よって、そのような報告もたびたびの事であるので、(白河へ)書付を
       致し、貴殿の家来を以って差し向ける様にお願いいたす。以上
       恐々謹言(恐れ恐れ謹んで言す)。


と記されている。[17]


また、阿部重次・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」(慶安元年9月12日付)によると、

    56「江戸幕府老中連判署奉書」
      一筆申入候、喜連川右兵衛(尊信)家来二階堂可被召寄之候、主殿不有
      之候て不成候ハ?、いつれニても似合敷者壱人参候様、ニ可被申遺候
      恐々謹言
                                      阿部対馬守(重次)
      九月十二日(慶安元年)
                                      松平伊豆守(信綱)
      松平式部大輔殿(榊原忠次)


   概訳)喜連川尊信の家来、二階堂を(江戸へ)被召(呼んでいる)ので、主殿は不有
      (喜連川にはいない)ので不成(主殿は当てられない)、いずれにしても
      相応の者を一人(喜連川に)参らせるように、申し残す。 恐々謹言


と記されている。[18]

また、阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」(慶安元年11月18日付)によると、

    57「江戸幕府老中奉書」
      喜連川右兵衛(尊信)事、狂乱無粉候慮、隠置候義不届候間、領地?可被召上候
      異他家義候間被成御有免候、似相之所相囲差置之、息梅千代者幼少之事候間
      其方萬事致差?、家来共守立候様ニ可仕詣、被?仰出候
      次一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門・事者、右兵衛狂乱之段不申上隠置候義
      曲事被思召、大嶋江被慮流罪、彼者共男子之分者、所々江御預之事候
      然者二階堂主殿者代替ニ付き?、其方被成御預候、可被得其意候 恐々謹言
                                           阿部対馬守(重次)
      十月十八日(慶安元年)
                                           阿部豊後守(忠秋)
                                           松平伊豆守(信綱)
      松平式部大輔殿(榊原忠次)


   概訳)喜連川尊信のことであるが、狂乱は紛れも無いところで、長く隠し置いた
      ことは、不届きであり、領地没収(めしあげ)のところであるが、他家のこと
      とは異なり許すことと成った。
      似合の所、相囲みこれを差し置くので(尊信は押込のまま致仕とする)息子の
      梅千代(昭氏)が幼少の間は、そのほうに万事まかすことにする。
      家来とともに守りたてる様に(上様から)おうせがあったので、被仰出候
      (登城するように)。
      次に、一色刑部と柴田久右衛門と伊賀金右衛門のことであるが、右兵衛(尊信)
      の狂乱を申し出ずに隠し置いたことは、曲がりごとであると思うので大嶋へ流罪
      とし、かの者の嫡子(男子之分者)は、所々へ御預かりの事となった。
      (曲事とは、当時の武家諸法度に照らし正しくないの意味である)
      したがって二階堂主殿者は代替(二階堂主殿の嫡子)であるので、その方で預かる
      ことと成った。その意を得ていただきたい。 恐々謹言


との達しが下されている。[19]

喜連川家に残された関係文書

  • 「喜連川義氏家譜」[20]

   

八代前右兵衛督尊信代、正保四亥年家来騒動仕、慶安元子年、御評定所御裁許ニて
家老一年(色)刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、
右三人大島え遠島、二階堂主殿助奥州白川榊原家へ御預、相木与右衛門摂州尼ケ崎
青山家へ御預、一色妻子とも泉州岸和田岡部家へ御預、伊賀妻子は尼崎青山家へ御預
柴田妻子は越後村松家へ御預、右兵衛督尊信隠居被 仰付、嫡子梅千代七歳ニて家督
幼年候間、親類榊原式部大輔忠次え後見被仰付之由、所替被 仰付候儀は無御座候由
申伝候得共、騒動之始末之年久敷儀ニ付、旧記共虫食ニ相成、巨細ニ相分不申候
右一(市)ケ谷月桂寺より問合之節、喜連川家来より文書也、月桂寺申伝候は、高膳
(尊信)乱心せしを家老等をもかくし通し、例病気のよし申候て久しく参勤なし、
高膳近習の士、高某・梶原某、?の咎めありて追放しけれは、此両人 公儀へ申出け
るゆへ御目付を遺され、乱心をかくせしにより遠流に処せられしといふ
続撰系図
家臣等不正の事ありて一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、大島になかされ
二階堂主殿助を本多能登守に、相木与右衛門を青山大膳亮にめし預られ、高膳も
請さるに致仕を命せらる趣、尊膳(高膳)か狂気せしを家臣等をしかくして年を
経しに、追放されし家士か愁訴せるむねありて御目付花房勘右衛門・三宅大兵衛
を遺されて見せしめられ、事あらはるゝによってなり


