平沼赳夫

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'''平沼 赳夫'''(ひらぬま たけお、[[1939年]][[8月3日]] - )は、[[日本]]の右翼・極右の[[政治家]]。排外主義者。日本会議支持者。[[衆議院議員]](9期)。右翼政党の「たちあがれ日本」所属。 [[運輸大臣]]([[村山内閣改造内閣|第70代]])、[[通商産業大臣]]([[第2次森内閣|第66代]])、[[経済産業大臣]]([[第2次森内閣改造内閣 (中央省庁再編後)|初代]]・[[第1次小泉内閣|第2代]])を歴任。養父は元[[首相]]の[[平沼騏一郎]]男爵、[[義親|岳父]]は元[[貴族院議員]]の[[徳川慶光]]公爵。義弟に写真家の[[徳川慶朝]]がいる。 == 経歴 == [[東京市]][[渋谷区]]代々木大山町に中川恭四郎・節子夫妻の長男として生まれ、生後まもなく一家ごと[[帝人事件]]の黒幕[[平沼騏一郎]](元[[首相]])<ref>[[平沼騏一郎]](元[[首相]])は母・節子の祖父・[[平沼淑郎]]の弟である</ref>の養子となる(現在は[[岡山県]][[岡山市]]に[[本籍|在籍]])。 [[慶應義塾大学]]法学部を卒業後、[[日東紡績]]株式会社に入社し11年間の会社勤務(営業)の後、[[佐藤栄作]]、[[中川一郎]]の秘書を経て、[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙|第34回衆院選]]、[[1979年]]の[[第35回衆議院議員総選挙|第35回衆院選]]に立候補するが、2回連続落選。落選した最大の理由は、当時[[タブー]]とされた[[憲法改正]]と[[教育基本法]]改正を前面に掲げて戦ったためである。 [[1980年]]の[[第36回衆議院議員総選挙|第36回衆院選]]に旧岡山1区で立候補し初当選。以後9回連続当選。この間、[[石原慎太郎]]、[[亀井静香]]、[[中川昭一]]ら中川一郎に近い[[保守]]系議員たちと共に行動する。派閥は中川一郎率いる[[自由革新同友会]]、中川逝去後に石原が会長就任した自由革新同友会が合流した[[清和会]]、清和会離脱した亀井グループと[[中曽根康弘]]が率いて[[伊吹文明]]や[[佐藤静雄_(衆議院議員)|佐藤静雄]]も属す[[中曽根派|政策科学研究所]]が合流し平沼が初代事務総長として命名した[[志帥会]]。清和会創始者[[福田赳夫]]は自身と名前が一緒で自身の長男[[福田康夫]]の中学・高校の3年後輩である平沼を公私に渡り可愛がった。 [[政治家の年金未納問題]]が注目された際に年金の未納が発覚している。 ポスト小泉(小泉退陣後の後継総理)の有力候補として注目されていたが、[[小泉内閣]]後期では[[拉致問題]]や政治手法の違いから徐々に溝が生じ、[[2005年]][[7月5日]]、[[郵政民営化]]法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。このため、2005年[[9月11日]]の[[第44回衆議院議員総選挙|第44回衆院選]]では自民党公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の[[阿部俊子]]を破り9回目の当選を果たした。特別国会の[[首班指名選挙]]では、[[小泉純一郎]]に投票したが、郵政法案の衆議院再採決では反対票を投じた。解散総選挙で自民党を非公認になり、無所属で当選した13人のうち再び反対票を投じたのは平沼一人であった([[野呂田芳成]]は欠席)。郵政と選挙における行動によって、自民党から離党勧告処分が下った。ただ、法案に再び反対した平沼には除名処分が確実といわれていたが、首班指名選挙では小泉純一郎に投票したため離党勧告処分にとどまった(野呂田は首班指名選挙で[[国民新党]]の[[綿貫民輔]]代表に投票したため除名処分となった)。[[森山真弓]]自民党党紀委員長は平沼が他の造反無所属衆議院議員と同じ離党勧告という処分だったことについて「自民党の行動にすべて反対しているわけではない。『政治的信念を変えられない』ということで、理解できないこともない」と説明した。 離党後も[[麻生太郎]]らと会談していたため、いずれは自民党に復党すると見られていたが、[[2006年]]の[[夏]]には[[民主党代表]]の[[小沢一郎]]や他の郵政造反組と一緒に[[ゴルフ]]を楽しんだり、[[一新会]]の勉強会で講演するなど、自民党を牽制する意味で[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]に接近する動きを見せたこともある。 