ファシスト党
[[Image:ムッソリーニとファシスト党本部.jpg|350px|thumb|[[ムッソリーニ]]と[[ファシスト党]]の本部(1934年)]] '''国家ファシスト党'''(こっかファシストとう、'''PNF''')は、かつて存在した[[イタリア王国]]の[[政党]]。[[ファシズム]]思想の創始者である政治家[[ベニート・ムッソリーニ]]が自身の理論を具体化する為、[[イタリア戦闘者ファッシ]]を基盤に設立した。[[1922年]]に[[サヴォイア家]]との協力体制を作り、[[1943年]]の国王命令による解散まで事実上の[[一党独裁]]を成立させた。[[全体主義]]に基いた統治を行ったと一般に考えられるが、後世においては議論もある。 現在の[[イタリア共和国]]議会では[[民主主義]]に対する脅威として、後継組織である[[共和ファシスト党]]と並んで再結党が禁止されている。 == 党名の由来と党員構成 == 「ファッショ (fascio)」とは[[イタリア語]]で「束」、「結束」を意味し、[[1919年]]にファシスト党の前身「[[イタリア戦闘者ファッシ]]」がその組織名として用いている(fasciは、fascioの複数形)。[[古代ローマ]]時代の[[ラテン語]]まで語源をさかのぼると、[[共和政ローマ]]の[[執政官]]の権威の象徴であった[[ファスケス]](束桿)を意味している。このためファスケスはファシスト党の意匠として用いられた。 「ファッショ」の語は19世紀後半以降、社会運動の[[結社]]の名にしばしば用いられており、「イタリア戦闘者ファッシ」結成段階ではまだ特定の意味をもつものではなかった。 ファシスト党の党員は、[[共産主義革命]]の防止を目的とした[[中間層]]・[[農民]]中心の雑多な集団であった。「イタリア戦闘者ファッシ」に参加したのは、[[第一次世界大戦]]の勃発に際してイタリア参戦を主張したグループ、また、大戦の勇士として知られた選抜突撃隊の兵士たち、さらに、[[ジョルジュ・ソレル]]や[[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ|フィリッポ・マリネッティ]]の影響を受けた[[未来派]]のメンバーであり、[[イタリア社会党]]や革命的[[サンディカリスム]]の系譜をひく戦闘的分子も含んでいた。復員兵士が多く、その党勢の拡大に果たした役割は大きい。左翼革命を怖れる[[資本家]]・[[地主]]・[[軍部]]・[[官僚]]などの支援を受けて勢力を拡大した。 == 組織 == === 象徴 === *党歌:『[[ジョネヴィッツァ]]』 *党章・党旗等 <gallery> Image:National Fascist Party logo.svg|党章(党名、[[三色旗]]、[[ファスケス]]) File:Italian Fascist flag 1930s-1940s.svg|党旗(黒旗、[[ファスケス]]) File:Fascist Eagle.svg|制服などに用いられた古代ローマの鷹紋章 </gallery> ===指導体制=== 1926年、1938年に制定された党規約<ref>高橋、ファシズム大評議会と閣議(1)、522-525p</ref>による ====合議機関==== ファシズムの指導は、ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じておこなわれるとされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。 ====指導部==== *[[ドゥーチェ]](統領、頭領) :ムッソリーニの地位の呼称であり、ファシスト党の長であるとされた。1932年以降は幹部の項目に記載されず、別格扱いとなる。 *[[ファシズム大評議会]] :ファシズムの最高機関とされ、1928年には国政機関となった。構成員はドゥーチェ、閣僚、[[ファシスト四天王]]、党書記長 、党全国評議会メンバー、内閣府・内務・外務の次官、義勇軍(黒シャツ隊の後身)総司令官もしくは参謀総長、[[ファシスト労働者総連合]]会長、[[ファシスト雇用者総連合]]会長など *党書記長 :ファシズム大評議会では書記を務める。政権獲得後は勅令による任免を受けるようになり、内閣閣議に参加した。 *全国指導部 *戦闘者ファッショ書記 ====議席数==== {| class="wikitable" style="font-size:0.906em; width:60%; text-align:center;" |- ! style="background:gray; color:white; text-align:center;" | 年度 ! style="background:gray; color:white; text-align:center;" | 党首 ! style="background:gray; color:white; text-align:center;" | 得票数 ! style="background:gray; color:white; text-align:center;" | 得票率 ! style="background:gray; color:white; text-align:center;" | 議席数 |- | [[:en:Italian general election, 1921|1921年]] || [[ベニート・ムッソリーニ]] || 31,000 || 0.5% || 2 |- | [[:en:Italian general election, 1924|1924年]] || [[ベニート・ムッソリーニ]] || 4,305,936 || 61.3% || 356 |- | [[:en:Italian general election, 1929|1929年]] || [[ベニート・ムッソリーニ]] || 8,517,838 || 98.33% || 535 |- | [[:en:Italian general election, 1934|1934年]] || [[ベニート・ムッソリーニ]] || 10,026,513 || 99.84% || 535 |- |} ===スローガン=== * ''Il Duce!'' (''我らがドゥーチェ'') * ''Viva il Duce!'' (''ドゥーチェ万歳'') * ''Eja, eja, alalà!'' (''万歳!