  • 「本多正純から古河鴻巣の高修理亮への書状」[21]
以上、
従義親様御書致頂戴候、乃 御老母様儀ニ付 御参府被成度由御座候
得共、御煩故其儀無座候、少も不苦御事ニ御座候間、御延引可被成候
将跡素麺一折・鮭二尺送被下候、過分至極ニ奉存候、此等之趣可然様ニ
御披露候所、仰候、恐々謹言
                                      本多上野介
九月二十四日                              正純(花押)
       高修理亮殿
訳)義親様より御書頂戴いたし候、よって御老母様儀につきて、御参府なされ度き由
御座候えども、御わずらいゆえ、その儀御座なく候、少しも苦しからざる御事に御座候
御延引きなさるべく候、はたまた、素麺一折・鮭二尺送りくだされ候、過分しごくに
ぞんじ奉り候、これらの趣しかるべき様に御披露候ところ、あおぎ候、恐々謹言
以上


注)喜連川義親から徳川秀忠の側近(老中)であった本多正純に、江戸に参府
するとの書状があったが、御老母(足利氏女)様が病気中でもあるので、
なんの気兼ねなく、江戸参府を引き延ばしになられたらよい。という手紙が
近習の高修理亮に宛てられた。この文書からは、このころ(元和2年~5年)
高修理亮はまだ喜連川城下には無く、古河鴻巣御所にて氏女、義親、幼少の
尊信に仕えていたことが示されている。


  • 「土井利勝から筆頭家老一色刑部への書状」[22]
 猶以印判御免可被成候、以上
尊書忝致拝見候、改年之御慶珍重納候、隋 年頭之御礼ニ御参向可被成候処ニ
旧冬ヨリ御煩敷御座候故、為御名代二階堂主殿助方を以被仰候、奉得其意候
委細之段老中より可被申達候、然者、為御祝儀子十被下置候、是被為入御念候段
過分忝奉存候、此等之通宜預御心得候  恐々謹言
                                        土井大炊頭
正月六日                                       利勝
     一色刑部殿
訳)尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候、
 ついで、年頭の御礼に御参向なさるべく候ところに、旧冬より御わずらわしく御座候
 ゆえ、御名代として二階堂主殿助方をもって仰せられ候、その意を得奉り候
 委細の段、老中より申し達せらるべく候、さらに、御祝儀として雉子十下し置かれ候
 まことに御念入らせられ候段、過分かたじけなく存じ奉り候、これらの通りよろしく
 御心得に預かるべく候、恐々謹言
 猶以て、印判御免成らるべく候、以上


上記の「委細の段、老中より申し達せらるべく候」から土井利勝が大老になった
寛永15年(1638年)以降から死去した寛永21年(1644年)までの正月六日付けの
手紙である。喜連川尊信はこの期間から病気で江戸への年始の挨拶は二階堂主殿助
などの家老が永く慶安元年(1648年)までの最低四年~十年は藩主尊信の代行者と
して勤めていたことを示している。
また上記の「二階堂主殿助」と『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」にて奥州白河
城主にお預けとなった二階堂又市が同一人物であるとするならば彼は一色派であり
三家老の一人でなければならない。一方「喜連川騒動の顛末」が示すように二階堂
又市が高野修理・梶原等の尊信派であるとするならば、この又市は父である二階堂
主殿助等三家老および自分を含む家族等を幕府に罪人として訴えたことを意味する。
そして、同時にこの文書は正保四(1647)年より前に書かれたものであることを意味し、
又市の父となる二階堂主殿助は正保四年にはすでに死去していた可能性を示す
ものとなる。


  • 「松平正綱からの書状」[23]


  以上
従 右兵衛督様尊書、殊蕨之粉壱箱致拝受候、誠御墾志添次第ニ奉存候
此等之趣可然様ニ御取成所、仰候、恐々謹言
                              松平右衛門大夫
二月二十八日                        正綱(花押)
 一色刑部殿
 二階堂主殿殿
訳)右兵衛督(尊信)様より尊書、殊にわらびの粉一箱、拝受いたし候
誠に御墾志添なき次第にぞんじ奉り候、これらの趣、しかるべき様に
御取成すところ、仰ぎ候、恐々謹言


  • 「神尾元勝からの書状」[24]


  一色刑部少輔様                      神尾内記
  二階堂主殿助様                         元勝
        人々御中
一筆致啓上候、然者、尊信様来二日ニ御出仕被成候付、私式も能出、
御馳走可申上由奉得其意候、随 任到来さざえ壱折進上仕候
可然様御披露奉頼候、恐皇謹言、
 極月二十九日                         元勝(花押影)


訳)一筆けいじょういたし候、しかれば尊信様来る二日に御出仕なされ候
につき、私もまかり出で、御馳走もうし上ぐべきゆえ、その意を得奉り候
ついで到来にまかせ、さざえ一折を進上仕り候、しかるべき様、ご披露
たのみ奉り候、恐皇謹言


  • 「松平忠次からの書状」[25]


為歳暮之御祝儀御使者、殊更杉原十束・雉子十把拝受仕、添奉存候
致登城御使へも不能面談候、御参勤不存候、早々自是不申上致迷惑候
可然様被仰上可給候、恐々謹言、
                               松平式部大輔
 極月二十八日                         忠次(花押)
 一色刑部少輔殿
 二階堂主殿頭殿
訳)歳暮のご祝儀として御使者、ことさら杉原十束・雉子十把拝受つかまつり
かたじけなく存じ奉り候、登城致し御使へも面談あたわらず候、御参勤存ぜず候
て、早々これより申し上げず迷惑いたし候、しかるべき様おうせ上げ給うべく候
恐々謹言

