福知山弁とその方の気性

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京都府の福知山弁とその方の気性

福知山弁は「し取る」と、その否定形に「し取ん(怒)」があって、前発言はあなた「我」がする「し」、僕「我」がそれをする「取る」であるのに対し、後発言は、あなたがする「し」、僕がそれをしない「取ん(取ら無い)(怒)」でいる。僕が見てきた福知山人はこう言う。「何、し取ん!(怒)」は前述の通りで、福知山人の独特の方言であり、地方語で意味になって無い。「し取る」は、一つの動詞に主語「僕」が二つあるので「僕僕」になり日本語の「僕」を中国語に翻訳すると「我」になり「我我」になる。これは見てわかるようにフロイトやユングが主張する「自我」でない。

福知山人の礼儀

以上より、つまりお互いに目を見ずにする、マネのし合いである。笑顔で「言う取る」で「し取る」ばかりで「し取ん(怒)」はしない。(自我)の人に「自分が気持ちええで(怒)」としばしば聞くのは「自」が小さく「目」が小さいために、福知山人は恐らく目線が合うと傷ついているので合わないように心配りをしていて鼻も良く見ている。目線とし取ると何か、その三ケ所がそろう態度で福知山社会に適応できるのである。対人外視は風景が分かりづらそうである。また「し取ん」もすれば突然、怒り出す。それは片方の我は欠落するからなので、それはしてはいけない。

僕や私を中国語の我にした、訳です

漢字は中国から5世紀頃に日本に伝来して794年からの平安時代に、その漢字から、ひらがなやカタカナに文化したので現在、日本で使われてある主語の「私」や「僕」と中国語の主語の「我」にはつながりがあると考え、我にも僕や私の「ひとへんとのぎへんの途中」があり、自我の語源もヨーロッパ発祥のフロイトやユングに主張された、心理があるので自然である。

自我と我我について

中国語は「我」を書く、それは日本語では「僕」と「私」で他方は「自」である。「自」の漢字では「目」があるので、「目」で見るのは他人でその二つで「自-我」(君を見て-僕がする)である。 「我-我」(君-僕)は自は小さいので目を合わせてはいけない。例えば(歩い-取る)。

マインドコントロールの仮説

心的傷感

恐らく、福知山人の我-我(君-僕)の気性を述べた、君の言動を「分かっ取る」だけで後に、僕が君へ向かって傷つけるような発音混じりの発声をするだけで、カッターナイフで心臓に切られるような傷を与えれる。そう言う瞬間に気付けられるのと心臓をつらぬくような傷も与えれる。心的好感もあってそうできる、心理的手法は僕にはわからないけれど確立されてあるはずである。だから日常的にそれを感じている。

マインドコントロール

「し取る」、つまり「僕は君を行動的にコントロールできるから満足している」ということである。自ら気づいて動くと、コントロールできないから、福知山人の少年期は不満を感じて怒るんだと思う。それが成人に達した、福知山人のマインドコントロールにつながる、福知山人はそう言う欲求を常に持っている。さらに、僕のある言動の心が福知山人に傷感や好感を与えられて、僕は日常的に傷を感じた、言動を現にしたくなくなっているが好感を感じる言動はしやすくなるはずである。 初めに発言内容の発音を聞き「え?」等「何て?」と問われ二回目に発言内容の意味を聞いている。その発音と意味の二つを組み合わせると、ある瞬間に心的傷感や心的好感を与える発言がある。一時的に心的傷感の場合は行動できなくて、心的好感の場合は容易にできるようになる。つまり、それがマインドコントロールである。僕は、その発言をする瞬間と性質が相手の心にどう伝わり感じるのか、さっぱり分からない。そう言うパターンが受け身側としてあったので、以上までが気づけれたマインドコントロールの概要である。だからウィキに書かれてある丹波方言の音韻は何拍名詞・何類の発音に表出されるのである。最後にやはりそれをするものは我我であると言えるだろう、我(発音や時間の声)-我(意味の声)。だから福知山人はよくこう言う「その時点で」。

マインドコントロールの危険性

福知山人はマインドコントロールをするために他人に依存をして、近畿地方の都に相応しくなれば県民に集団的に依存して取ってばかりの人格になる危険性がある。織田と明智の関係をみれば正にそうである。

本能寺の変「明智光秀のマインドコントロール」

まず初めに重臣・明智光秀の天格は(我-我)を表出しているのが分かるだろう。智我の日は明が自であるはずだが、日同士でつながり我になっているので我我になり、それは明智が我我である、心理的裏付けになる。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反で自害に追い込められた説が色々あり、戦国時代から日本史上初天下を10日間だけ取った最高権力者である三日天下の明智は、どのようにして織田を自害においやったのか言動調査が行われ、福知山人に取ってそれらの手法は先祖代々受け継がれていくべきものであるから現在にも、行われている。僕が体験した上述の観点から過去にあった本能寺の変への真相に迫ることができる。明智が我我だったから、他の家臣にある瞬間に言わせて、家臣は織田に怒鳴られ次々に離反して行った。明智はさらに謀反で、織田がいる本能寺を織田兵を騙し率いて包囲した。火矢を放ち火事にしただけで明智の思惑通りに織田を自害に追い詰めれる、行動のコントロールや怒りの情をも思い通りに動かす(激怒)が成功した事例があって例えば、織田が「バカもん、このキンカン頭が!(激怒)」と光秀に向かって光の下と秀の上の部分を取って組み合わせて禿げである(多分、これが現在の鼻が大きい人に向かって「鼻の臭い奴(怒)」になっている)、キンカン頭が有名な織田の怒りであった事や、さらに約4世紀の間にマインドコントロールの研究が明智発祥の福知山社会の背後で行われていたはずだろう。

本能寺の変は有力な説が他にもありますか?

皆さんが本能寺の変の全貌を解明したいのなら、心象も必要でそれを記述する、文献はないと考える。織田がどのような態度だったのか?僕にされたのは明智が企んでいそうである。本能寺の変は未だ説が多数あり、なぜ明智は織田がいる、京都の本能寺に進軍包囲火矢で火事にしただけで織田はどこの兵の勢力かも確認せずに自害されたのか?僕はやはり福知山弁を知り、心象を感じれば、織田が感じる気持ちが分かる気がする。それは非常に主観的なので他の人には信じられないと思うが、本能寺の変はそうな出来事である。