万歳!万歳!'') * ''Viva la morte'' (''犠牲を払え'') * ''Credere, obbedire, combattere'' ("信じ、従い、戦う") * ''Libro e moschetto - fascista perfetto'' (''書物と銃がファシストを作る'') * ''Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato'' (''国家こそ全て、国家の外には何もない'') * ''Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi'' (''我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。'') * ''Me ne frego'' (''何も気に留めず'') * ''La libertà non è diritto è un dovere'' (''自由は権利ではない、義務である'') * ''Noi tireremo diritto'' (''我らは進む'') * ''La guerra è per l'uomo, come la maternità è per la donna'' (''男の闘争性は、女の母性と同じである'') == 党史 == === ファシスト党誕生の背景 === 第一次世界大戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していた[[リエカ|フィウーメ]]などの[[領地]]が得られず、[[ヴェルサイユ体制]]に強い不満をもつ人も少なくなかった。また、[[資源]]に乏しく経済基盤の脆弱であったイタリア王国は、その戦費を[[外債]]に依存したため財政難にみまわれた。経済危機も深刻で、大量の[[失業者]]が生まれ、[[ロシア革命]]の影響も受けて、労働者の[[ストライキ]]や農民の[[小作争議]]がひろがり、[[社会主義]]勢力が拡大した。物資不足から激しい[[インフレーション]]も起こって民衆の[[生活]]を直撃した。あたたかい歓迎と安定した暮らしを夢みてイタリアのために戦った兵士たちは、経済混乱にあえぐ祖国に帰り、新たな失業者の一群、余計者の集団として、むしろ冷たい視線を浴びることとなった。 折から1919年から1920年にかけては、労働者のストライキや農民の小作争議が頻発して社会不安が増加していたのである。 === 「イタリア戦闘者ファッシ」から政権獲得まで === 第一次世界大戦前のベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党内では正統派[[マルクス主義]]というよりは[[ジョルジュ・ソレル]]の思想に影響を受けており、党主流の[[社会改良主義]]的な路線とは一線を画し、その批判者として頭角を現した。 [[1912年]]には社会党執行委員に選ばれ、党の重要な日刊紙「アバンティ!''''、「前進」 )」の編集長にまでなっていたが、[[1914年]]夏、第一次世界大戦がはじまると、伝統的な[[平和主義]]から「イタリアの絶対中立」を唱えた党の方針に反対、[[戦争]]とその帰結にこそ革命の展望があるとする立場から11月「ポポロ・ディタリア」を創刊して、イタリアが[[英仏協商]]側に立って参戦すべきとの意見を主張してイタリア社会党を除名された。また、14年末からはイタリア各地でうまれた参戦主義者団体「革命行動団」の指導者となった。 [[1919年]][[3月23日]]、ムッソリーニは[[ミラノ]]で、復員軍人を主体にして、革命阻止と[[国粋主義]]の立場で「イタリア戦闘者ファッシ」を組織した。創立大会の出席者は145人といわれ、復員将校のほか、地主や資本家の子息である右翼学生が多く、上述のように「未来派」の影響を受けた青年も多かった。創立大会宣言では、イタリアの領土の拡大を主張している。6月6日にはポポロ・ディタリアから[[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ]]らによる[[ファシスト・マニフェスト]]が出版されている。 1919年から[[1920年]]にかけて、北部イタリアの諸都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して[[地代]]の支払いを拒否するなどの小作争議も起こって社会不安が醸成されていた。 戦闘者ファッシは、当初は、[[王政]]の廃止、戦時利得の85パーセント没収、労働者の経営権への参加、[[最低賃金|最低賃金制]]、大土地所有者の土地の農民への分与など[[サンディカリスム]]的な[[綱領]]を掲げていた。そうしたなかで、1919年11月の総選挙ではイタリア社会党が全体の3割にあたる180万票を獲得して154議席を確保したのに対し、戦闘者ファッシの獲得票は5,000票たらずであり、1人の当選者も出なかった。 [[1920年]]になるとストライキは激化し、9月には北イタリアで社会党左派([[1921年]]1月、[[イタリア共産党]]を結成)の指導のもと50万人の労働者が工場を占拠し、農民も各地で地主保有地を占拠するなど、あたかも革命前夜を思わせるような情勢となった。