『及聞秘録』での喜連川尊信に関する記録

  • 『及聞秘録』[26]の記録

   喜連川左兵衛督乱心の事  家老三人遠流の事

喜連川左兵衛督尊信とは、関東の管領足利左馬頭基氏の末孫である。足利家は
代々衰え将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより諸国の管領公方家
の威勢も衰えこの尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで喜連川殿と
いわれていた。
承應(正保?)年間、喜連川左兵衛督尊信は、「狂乱の病」にかかった。
よって、一色刑部二階堂主殿、柴田某の三家老は、互いに合心して尊信を座敷
にて「押し籠め」とし幕府には、尊信は「病床中」につき長く参勤できないが
三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っていると報告していた。
ところが、その後、尊信の近習として仕えていた高四郎左衛門と梶原孫次郎と
云う者がおり、この両人に不届があったので三家老は合議の上、この両人を
追放した。その後、この両人は今度(このたび)われ等を追放したのは三人の
家老の所為であるとして内密に江戸に来て一通の目安を公儀に差出した。
目安の大意は「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に君主尊信を「狂乱の
病」と偽り座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置を三家老共
の心のままにいたしており、いわれのない私ども両人を追放したので公儀に
おいて詮議してほしい。」というものであった。
早速、幕府目付衆が調査の為、両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ
喜連川尊信は何を思ってか座敷牢から抜け出し行方不明になってしまったので
3家老は驚き行方を聞き廻り、尊信をやっと探し出し再度、押籠め厳しく番人
に守らせた。
幕府の目付衆が着くなり尊信を屋形に移し面談しょうとしたが、その日、尊信
は調子が悪く座敷牢から出すことが出来ないので目付衆は別れて面談した。
そして、「尊信の狂乱は紛れない。」ことを確認し江戸に立ち帰り公儀に報告
された。
後日、三人の家老を評定所に呼び高四郎左衛門と梶原孫次郎の訴えについて
御目付が両名(高、梶原)を吟味した所「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れ
ない。」ことを認めた。
お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し尊信の狂乱
を幕府に隠し置いていたことは不届きである。」と思い召くゆえ三人共(一色
刑部、二階堂主殿、柴田某)は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供はそれぞれ
諸大名預りとした。
 一色刑部の長男  相木与右衛門(妾腹)は摂州尼崎城主
              青山大膳亮(幸利、譜代)御預かり
     同じく次男  一色左京(嫡子)と三男一色八郎は泉州岸和田城主
              岡部美濃守(宣勝、譜代)御預かり
 二階堂主殿の嫡子 二階堂某は奥州白川城主
              本多能登守(忠義、譜代)御預かり
 柴田某の嫡子    柴田某は越後国新發田城主
              溝口出雲守(宣直、外様) 御預かり
三人の家老達は伊豆大島に船着し暫く居住していたが何れも老人であり程なく
共に病死した。年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌(1662年)の時
大嶋の流人も多くが赦免となった。三人共(三家老)はすでに病死であった
のでその儀は出来なかったが三人の子供を赦免しそれぞれ主取とした。
中でも一色左京については名高き者の子であるので水野監物忠善より二百人
扶持を賜り客分扱いで仰呼された。
この一色氏というのは清和天皇の後胤であり高家の一人といえる。相州北条家
の幕下に属していたので天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時
一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていた所
関八州は家康公の所領となったので多くの関東在住の名士は皆家康に仕えた。
この時、一色を累代の高家として家康公から召誘いがあったが「すでに年老い
ており馬の乗降さえやっとの身であるので」と丁重に辞退した。しかしその後
秀吉公に見目しようとした時には秀吉公はすでに体調が悪く仕官は叶わず彼の
子孫は喜連川の家臣として微少の身であった。 その後、一色左京には男子が
なく断絶したといわれる。説には兄の妾腹であった相木与右衛門については
後御当家へ仕官したといわれる(以上訳)

五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」事件発生から江戸での直訴準備まで

  77 寛文十一年 喜連川家由緒書(この文書の表題は下記の「喜連川御家」)

       喜連川御家

一、右兵衛督尊信公、寛永七年(1630)に古河より御引キ移被遊、同拾八年
  (1641)ニ御上意之由干時御荒キ御生得故一色殿・柴田殿・伊賀殿主意
  計略ヲもって御一間ヲ存ひ御押込申上候、同拾九年(1642)左兵衛督様
  (昭氏)御誕生被遊候


  正保四年(1647)平三郎村伊右衛門義ハ別て訳有之□又葛城村平左衛門
  半左衛門義も上総より御供之者共ニて由緒有之者之儀、致如何此節御伺
  をも不申上哉御尋之処、一色殿・柴田殿等取計ニて御城内御差留ニ相成
  趣申上候依之