2006年10月以降に注目された[[郵政造反組復党問題]]では無所属造反議員の中心となり、自民党執行部との交渉役となっていたが、[[中川秀直]][[自民党幹事長]]の厳しい復党条件に反発。中川幹事長と平沼議員との交渉が注目され、中川・平沼の二人がかつて同じ三塚派所属時代の過去の確執も取り上げられた。結局復党では誓約書にただ一人署名せず、他の11人の復党を先行させる傍ら自らの復党は見送る判断をした。 [[脳梗塞]]のため12月から入院となった。このことは2007年1月に明らかにされ、後援会の会見によると症状は軽く意識もはっきりしており、同年2月22日退院した。その後も政界復帰へ向けて身体のリハビリを続け、同年5月10日に衆議院本会議に出席し、政治活動を再開した。その際には、本会議で演説していた同じ[[岡山県]]を地盤とする[[津村啓介]]・[[衆議院議員]]から祝意が示された。 2007年[[参議院議員通常選挙]]では岡山県選挙区でかつて所属していた自民党候補である[[片山虎之助]]への支持を表明した。選挙では、平沼の選挙区である岡山3区内での投票では片山は民主党候補[[姫井由美子]]より約4000票上回ったものの、他の地域では姫井が片山より票で上回る地域が多かったため、片山が落選する結果となった。 参院選後の[[2007年]][[8月]]にかねてから復党に前向きだった麻生が自民党幹事長に就任し、再び平沼の復党問題が浮上。後任の[[伊吹文明]]幹事長も同様の意向であるとされているが、平沼の求めている落選造反議員との同時復党は難しいとの趣旨の発言を行っており、また党内にも小泉元首相や[[小泉チルドレン]]をはじめとする復党反対論が根強いことから、復党にはまだ時間がかかりそうな気配である。 同年[[9月29日]]の[[読売新聞]]などでは[[政治資金収支報告書]]の内訳が報じられ、平沼の集金力は[[亀井静香]]、[[中川秀直]]に次3番手であった。また、平沼が[[城内実]]や[[川上義博]]、[[衛藤晟一]]など郵政造反組・落選議員(中・後者は政界復帰)の資金援助を行っている事実も報じられた。同年[[12月14日]]には郵政落選組の一人、[[小泉龍司]]前[[衆議院議員]]の後援会に出席、小泉に対する応援演説を行った。 [[10月8日]]、前述の[[城内実]]が地元・[[浜松市]]で開いた[[シンポジウム]]に[[ジャーナリスト]]の[[桜井よしこ]]や[[作家]]の[[関岡英之]]と共に出席。その際には「誇り高き無所属」と挨拶をしている。また、浜松を中心とする[[静岡県第7区]]は平沼と[[中川秀直]]の”[[代理戦争]]”という側面も持つ。城内実は[[郵政民営化]]反対で、それまで仕えていた[[安倍晋三]]前[[首相]]に事実上弓を引いた後、平沼に身を寄せるようになる。他方、対立関係にある[[片山さつき]]・[[衆議院議員]]は中川と親しく、先の[[自民党総裁選]]では「麻生太郎クーデター説」流布に一役かっている。 同年11月には[[北朝鮮による拉致被害者家族連絡会]]・拉致議連メンバーらと[[アメリカ合衆国|米国]]を訪問し、[[国務省]]主導の対[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]宥和政策・[[テロ支援国家]]指定解除に対する懸念を米国要人に伝える。対北融和論者の[[クリストファー・ヒル]]国務次官補は玉虫色の反応に終始する一方、[[ジョン・ボルトン]]前[[国連大使]]や[[サム・ブラウンバック]]上院議員、[[イリアナ・ロス・レイティネン]]下院議員らからは前向きの反応があったと述べている。ブラウンバックは平沼との会談の中で、北のテロ支援国家指定解除を阻止する法案提出に言及している。12月にブラウンバックは、[[イラク戦争]]の際にも共闘した[[ジョー・リーバーマン]]らと共に指定解除に条件を課す決議案を上院に提出した。 [[12月4日]]、[[安倍内閣]]崩壊以降停滞していた保守政治再建のための勉強会を立ち上げ。会長には[[中川昭一]]元[[経産相]]が就き。平沼は同会の最高顧問に就任した。また、[[11月28日]]に行われた同会の準備会合では[[東トルキスタン]]の人権活動家・[[ラビア・カーディル]]が招かれ、[[東トルキスタン]]における中国政府の弾圧・強制移住の実態などが話し合われた。[[12月17日]]には中川勉強会の正式名称が「真・保守政策研究会」に決定。19日の会合には[[藤原正彦]][[教授]]を講師に招き意見交換した。 その一方で、「無所属になり、民主党の若手に優秀な人が沢山いることが分かった。衆参のねじれ国会を解消するには民主党に手を突っ込まないとダメだ」と発言するなど、保守系新党結成の可能性を示唆し、与野党に揺さぶりをかけている。このように政界再編の火付け役として存在感をだしている。