社会党指導部の不決断により工場占拠闘争が敗れ、革命的情勢は退潮に向かったものの、[[ポー平原]]の[[ボローニャ県]]と[[フェラーラ県]]では、農業労働者による農業協約改訂闘争が勝利し、社会党も10月の地方選挙で引きつづき優位に立って2,000以上の自治体を掌握した。 こうした、零細農民や労働者の直接行動に危機感を抱いた地主、土地を得た中小農、都市の中間層は、自由主義政府の支援を求めた。しかし、それがかなわないと知ると、彼らは戦闘者ファッシと連携して武装行動隊(''squadra'')を編成し、20年秋より直接行動の挙に出た。 ムッソリーニも黒いシャツを制服として使用させた「[[黒シャツ隊]]」を武装行動隊として編成して、こうした革命的な動きを暴力的に鎮圧した。これにより、中産階級・資本家、軍部、地主層などの支持を広げて資金や武器を得て[[1921年]]5月の総選挙ではムッソリーニふくむ35名の下院議員を当選させ、同年11月、戦闘者ファッシは政党「ファシスト党」(全国ファシスタ党)に改組、[[ミケーレ・ビアンキ]]を[[書記長]]とした。[[1922年]]5月と8月の2度にわたり、政府軍に代わって[[ゼネラルストライキ]]を鎮圧し、軍や資本家の支持を不動のものとした。 さらに1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーリは「政権がわれわれに与えられるか、われわれがそれをとるかだ」と演説し、28日、4万人のファシスト党員がビアンキ、[[エミーリオ・デ・ボーノ|デ=ボーノ]]、デ=ベッキ、[[イータロ・バルボ|バルボ]]の「ファシスト四天王(ムッソリーニ四天王)」と称される4人の幹部に率いられて[[ナポリ]]などからローマにむけて進軍する示威行動、いわゆる「[[ローマ進軍]]」をおこなった。ムッソリーニ自身はこの進軍に参加せず、ミラノに待機した<ref>ムッソリーニは、この計画が失敗に終わった場合、亡命できるよう準備していたという。</ref>。国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]は10月30日ムッソリーニに組閣を命じ、首班指名を受けて政権を授与された。彼は翌31日、ミラノから寝台列車でローマにはいった。こうして、史上初のファシズム政権が成立した。 === 独裁体制の確立 === [[1923年]]ファシスト党に有利な新選挙法が制定され、[[1925年]]から26年にかけて結社や治安・行政権の集中に関する諸法律を制定、[[1926年]]11月にはファシスト党以外のすべての政党の解散を遂行して、[[一党独裁制]]を確立した。、イタリア王室、軍部、財界などの支持を得て独裁体制をととのえた。また[[ファシスト産業組合]]を設立して労働組合を統制し、言論の自由もきびしく制限された。[[1924年]]にはユーゴスラビアとの直接交渉で[[未回収のイタリア]]の一部である[[リエカ|フィウーメ自由市]]を獲得し、ファシズム政権最初の外交的勝利となった。[[1928年]]9月には、ファシズム大評議会を正式に国政の最高機関とした。 [[1929年]]には[[ローマ教皇]][[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]と[[ラテラノ条約]]を結び、[[ローマ教皇庁]]との和解が成立し、イタリア王国は[[カトリック]]を唯一の宗教とすることを認め、教皇の主権下に[[バチカン|バチカン市国]]がイタリアから独立することを承認した。これにより、[[1870年]]以来つづいてきた教皇庁とイタリア王国の対立は解消し、ファシスト党はカトリック教徒の支持を確保したこととなる。ムッソリーニは、ローマ教皇庁に対し、小中学校におけるカトリック教育の義務化、聖職者の[[徴兵]]の免除、教会の葬祭・[[婚姻]]の統制などを認めるなど大幅に譲歩し、これらと引き替えにファシスト独裁体制の威信を高めることに成功した。 ムッソリーニはつとに[[ヴェルサイユ体制]]の打破を唱えた。また、「古代[[ローマ帝国]]の復興」を掲げたが、これは単なる士気向上が主目的であり、現実味の片鱗もない話ではあった。経済危機を打開するために膨張主義政策に着手し、1927年には[[アルバニア王国 (近代)|アルバニア王国]]を保護国化、[[1935年]]10月には[[エチオピア]]を併合した。[[1938年]]、人種法を制定する。 経済政策の面では、1922年から[[1925年]]にかけて[[アルベルト・ステファニ]]が政府の[[費用|コスト]]を削減し、民間企業をほとんど国有化することなく、一時頻発したストライキをおさえ、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して、特に[[マフィア]]の活動を押さえ込んで犯罪件数を減少させた。[[所有]]形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの[[民主主義]]国家の指導者や評論家のなかにも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える向きがあり、辛口な論評で知られた[[イギリス]]の[[ウィンストン・チャーチル]]さえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。 しかし、[[1929年]]の[[世界恐慌]]の影響により失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、[[第二次世界大戦]]が開戦する[[1939年]]までには、イタリアは[[ソビエト連邦]]に次いで国有企業の多い国となった。1939年3月、議会を廃止して全国組合協同会議にかえ、全体主義の組合国家体制としている。 === ムッソリーニ失脚と党の解体 === [[1943年]]、連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピアを含むアフリカでの戦いにも敗北し、完全に劣勢に立たされたイタリアでは国王を中心にムッソリーニ追放の動きが始まった。7月24日、5年ぶりに[[ヴェネツィア宮殿]]([[:en:Palazzo Venezia|en]])で行われたファシズム大評議会において、下院議長で王党派の[[ディーノ・グランディ]]伯爵は連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及し、「統帥権の国王への返還」の動議を提出した。これにに対し、ムッソリーニの女婿でもあった[[ガレアッツォ・チアーノ]]外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、過半数の賛成を得て成立した。ムッソリーニは翌7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨を報告したその直後に憲兵隊に拘束され、即座に幽閉された。 ムッソリーニの失脚により、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の解散を命令、[[ピエトロ・バドリオ]]を首相に任命した。その後、ムッソリーニは、9月ヒトラーの指令による[[グラン・サッソ襲撃]]によって救出され、ドイツ支配下の北イタリアに建てられた傀儡政権[[イタリア社会共和国]](サロ政権)の首班となった。ドイツの強い要請により大評議会で賛成票を投じたチャーノら幹部は処刑された。社会共和国でファシスト党は[[共和ファシスト党]]として再建され[[ヴェローナ憲章]]([[:it:Manifesto di Verona]])を綱領としたが、ほとんど活動は行われなかった。1945年4月25日に社会共和国が崩壊すると、党も自然消滅した。 === ファシスト党の流れを汲む現代政党 === イタリアにおいては、第二次世界大戦後もファシスト党の流れを汲む一定の勢力([[イタリア社会運動]])が存在した。現在のイタリアの[[極右]]政党[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]]も、穏健化してはいるがファシスト党の影響を残している。国民同盟の穏健化は国民から評価され、1994年の[[フォルツァ・イタリア]]による[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]政権誕生へとつながった。 また国民同盟はかつて、ベニート・ムッソリーニの孫娘[[アレッサンドラ・ムッソリーニ]]が所属していた。アレッサンドラは国民同盟を離党後、極右政党「行動の自由」(現在の名称は「社会行動 (Azione Sociale)」)を結成した。[[欧州議会]]選挙では他の[[ネオ・ファシズム]]運動と連携して会派「社会的選択」を組織して票を獲得し、アレッサンドラは[[欧州議会議員]]に当選した。 ==出典== === 脚注 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} === 参考文献 === * [[大森実]]『人物現代史2 ムッソリーニ』[[講談社]] 講談社文庫 1994年8月 ISBN 4-06-185732-0 * [[佐藤優 (外交官)|佐藤優]]「民族の罠(第五回)ファシズムの誘惑」『世界』745号 [[岩波書店]] 2005年 * [[ジョルジュ・ソレル]]『[[暴力論|暴力論(上・下)]]』今村仁司、塚原史訳、岩波文庫、新版2007年 (上巻)ISBN 978-4003413814、(下巻)ISBN 978-4003413821 *[[高橋進 (政治学者・イタリア政治)|高橋進]]『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004637491 イタリア・ファシズム体制論 : ファシズム大評議会と閣議(1)]』 **『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004638006 イタリア・ファシズム体制論 : ファシズム大評議会と閣議(2)]』 **『[http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/113/11304.pdf ファシズム・国家・党・市民社会]』 === 外部リンク === * [http://www.worldfuturefund.org/wffmaster/Reading/Germany/mussolini.htm (英文)ファシズムの教義 ベニート・ムッソリーニ 1932年] == 関連項目 == *[[ファシズムの定義]] *[[ザ・ドクトリン・オブ・ファシズム]] *[[ファシスト行動隊]]([[:en:Squadrismo]]) *[[ジョヴァンニ・ジョリッティ]] *[[キリスト教民主主義 (イタリア 1942-1994)|キリスト教民主主義]] *[[イタリアの歴史]] *[[ティート・スキーパ]] *[[ネオ・ファシズム]] {{ファシズム}} {{DEFAULTSORT:ふあしすととう}} [[Category:ファシスト党|*]] [[Category:ファシズム|*]] [[Category:イタリア王国]] [[Category:かつて存在したイタリアの政党]] [[Category:イタリア社会主義]] [[Category:フランス社会主義]] [[Category:無政府主義]] [[Category:ヨーロッパの社会主義]] [[Category:コーポラティズム]] [[Category:反共団体]]