  御内々ニて夜中ニ御伺に能出候様、梶原平右衛門殿より御内通有之候付
  忍能出候処、御同人御案内御立合ニて蜜々御直ニ、御内用蒙 上意ヲ、
  夫より江戸表え発足向て
  其頃小入村介右衛門・東乙畑村ヲ長左衛門、此両人も古百姓と云志も
  頼母敷者共故、御撰之上御引添、五人同様ニ江戸表え忍能登り、此節
  大切之御用被仰付候て夫より江戸表ニ至
  御一門様え御上意之訳御伺仕候様被仰渡候ニ付、先達て高野修理殿、
  池之端ニ御浪人ニて被成御座候処え御相談仕、島田丹波守様、松平伊豆
  守様え能出御伺申上候処


  御公儀様より之御上意ニは無之候、然共,百姓能登候段御不害(審)ニ
  被思召上、若造成証拠ニても有之哉之御尋、百姓ニて訳可有之者と
  相見候由、旁々御尋ニ付、面々由緒書委細ニ相認て差上申候


  其内、替延引能帰り候処、上より厚キ□□御仁恵之梶原平右衛門殿より
  葛城村両人之者共ニハ、右は知行も与候末之儀ニ候得ハ殊ニ領内一統
  割地二て、難儀之趣御沙汰有之、若し此節、首尾能御相勤候ハ、追て
  御沙汰可有之、趣被仰渡候
  其内、梶原平右衛門殿御浪人被成、此節、御味方連判之内心替候者も
  有之候様二相見、互ニ心隔候故障ヲ生シ、□延引ニ相成候処

五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」直訴から幕府評定所による解決まで

  慶安元年(1648)之春、二階堂又市様・武田市郎右衛門殿・猪野嘉右
  衛門殿・高瀧清兵衛殿・小関嘉之介殿・高野修理殿・梶原平右衛門殿
  御人数故、御差図ヲ得て武田殿・高瀧殿御当番之節、御側近被為召
  御書付被下置候、御案文ニ曰
一、此度江戸用事申付候、首尾能於相達は、本田地持無役有相違間敷者也[27]
  尊信
  正保四年八月十日(1647年)
                                           伊右衛門え
                                         平左衛門え
                                         介右衛門え
                                         長左衛門え
                                         半左衛門え


  右之通り御書付被下置候て尊信公様為御名代御一間より御忍奉出
  御供之諸士、富川雲右衛門・星佐右衛門・忍田新左衛門・善左衛門
  所左衛門・清左衛門・御草履取り重三郎
一、御身方之御家中五人者、御誕生以来此節ニ至、心痛之事共に難侭
  筆紙儀共砕肝胆不義忠義之境難顕筆語委事口伝、五人之百姓同様ニ
  江戸表え御奉仕
  此節跡ニて武田殿・高瀧殿御浪人被成候


  同心之衆江戸御供之者共、御家老中より同心衆大勢被差出、境目より
  皆々打放候様被仰付候様子相聞候由、親類共より人ヲ出為知候故、
  途中より一先、此場退候方可一同及相談退申候燃候由
  重三郎其様子不存、御当所え参り候て様子承、蓮光院え欠込候処、
  不被成御免、御成敗被成候由[28]


  江戸表ニては修理殿・平右衛門殿・五人之百姓、御万姫君様奉附添
  御老中酒井雅楽頭(忠清)[29]様、松平伊豆守様、土井大炊頭[30]様、阿部
  豊後守(忠秋)様、御評定所御役人酒井紀伊守(忠吉)様・杉浦内蔵充
  (正友)様・曾根源左衛門(吉次)様・伊丹順斎(康勝)様、御一門之
  方は榊原式部大輔(康政)様、島田丹波守様、江戸御手引は早川内膳正
  様、今川刑部(高如)様、吉良若狭守(義冬)様、御取持之内、杉浦内
  蔵充様え能出、委細ニ□□御万姫様被□仰上候
  修理殿ハ池之端町名主大家に御預ケ相成、平右衛門殿ハ御旗本衆え御預
  ケ相成
  尊信公様、無心許被為思召、御飛脚同心、覚左衛門、為御登被遊候
  □□御万姫君様、五人之者奉附添御評定所御役人酒井紀伊守様、杉浦内蔵
  充様、曾根源左衛門様・伊丹順斎様え御預ケニて町家ニ被差置候


  同年(慶安元年1648)七月十一日喜連川え之□御上使御三人、同十三日
  ニ御下着、甲斐庄喜右衛門[31]様野々山新兵衛様、加々爪弥兵衛様、御宿
  は慈光寺、源左衛門、新左衛門、御馳走人ニハ黒駒七左衛門殿・渋江
  甚左衛門殿、大草四郎左衛門殿、同拾七日喜連川御立被遊
  於江戸表ニて□□御万姫君様五人之者度々被□召出於御評定に御尋被遊候
  ニ付、御国に元之御様子不残申上候、御上使様よりも御相違無之趣被□
  仰上候ニ付、
  喜連川御家老一色刑部・御子息左京殿・石堂八郎殿・伊賀金右衛門殿
  御子息宗蔵殿・柴田久右衛門殿、伊豆之大嶋え流人被□仰付候
  御子息方ハ御大名・御旗本方え御預ケニ相成
  此節二階堂家之儀御尋有之ニ付、未若年之旨申上候得ハ、拾五歳若年
  トハ乍申家柄之義、今度之儀不行届之儀ニ思召シ白川城主本多能登守
  (忠義)様え御預ケニ相成[32]、御附同心金平被□仰付能越候