なお、民主党は今後の政界再編をにらみ、次期総選挙岡山3区に民主党公認候補を擁立しない方針である。 [[2008年]][[2月18日]]、[[台湾]]の[[陳水扁]][[総統]]から、長年・日台友好に寄与した功績から「大綬景星勲章」を[[佐藤信二]]とともに授与された。同年[[5月20日]]には[[馬英九]][[総統]]の就任式に[[石原慎太郎]]・[[東京都知事]]らと共に出席した。 [[2008年]][[5月]]、[[1949年]]の占領下に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が出した、国公立の小中学生に[[靖国神社]]の参拝及び宗教的施設への訪問禁止に対する通達について[[質問主意書]]を送付した。これについて政府側は、「[[1952年]]の主権回復に伴い、同通達は失効しており、小中学生の靖国神社訪問は問題はない」との回答を平沼側に行った。 == 人物 == *[[日本会議]]国会議員懇談会会長を務める。 *現在、[[北朝鮮による日本人拉致問題#被害者家族組織・支援団体|北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟]](拉致議連)会長。また、日本人拉致問題の解決の妨げになるとして、[[人権擁護法案]]に対しては大反対で平沼は同法案を「人権特高警察設置法」と称しており、[[真の人権擁護を考える懇談会]]会長を務める。 *『[[生命の実相]]』を愛読書とする。「私は母から薦められた[[谷口雅春]]先生の『生命の実相』によって唯物思想から脱却した。」と敢然と宣言した<ref>[http://hikarinoshingun.web.infoseek.co.jp/03-aikoku/0302akk-nakajima-isao/01gokoku-no-shuukyou.htm 平成十四年八月二十五日 報道2001で発言]</ref> *2006年1月からインターネットTV[[超人大陸]]にレギュラー出演し、警鐘塾というコーナーを担当している。2006年11月29日には、同サイトで復党問題への独占告白を行った。 *[[山本一太]]参議院議員によれば、自身の自由民主党に反対されたと思い込んだ平沼が山本に対し、テレビ番組の収録現場で「あんまり調子に乗るなよ。お前、抹殺するぞ」と発言した<ref>[http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2006-09-07-1 山本一太の「気分はいつも直滑降」 2006年9月7日]</ref><ref>[http://homepage2.nifty.com/tamablog/tamablog/20060901.htm タマブログ 2006年9月6日]山本のブログでは相手の名前は明確に書かれていないが、[[玉袋筋太郎]]のブログには同日に山本が出演したテレビ番組名と、その番組に出演した政治家の名前が明かされており、その中で郵政民営化に反対し自民党を除名された政治家は[[平沼赳夫]]だけであるため、恐らく相手は平沼である。また、現在は消されているが、当初は平沼が山本に対して抗議したシーンを玉袋が目撃したという文章も載せられていた。</ref>。 *[[X JAPAN]]の[[YOSHIKI]]とは[[2000年]]、平沼が[[通商産業大臣]]時代にYOSHIKIが[[IT戦略]]の意見書を提出しに来た時からの親交がある。 == 主な所属議員連盟等 == *[[日本会議]] 国会議員懇談会(会長) *[[北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟]](拉致議連)(会長) *[[みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会]] *[[中国の抗日記念館から不当な写真の撤廃を求める国会議員の会]](会長) *正しい日本を創る会 *[[日韓議員連盟]] *財団法人無窮會理事長 *財団法人日本国際フォーラム評議員 *財団法人インナートリップ国際交流協会評議員 *[[国家基本問題研究所]]理事 *財団法人岡山県遺族連盟顧問 == 政治的主張 == *[[8月15日]]の[[靖国神社]]参拝には賛成の立場をとっている。このことを[[小泉内閣]]での最大の公約としていた。同内閣の政策に反対ながらも、小泉が[[終戦の日]]の参拝を断行したことには高く評価をしている。[[安倍内閣]]に対しても参拝継続を強く求めていた。 *初出馬である[[第34回衆議院議員総選挙]]以来、自主憲法制定をライフワークとする。平沼は「[[憲法改正]]」という言葉は使わず、必ず「自主憲法制定」という言葉を用いる。