酒井了明
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酒井 了明(さかい のりあき)は、出羽庄内藩組頭酒井了安の子。庄内藩家老。
人物
1865年6月、庄内藩の家老になるも、翌年に藩政改革の陰謀に兄の酒井右京が加担していた事に関連して、謹慎処分となり、1867年9月に家老を免職となる。
戊辰戦争で名を馳せた名将、酒井了恒(長男)。庄内柿の生みの親として有名な酒井調良(次男)。庄内婦人会会長の白井久井(長女)。書家の黒崎研堂(三男)の父である。
略歴
- 1817年2月26日、庄内藩の組頭酒井了安の子として鶴岡に生れる。
- 1843年、長男の了恒が誕生する。
- 1848年、次男の調良が誕生する。
- 1849年、兄・酒井右京の跡を継いで家督を相続する。長女の久井が誕生する。
- 1851年、庄内藩の組頭となる。
- 1852年、3男の研堂が誕生する。
- 1859年、庄内藩の老中となる。
- 1860年、蝦夷地副奉行を命ぜられて赴任する。
- 1865年、帰国して庄内藩の家老となる。
- 1866年、藩政改革陰謀の取調掛を命ぜられたが、兄右京が陰謀に加担していたため謹慎する。
- 1867年、家老を免職となる。禄800石を減ぜられて隠居、嫡子了恒(玄蕃)に家督を譲る。
- 1883年5月25日、死去する。享年67。
関連項目
出典・参考文献
- 『庄内人名辞典』 編纂・出版:庄内人名辞典刊行会