  御万姫君様えは五人之者奉附添、御老中・御一門・御評定所御役人方
  え御礼イ廻り被遊、御国元えは御奉書、同廿五日御下り□□尊信公様、
  御押込之間ヲ御出被遊候、其節之御家老は黒駒七左衛門様、大草四郎
  右衛門様、渋江甚左衛門様


  御附之諸士□五人之者御共、□□御万姫君様奉御供十一月廿六日能下候之
  処、御登り之節之同心衆之儀及聞、伊賀殿・一色殿・柴田殿被申付置候
  趣致承知ヲ、追々様子御味方之者ヨリ内意有之ニ付、能下候ても無心元[33]
  五人之者致内談先重、御用首尾能相勤候得は右□墳被相晴候事も可有之
  と存、家内召連一家共方え引退候処、御上意ニ早速可能帰る旨、再三
  御座候得共、若一色殿・伊賀殿・柴田殿え荷担之者、両三人も相見候得
  は無心元、致延引趣申上候ニ付、甚御上様ニ不届二被□思召上
  暫ク延引仕候


  □□梅千代様御七歳之時[34]左兵衛督昭氏公と奉申上候、江戸表え御登
  被遊候、御供ニハ大草四郎右衛門様、御老中御廻被遊、□□尊信公様ニは
  江戸御参ン府ハ不被遊候、是より□□昭氏公様御代ニ相成
  □□御万姫君様ニは佐久山福原内記(資敏)様え被為入候

五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」事件解決後~二階堂主殿又市の帰参まで

  尊信公様承応二年(1653年)三月十七日御逝去被遊候ニ付、五人之者
  退居候得共、龍光院様え相詰メ如先例発心仕、御見送り可仕旨達て
  龍光院様申上候得共未、先達て首尾能江戸より能下候□伊賀殿・一色殿
  柴田殿被下置候同意之者・同心之内に三人有之趣不害(審)ニ存無沙汰
  ニ引退候故数度帰参之義被仰付候得共、延引致候
  此節ニ至相願出ても御延引之由被□仰下候、至極御□成御儀ニ御座候得共
  私共も是え能出候儀は覚語(悟)相究能出候義、□御聞済無、御座候は
  不及是非□、専念寺え能越、致剃髪龍光院様え相詰、御七日中御焼香
  申上候
                                    関 伊右衛門無心
                                    飯島平左衛門周良
                                    岡田助右衛門宗喜
                                    簗瀬長左衛門全久
                                    金子半左衛門清庵


  右之者共御老中より御内意有之那須雲巌寺・森田御領分田野倉村安楽寺
  以両寺、御控訴申上候得共、更ニ御聞済無御座候故、無是非、明暦三年
  (1657年)江戸表え能登り松平伊豆守様え能出御書付頂戴之仕万治四年
  (1661年)以書付御控訴申上候ニ付寛文二年(1662年)二帰参被仰付候
  御供之諸士・同心衆之義も同八年(1668年)帰参被□仰付候


  寛文九年(1669年)三月拾七日瑞芳院殿(尊信)様、御法事之節於龍光
  院ニ、□□右兵衛督様御前え被□召出御目見被□仰付、御流レ頂戴之仕候
  先祖持分御書付之通、御相違無之旨、其上、先達江戸入用金可被置候由
  を逸見主計殿・海上九郎左衛門殿、御取次ニて被□仰渡候、□又当座為
  御褒美、存生中扶持方被下之相果候者えは子共籾壱俵被下、右之御定は
  重て被□仰付候由之処


  寛文九年(1669年)ニ高瀧六郎殿・高瀬九郎右衛門殿帰参被、□仰付、
  同拾年(1670)五月二日左兵衛督様御遠行被遊候
  二階堂主殿様御帰参之願、右五人之百姓御願上候処ニ、□□御所様より
  □御公儀様えお願被遊、大森信濃守(頼直)様、御取持ニて同拾壱年
  (1671年)ニ白川之城主本多能登守様より御帰参被遊候
  其節、則為御迎、葛城村平左衛門能越御供仕能帰り候
  右一件□邪正分相治候て後、□御老中様方奉始メ御役人様方右五人之者共
  士分之末トハ乍申、今度之勤功、一民間ニ下り、稀成忠節之義共御称美
  被遊、松平伊豆守様より、至り末々、此一紙於差出ては百石宛可被下置
  候由御書付被下能下候節、五人之者色色致評義、万一至り後代能出候て
  ハ、年来之忠節も空仕候道理、却て不宣心得違も可有之哉と相談之上、
  栗橋川ニて引きさいて流失仕候
  右之通り相違無御座候間、代々不取失様ニ所持仕候、以上
                                       平三郎
                                         関 伊右衛門
                                       葛城
                                         飯島平左衛門
                                       同
                                         金子半左衛門
                                       小入
                                         岡田助右衛門
                                        東乙畑
                                         簗瀬長左衛門

