喜連川騒動

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喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、喜連川藩正保4年(1647年)に起こった藩政の混乱である。旧喜連川町出版の『喜連川町誌』によれば、家老の一色刑部らによって起こされたとされる。

事件の背景

喜連川家は、足利家嫡流の大名である。外様で約5000石の小大名だが、 徳川家親族扱いとして10万石扱いであり、諸役御免で参勤交代の任も免除された特殊な大名である。

喜連川一色家は足利家親族として、喜連川藩祖足利国朝から、国朝の弟の2代藩主喜連川頼氏、頼氏の孫の3代藩主喜連川尊信の時までの58年にわたり喜連川藩の筆頭家老格であった。喜連川家の家老は江戸城においての将軍との謁見を許されており、参勤交代の任のない喜連川当主の代行として、徳川将軍家や幕府との折衝に当たっていた。このことは外様では同家だけで、譜代大名家であっても数少ない特権であった。

騒動を起こしたとされる一色刑部は、一色氏久(官位は右衛門佐)の嫡孫であり三代筆頭家老にあたる。一色氏久は、古河公方家の御奉公衆筆頭・御連判衆筆頭を勤め、足利義氏の頃より古河公方家の実質的な政務を担当しており、その子足利氏姫の時代に喜連川家が起こると、その初代筆頭家老を勤めた。

「喜連川町誌」における事件の経緯

慶安元年(1648年)春、脱藩浪人となった尊信派の老臣高野修理が、5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老[1]一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と直訴に至った。[2]

事件の現地調査に当たった幕府御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰って、「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」と報告した。幕府御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の3名であった。喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名は、事件後の一代家老となった[3]

幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが、このときは大老酒井忠勝老中松平信綱阿部忠秋阿部重次の4人が特別にその審理に参加し、評定役には酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たった。酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟で、高家吉良義冬の義父であり、訴えられた一色刑部と同じく足利家の親族であった。

喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島流罪、一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名は大名旗本預かりとなったとされる。また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(15歳)は、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守[4]に預けられたとされる。

高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は開放され藩政を取り戻し、その約5年後の承応2年(1652年)、尊信の死去により4代喜連川昭氏(7歳)が大叔父である榊原忠政を後見人として家督を相続した[5][6]

この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。

忠臣として記述されている尊信派の中で、二階堂又市だけは喜連川騒動事件の15年後に帰参を許されている。

『及聞秘録』(筑波大学中央図書館和文書館所蔵・閲覧可)の記録

     喜連川左兵衛督乱心の事        家老三人遠流の事

 喜連川左兵衛督尊信とは、関東の管領足利左馬頭基氏の末孫である。足利家は代々衰え将軍足利義輝卿が三好の為に殺害されたことにより、諸国の管領公方家の威勢も衰えこの尊信の時は野州喜連川に僅かな所領を持つのみで、喜連川殿といわれていた。

 承應(正保?)年間、喜連川左兵衛督尊信は、「狂乱の病」にかかった。よって、一色刑部二階堂主殿、柴田某の三家老は、互いに合心して尊信を座敷にて「押し籠め」とした。

 幕府には、尊信は「病床中」につき、長く参勤できないが、三家老の合議のもとに藩政及び仕置きを行っていると報告していた。

 ところが、その後、尊信の近習として仕えていた、高四郎左衛門と梶原孫次郎と云う者がおり、この両人に不届があったので、三家老は合議の上、この両人を追放した。

 その後、この両人は今度(このたび)われ等を追放したのは、三人の家老の所為であるとして内密に江戸に来て一通の訴状(目安)を公儀に提出(差出)した。

 訴状(目安)の大意は、「一色、二階堂、柴田の三家老が私事の為に、君主尊信を「狂乱の病」と偽り、座敷牢をもうけて「押し籠め」とし、藩政と家内の仕置を三家老共の心のままにいたしており、いわれのない、私ども両人を追放したので、公儀において詮議してほしい。」というものであった。

 早速、幕府目付衆が調査の為、両人(高、梶原)の喜連川に下向したところ、喜連川尊信は何を思ってか座敷牢から抜け出し、行方不明になってしまったので3家老は驚き、行方を聞き廻り、尊信をやっと探し出し再度、押し籠め厳しく番人に守らせた。

 幕府の目付衆が着くなり、尊信を屋形に移し面談しょうとしたが、その日、尊信は調子が悪く座敷牢から出すことが出来ないので目付衆は別れて面談した。そして、「尊信の狂乱は紛れない。」ことを確認し、江戸に立ち帰り公儀に報告された。

 後日、三人の家老を評定所に呼び、高四郎左衛門、梶原孫次郎の訴えについて、御目付が両名(高、梶原)を吟味した所、「喜連川(尊信)狂乱の委細に紛れない。」ことを認めた。

 お上は、これを聞かれて「かようなる事を只の今まで病気と報告し、尊信の狂乱を幕府に隠し置いていたことは、不届きである。」と思い召くゆえ、三人共(一色刑部、二階堂主殿、柴田某)は伊豆の大嶋に流刑とし三人の子供は、それぞれ諸大名預りとした。

