最上義光
台德院殿御實紀卷一 慶長十年四月に始り六月に終る
出羽國山形城主最上出羽守義光が遺領五十一万石を。その子駿河守家親につがしめらる。此義光が家は義家朝臣の三男式部大輔義國の孫上野介義兼より六代伊豫守家兼が二男修理大夫兼賴が後胤なり。父は右京大夫義守といひて。世々㝡上郡山形の城に住して尤舊家たり。義光室町將軍義輝より諱字を授られ。爵ゆりて右京大夫義光と稱し。後出羽守に改む。少年の時より豪雄にして。父が讓りをうくるより。寒河江八沿天龍上山鮭延等の地をうちしたがへ。大寳寺が家を亡して庄內三郡を合せて領したり。天正十八年の秋豐臣關白小田原の北條責んとて。關東に下られしとき。義光㝡上に參陣し。かねて都に使を參らせてしたがひしかば。子細なく本領を安堵す。織田右府の時より義光 當家にも音信を通じければ。義光今度馳參るよし聞召。酒勾の邊に御使たまはり迎へらる。十九年正月八日從四位下侍從に叙任し。その秋奥の九戶が叛し時。義光二男太郞四郞わづかに十歲なるを具して御陣に參り。御家人に參らす。悅ばせ給ふ事大方ならず。また義光が女を關白秀次に參らせ。寵愛を蒙りしに。秀次太閤のけしき有て自殺せらるゝに及び。義光が女も誅せらる。其とき義光も秀次の謀叛に與せしとて。旣にその國收公せらるべきに定まりしに。 大御所の御はらひにて。その罪ゆるされしかば。義光悅ぶ事大かたならず。いかにもしてこの恩報じ參らせんと思ふ所。あくれば慶長元年閏七月十二日の夜。大地おびたゞしく震て。伏見の城悉く破れ崩る。在京の大小名大閤のもとに馳參る。義光一人家子郞等引具しはだかせ馬に鞭打て。 德川家の御館に馳來り。かゝる時には人の心もはかりがたし。義光かくて候はんには。御心易思召べく候と申て御館を守り。其後太閤みづから 大御所に茶進らせんといふ。其事がらあやしう聞えしかば。義光いそぎ御前に參り。かまへて今日の事御心得有べきなり。義光これに侍れば何の恙わたらせられん。去ながらとくかへらせ給ふべきにて候と。御供して立歸る。關原の事起るに及んで上杉中納言景勝が石田治部少輔三成と心を合せ軍起すにより。義光にも味方に參るべきよし申をくる。義光わざと同心のよし返答して。其事を 大御所の御かたにうつたふ。頓て上杉御追討のため御下向有により。義光は南部秋田を先として山北の輩を引具し。會津に攻いらんとす。然るに上方また軍起ると聞て。山北の輩悉く引返す。景勝始め義光にたばかられしをいかりて。軍勢をさしむけ義光が城に城を攻落す。關原上方の軍旣に敗れぬと聞えしかば。上杉が軍勢引返すを。爰かしこに追詰追詰。千五百八十餘人が首切て。谷地の城酒田の城を落し。明れば六年其勸賞に庄內三郡山北の地悉くたまはり。原封に合せて五十一万石領し。