五人の百姓家の家伝書「喜連川御家」百姓達が松平伊豆守に提出した由緒書

一、由緒書差上申可旨被仰渡候ニ付、書上奉候
一、塩谷家縁家ニ御座候ニ付、奥方化粧免ト致□秀吉公より被仰付能有候処
  御世続無之候ニ付、上総より惣御家中、御引越ニ相成、塩谷家中共、
  勝手次第能出候者も有之候、□仰渡候、関和泉義ハ一人在士ニ被□仰付
  外之者共ハ他え能出候者も有之候、百姓ニ相成在宅仕候者も有之候
  以上
                                      平三郎村
                                        関 伊右衛門
一、上総より御引払之節、後家来中不残佐野信濃守甥、佐野越後、
  身長ヶ六尺弐分、大力ニて武芸ニ達シ候故、防方被仰付候、塩谷家
  家来之儀御腰被下、何方成共勝手次第立退可旨被、□仰渡候
  右ニ付、他え能出候者有之、百姓と相成候者も有之、御当領徘徊
  仕度、御願申上候処、左之通被□仰付候処、塩谷殿対談もなく百姓ニ
  相成候趣甚立腹致、近村ニ居住致、那須家之浪士共、かたらる仇を
  なし、居付百姓難義致、古主故手向難成、難儀之御願出候ニ付、
  防方被□申付相防候処、塩谷殿相叶かたく其故貴様防之上ハ領地仇
  致間敷候趣、入江野左近と申来候
  其節塩谷殿え対顔致、近村居られ候てハ不宣候、依之小山判官之末え
  小山小三郎、当時常陸ニ居住候処、是に御越可被成旨申候者有之
  塩谷殿□ニ存常州え同道被致候、以上
                                      葛城村
                                        飯島平左衛門
  左三人之者共ハ、□尊信公様御乳母の子ニ御座候[35]、此度御家来
  ニ御取立可被下候、此者武士勤之義ハ相成兼候、依之百姓御願申候処
  塩谷家来末々百性名跡ニ相成者之末御座候、此度義、切内両人え申出
  御味方仕度段申候ニ付能出申候、以上
                                      葛城村
                                          半左衛門
                                      小入村
                                          介右衛門
                                      東乙畑村
                                          長左衛門
  右五人之者、松平伊豆守様より被□仰渡候趣、両人は百姓とハ偽候ト
  相見申候、依之由、緒書キ差出可申旨、被□仰渡候ニ付、書付左之通
  両人之儀至極□ニ有之、三人之者共ハ気毒、一心宣敷者共ト被□仰渡候
    酒井雅楽頭様
    松平伊豆守様
    土井大炊頭様
    阿部豊後守様
  御評定所役人中ニハ酒井紀伊守様・杉浦内蔵充様・曾根源左衛門様
  伊丹順斎様、被□仰渡候
  右ニ付能下り、□□御万姫君様御七歳[36]ニて、江戸表御共仕五人は
  一統被□仰出、国元之趣占ニ申上奉候、以上
一、松平伊豆守様より御書付被下置両人は、何時成共、右之書付持参
  致候上ハ、百石ニて御召抱可被下趣御書付拝領仕候、以上
    月日


                     (葛城 佐野正司家文書)
  正保四(1647)年に起きた御家騒動についての記事。喜連川尊信を
  助けた五人の百姓の由緒に記録の重点が置かれている。
  (解説 国士舘大学非常勤講師 泉 正人)