 一色刑部の長男  相木与右衛門(妾腹)は、

              摂州尼崎城主 青山大膳亮(幸利、譜代、幕府奏者番) 御預かり

     同じく次男  一色左京(嫡子)と三男一色八郎は

              泉州岸和田城主 岡部美濃守(宣勝、譜代) 御預かり

 二階堂主殿の嫡子 二階堂某は、

              奥州白川城主 本多能登守(忠義、譜代) 御預かり

 柴田某の嫡子    柴田某は、

              越後国新發田城主 溝口出雲守(宣直、外様) 御預かり


 三人の家老達は伊豆大島に船着し暫く居住していたが何れも老人であり程なく共に病死した。年を経て、大猷院様(徳川家光)の十三回忌(1662年)の時、大嶋の流人も多くが赦免となった。

 三人共(三家老)はすでに病死であったのでその儀は出来なかったが三人の子供を赦免しそれぞれ主取とした。中でも一色左京については名高き者の子であるので水野監物忠善より二百人扶持を賜り客分扱いで仰呼された。

 この一色氏というのは、清和天皇の後胤で、高家の一人といえる。相州北条家の幕下に属していたので天正十八年の豊臣秀吉公が北条父子を攻め滅ぼした時、一色も浪々の身となり何とか豊臣家に仕えて家を再興しょうと思っていた所、関八州は家康公の所領となったので多くの関東在住の名士は皆家康に仕えた。

 この時、一色を累代の高家として家康公から召誘いがあったが「すでに年老いており馬の乗降さえやっとの身であるので」と丁重に辞退した。しかしその後、秀吉公に見目しようとした時には、秀吉公はすでに体調が悪く仕官はかなわず彼の子孫は喜連川の家臣として微少の身であった。その後、一色左京には男子がなく断絶したといわれる。説には兄の妾腹であった相木与右衛門については後御当家へ仕官したといわれる(以上訳)

江戸での文献と記録

同時代の幕府による、喜連川藩にかかわる文献として、東京大学史料編纂所の「史料稿本」、および、『徳川実紀』(大猷院殿御実紀)に記録がある。

東京大学史料編纂所の「史料稿本」には次の綱文(慶安1年12月22日2条)が記されている[7]

是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す

この綱文によると、幕府は藩主3代喜連川尊信に隠居を命じ、高野四郎左衛門たちを大嶋(=伊豆大島)に流したことになる。

また、『徳川実紀』の慶安元年7月3日条には

喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医である関ト養に治療をさせた」(要約)

旨が記されている。松平忠次とは、『喜連川町誌』の「年表」で4代喜連川昭氏の後見人とされる、榊原忠政の嫡子で、1649年6月まで白河藩主であった榊原忠次を指し、喜連川尊信の母方の叔父である。『喜連川町誌』で喜連川尊信の病状確認のため幕府御上使が江戸を発ったとされる7月11日は、この記録の8日後である。


一方、阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」(慶安元年9月7日付)によると、

喜連川右兵衛(尊信)を押し籠めにしているのだが、そこから脱走してしまうので、今ついている家来ではなく、誰か適切な人物を一人よこしてほしい」(要約)

と記されている。[8]

また、阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された「江戸幕府老中奉書」(慶安元年11月18日付)によると、

喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。藩主の息子である梅千代(4代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ」(要約)

との達しが下されている。[9]

脚注

  1. 「城代家老」は『喜連川町誌』の表現による。当時喜連川藩に城はあったものの、火災と快便性のために山下に館を設けており、藩主は常時ここに在したため、実質的には「筆頭家老」である。
  2. 『喜連川町誌』では、3代尊信の正室(那須資景の娘)の子万姫(8歳)もこの直訴に加わったとされているが、『喜連川郷土史』ではこのことは記載されていない。
  3. 誰の家老かは明記されていない。
  4. 『喜連川町誌』による。『寛政重修諸家譜』によれば、本多能登守(本多忠義)が白河藩主であったのは、喜連川騒動事件解決の翌年1649年6月からであり、それまでの白河藩主は榊原忠政の嫡子榊原忠次(大須賀忠次、松平忠次とも)であった。
  5. 『喜連川町誌』による。『寛政重修諸家譜』によれば、榊原忠政は、喜連川騒動の40年前の1607年10月に死去した人物である。
  6. 喜連川の専念寺にある昭氏の生母(一色刑部の娘で、3代尊信の側室)の墓石に刻まれた死去年は、昭氏生誕の一ヶ月後の寛永19年(1642年)12月2日と刻まれている。「欣浄院殿深誉妙心大姉」と号する。
  7. 東京大学史科編纂所データベースの大日本史科総合DB(外部リンク参照)出典として『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』『寛明日記』『寛政重修諸家譜』『足利家譜(喜連川)』を、参考文献として『聞及秘録』が記録されている
  8. 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P63による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。概説によると、当初つけられていた家来は二階堂主殿(15歳)とされている。
  9. 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』P65による。喜連川町教育委員会所蔵の文書。

参考文献

  • 「喜連川騒動の顛末」(『喜連川町誌』喜連川連川町誌編さん委員会編、喜連川町、1977年)全国書誌番号73007745
  • 「狂える名君」(『喜連川郷土史』片庭壬子夫・喜連川町教育委員会、1955年)
  • 『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』栃木県立博物館人文課、1993年 ISBN 978-4924622760
  • 『徳川実紀』
  • 『寛政重修諸家譜』

外部リンク

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