脚注

  1. 『寛政重修諸家譜』によれば榊原忠政は、喜連川騒動の40年前の1607年10月に死去した人物
  2. 昭和五十二年の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の基礎資料である百姓家の家伝書「喜連川御家」の冒頭記述に「右兵衛督尊信公、寛永七年に古河より御引キ移被遊、同拾八(1641)年ニ御上意之由、干時御荒キ御生得故、一色殿・柴田殿・伊賀殿、主意計略ヲもって御一間ヲ存ひ御押込申上候、同拾九年(1642)左兵衛督様(昭氏)御誕生被遊候」と記録されている。「喜連川騒動の顛末」ではこの記述は無視され「正保四(1647)年夏、生来丈夫な方ではなかった尊信は重い病気にかかった。これをとらえて一色刑部は配下の伊賀金右衛門、柴田久右衛門らと共謀し、主君尊信を「狂乱の症発す」という理由で城中(慈光寺ともゆう)に幽閉してしまった。」と書き換えている。さて、この昭和52年の執筆者の「狂乱の症発す」の記述の出典は何処にあったのか「干時御荒キ御生得故」の記録をなぜ無視したのだろうか疑問である。まともな歴史家が「喜連川御家」以外の「狂乱」の2文字が残る多くの文書に目を通しているのであれば「喜連川騒動の顛末」は違った記述となったはずである。当然、「狂乱」の文字を目にしていない執筆者には「狂える名君」や「喜連川騒動の顛末」を書くアイデアも浮かばない。
  3. この高野修理とは高修理亮(四郎左衛門)のことであると思われる。この昭和52年に旧喜連川町が編さんした『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の基礎史料である「喜連川御家」を寛文十一年(1671年)の事件の23年後の日付を記し書き残した旧名佐野越後こと飯島平左衛門は旧塩谷家家臣であった。彼の同僚であり同様に町人となった高野鴨左衛門と百姓となった高野加茂左衛門が『喜連川町史』第三巻資料編3近世に載せられた「長百姓書上」という古文書にて確認できる。高(こうの)という旧足利家家臣の姓を耳で聞き、古くからの知人である高野加茂左衛門等の姓と書き違えた可能性は否定できない。一方、同じく『喜連川町史』第三巻資料編3近世に載せられた古文書に高野万平なる家臣?厩番六石取りの記録は確認できる。
  4. この「喜連川騒動の顛末」を執筆した担当者が基礎史料とした百姓家の家伝書「喜連川御家」の記録では、評定時の万姫は七歳と記録されている。つまり、執筆担当者は万姫を昭氏の姉として書き換えを行っていた。「喜連川御家」の最終記述部の確認要
  5. 「城代家老」は『喜連川町誌』の表現による。当時喜連川藩に城はあったものの、火災と快便性のために山下に館を設けており、藩主は常時ここに在したため、実質的には「筆頭家老」である。
  6. 『喜連川町誌』では、3代尊信の正室(那須資景の娘)の子万姫(10歳)もこの直訴に加わったとしているが、『喜連川郷土史』ではこのことは記載されていない。
  7. 楠正成の末孫といわれる幕府御弓頭四千石大身旗本であり当時は長崎奉行職であった。
  8. 昭和52年の喜連川町誌編さん委員会の「喜連川騒動の顛末」を執筆した担当者が基礎史料とした百姓家の家伝書「喜連川御家」の記録を都合よく解釈した記述のである。「喜連川御家」の原文では「江戸表ニては、修理殿・平右衛門殿・五人之百姓、御万姫君様奉附添、御老中酒井雅楽頭様・松平伊豆守様・土井大炊頭様・阿部豊後守様」と記録されているが、事件評定の四年前にすでに死去している大老土井大炊頭(利勝)が、まだ若年寄である酒井雅楽頭(忠清)の名が記録されており、元武士であり家伝書が書ける、恐らく旧塩谷家の祐筆であったと思われる佐野越後こと飯島平左衛門が名を上位者から記録する礼儀を知らないはずもない。そこで、昭和52年の担当者は酒井忠勝(能登守)・松平信綱(伊豆守)・安部忠秋(豊後守)と修正し、最後に阿部重次を独自の判断で追加したものである。しかし、自等共に慶安元年の幕府評定に参加していたとした五人の百姓が飯島平左衛門を筆頭に署名するかたちで、事件の23年後の寛文十一年に執筆した家伝書「喜連川御家」とは自分達の子孫に都合よく伝えるための武勇伝ではあるが、事件を聞及んだ者の記録としての価値は否定しえない。参考『喜連川町史』第三巻資料編3近世(販売中)の「喜連川御家」
  9. 酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟で、高家吉良義冬の義父であり、訴えられた一色刑部と同じく足利家の親族である。
  10. 『喜連川町誌』による。『寛政重修諸家譜』によれば、本多能登守(本多忠義)が白河藩主であったのは、喜連川騒動事件解決の翌年慶安二年(1649)6月からであり、それまでの白河藩主は榊原忠政の嫡子榊原忠次(大須賀忠次、松平忠次とも)であった。つまり、四代喜連川昭氏(七歳)の後見人は榊原式部大輔忠次が正しい。
  11. 喜連川の専念寺にある昭氏の生母(一色刑部の娘で、3代尊信の側室)の墓石に刻まれた死去年は昭氏生誕の一ヶ月後の寛永19年(1642年)12月2日と刻まれている。「欣浄院殿深誉妙心大姉」と号する。つまり、4代昭氏は事件のあった慶安元年(1648)に家督相続をしている。
  12. 『喜連川判鑑』(喜連川昭氏本人が最後に記載させた足利家系図)でも昭氏の生誕日は、寛永19年10月24日、生母は欣浄院殿で相続は事件のあった慶安元年であり徳川家光(大猷院)の命により榊原式部大輔忠次と明確に記録されている。
  13. 『寛政重修諸家譜』によれば、榊原忠政は、喜連川騒動の40年前の1607年10月に死去した人物であり、この時期の白河藩主は孫の榊原(松平)式部大輔忠次である。
  14. もとは旧領主である塩谷家家臣であったが喜連川家の入領により、浪人したり百姓・町人となっていた彼等が老中松平信綱からの100石の家禄を捨てることはあまりにも美談すぎる。当時の喜連川家家臣の家禄は微禄であり家老であっても70石~200石である。
  15. さくら市発刊『喜連川町史』第三巻資料編3近世の「小林家代々日記」より
  16. 出典「旧藩士二階堂主殿助父子誅□一条取調書 従五位足利聡氏」『喜連川町史』第三巻資料編3近世)
  17. 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P64による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。
  18. 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P64による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。
  19. 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P65による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。
  20. さくら市発刊『喜連川町史』第三巻資料編3近世(P219~P220)に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
  21. さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
  22. さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
  23. さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
  24. さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
  25. さくら市発刊「『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書 上」に載せられた旧喜連川町教育委員会所蔵の文書
  26. 『及聞秘録』は筑波大学中央図書館和文書館所蔵・にて誰にでも閲覧可、業者委託でコピーも可
  27. この書付の日付けは正保四年八月十日となっている。この記述の流れなら慶安元年のものでなくてはならない。この書付が正しいものであるのなら正保四年である前年の八月の直訴のときに老中松平伊豆守信綱に提示し渡すべき書付であり、藩主尊信の花押があれば直訴は成功していたはず。つまり、五人の百姓がもらったと記述したこの書付は藩主尊信の花押がない。偽の書付の可能性を否定できない。
  28. 矛盾する記録である。これまでの記述が正しいのであれば藩主尊信の娘万姫の御草履取りである重三郎の役向きはお供として江戸に向かうことである。ここで一人だけ帰郷して国境(くにざかい)で成敗される理由がない。また、この文書の記録では幕府評定が終る7月25日には国許に評定結果は書状で知らされ、即座に藩主尊信が座敷牢から開放され藩政が正常化したと記録され、さらに四ヶ月後の11月26日に万姫とお供の者(当然重三郎は欠かせない)は喜連川に帰ったと記録されている。この時だとしても、なおさらあり得ない記録である。彼等を成敗する行為は記述が正しいのであれば、即刻藩および幕府の沙汰に反する行為となり即刻改易、取り潰しを意味する。
  29. 事件評定時はまだ若年寄である。
  30. 事件評定の四年前に死んでいる人物である。
  31. この時期は長崎奉行であり江戸にはいない。
  32. 本田能登守忠義が白河城主となったのは慶安二(1649)年六月のことである。事件評定のあった慶安元年七月であれば彼はまだ姫路城主である。この家伝書「喜連川御家」の執筆者が五人の百姓本人であると署名があるが疑わしい記述である。また、藩主尊信の命令書の日付が疑わしい。正保四年八月十五日と記述されてあるが記述の流れと一致しない日付である。
  33. 記述の通りであるなら七月二十五日に幕府評定結果を藩主尊信に報せる手紙は喜連川に向かいすでに到着している。十一月二十六日の帰郷の彼等になんら心もとないことなどないはずである。彼らを襲う喜連川家家臣がいるとしたら幕府の威光に逆らう者供でしかない。
  34. この文書の冒頭で「寛永十九(1642)左兵衛督様(昭氏)御誕生被遊候」と記述されている、昭氏七歳の時ならば慶安元(1648)年の11月~12月もしくは事件評定の翌年、彼の後見人である榊原式部大輔忠次が奥州白河城主から西国の播磨姫路城主となる6月より前と記述したことを意味する。また、同時に藩主尊信の救出のために五人の百姓が命を賭けて仕えたという本家伝書「喜連川御家」の記述の矛盾を隠している。五人の百姓達と万姫、そして尊信派とされる者達にの活躍により藩主喜連川尊信(28歳)は隠居させられ、側室の子である幼い喜連川昭氏(7歳)が四代藩主になれたことを意味する。慶安三(1650)年五月には四代昭氏の弟であり、本来ならば四代藩主となったであろう正室の子である氏信を隠居中の三代尊信はもうけている。
  35. 喜連川尊信は喜連川から遠い古河 の鴻巣御所で生まれ幼少期はそこで過ごしている。 この旧塩谷家時代からの喜連川の百姓の子である 三人の母親がこの尊信の乳母であったということだが無理があることは否定できない。古河でも乳母は 十分探せたはず。
  36. この「喜連川御家」を基礎史料としている昭和52年に旧喜連川町が発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の執筆者は「評定掛かりには、酒井紀伊守杉浦内蔵充、曾根源左衛門、伊丹順斎らであり、控訴に当たって10歳の万姫を何くれとなく面倒をみてくれたのは、品川内膳正、今川刑部、吉良若狭守(足利家の支族)であった。」として、万姫の年齢の記録を都合よく書き換えている。

参考文献

  • 「喜連川騒動の顛末」(『喜連川町誌』喜連川連川町誌編さん委員会編、喜連川町、1977年)全国書誌番号73007745
  • 「狂える名君」(『喜連川郷土史』片庭壬子夫・喜連川町教育委員会、1955年)
  • 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』栃木県立博物館人文課、1993年 ISBN 978-4924622760
  • 『徳川実紀』
  • 『寛政重修諸家譜』
  • 『喜連川町史』第三巻資料編3近世 さくら市編さん委員会編さん 平成19年 さくら市発行
  • 『喜連川町史』第五巻資料編5喜連川文書上 さくら市編さん委員会編さん 平成19年 さくら市発行
  • 『幸手一色氏』-系図から伝承まで- 幸手市教育委員会編集 平成13年 幸手市発行
  • 『古河市史』資料中世編 古河市史編さん委員会編集 昭和56年 古河市発行

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