現行憲法が、[[アメリカ合衆国|米国]]による占領統治下で制定された経緯から、根本から改めるべし、という認識に立脚してのものである。 *[[安倍内閣]]崩壊の”A級戦犯”として[[世耕弘成]]前[[内閣総理大臣補佐官|首相補佐官]]を名指しで批判している。「功名心や虚栄心に走る傾向があり、本気で首相を支えようとしていない」と激しく批判。世耕は安倍内閣崩壊後は、安倍の政敵だった[[福田康夫]]陣営にいち早く与している。一方、同内閣で[[農水相]]をつとめ、最終的に自ら命を絶った[[松岡利勝]]に対しては、[[郵政民営化]]への是非を巡り対応が分かれたものの、晩年、農業自由化推進論者に転じた松岡の姿勢を高く評価していた。 *[[皇位継承問題 (平成)|皇位継承問題]]では[[女系天皇]]を容認する[[皇室典範]]改正に反対していて、[[日本会議国会議員懇談会]]会長として反対の論陣を張る。同典範改正問題では政府の有識者会議に[[皇室]]の専門家は一人も含まれていないこと、国会での審議時間が実質2日程度であること、また同有識者会議のメンバーが[[三笠宮寛仁親王]]に対し不敬とも受け取れる発言をしたことなどを問題視、激しい批判を加えている。[[皇室]]への尊崇の念はとりわけ強いもので、本来反天皇論者の言葉であるとして[[天皇制]]という言葉は口にせず、必ず「御皇室」という言葉を口にする。 *[[慰安婦問題]]に対しては、[[旧日本軍]]慰安婦への性的搾取や強制・半強制的動員などの「性奴隷説」は全くの事実無根としており、6月14日のワシントンポストへの全面広告にも賛同者として名を連ねた。[[米下院121号決議]]可決後に記者会見を行い、改めて日米同盟の重要性と慰安婦問題に対する自己の主張を述べた。 == 年譜 == *[[1939年]][[8月3日]] -  [[東京市]][[渋谷区]]代々木大山町に生まれる [[岡山県]][[岡山市]]に[[本籍|在籍]]<ref>『人事興信録』より</ref> *1952年 - [[渋谷区立西原小学校]]卒業 *1955年 - [[麻布中学校]]卒業 *1958年 - [[麻布高等学校]]卒業 *1962年 - [[慶應義塾大学]]法学部法律学科を卒業、[[日東紡績]]株式会社に入社 *1973年3月 - 同社退社 *1978年12月 - [[中川一郎]]秘書(~1980年6月) *1980年6月 - 当時の[[岡山]]一区より出馬し衆議院に初当選 *1987年11月 - 大蔵[[政務次官]]に就任 *1995年8月 - [[運輸大臣]]に就任 *2000年7月 - [[通商産業大臣]]に就任 *2001年1月 - [[経済産業大臣]]に就任 == 家族・親族 == *曽祖父・[[平沼淑郎]](学者) *祖父・[[中川友次郎]](官僚・元群馬県知事)、[[飯田包亮]](軍人) *養父・[[平沼騏一郎]](官僚・元首相) *実父・中川恭四郎(実業家) *母・節子(山口県、[[士族]]飯田信臣[[養子]]包亮娘、[[平沼淑郎]]の孫娘) *岳父・[[徳川慶光]](政治家、[[江戸幕府]]15代将軍[[徳川慶喜]]孫) *妻・真佐子(東京、[[公爵]]徳川慶光娘) *2男1女あり(長女は赳夫の秘書を務めている) *義弟・[[徳川慶朝]](写真家、真佐子夫人の弟) == 著書 == *『新国家論 まっとうな日本を創るために』([[中央公論新社]]、2005年) *『日本の正道』([[PHP研究所]],2007年) *『政治武士道』([[PHP研究所]],2007年) == 参考文献 == *[[大下英治]] 『平沼赳夫の「宣戦布告」』 河出書房新社 2005年 == 関連人物 == *[[与謝野馨]]<ref>麻布時代の同級生</ref> *[[賀屋興宣]]<ref>『平沼赳夫の「宣戦布告」』 23頁 - 大学生の頃、賀屋の孫の家庭教師をする。平沼家と賀屋家は家族ぐるみのつきあいをしていた</ref> *[[中川一郎]]<ref>政治の師匠にあたり、秘書として仕える</ref> *[[中川昭一]]<ref>中川一郎の長男。党内保守派として行動を共にする</ref> *[[鈴木宗男]]<ref>中川一郎に共に秘書として仕える</ref> *[[亀井静香]] *[[古賀誠]] *[[高村正彦]] *[[麻生太郎]] *[[佐藤信二]] *[[中川秀直]] *[[櫻井よしこ]]<ref>[[拉致問題]]や[[靖国神社]]参拝、[[人権擁護法案]]反対で懇意</ref> == 関連項目 == *[[士志の会]] *[[天満屋]]<ref>平沼の後援企業でもある</ref> *[[単一民族国家]] *[[国家基本問題同志会]] *[[真の人権擁護を考える懇談会]] *[[反米保守]] *[[歴史事実委員会]] *[[アメリカ合衆国下院121号決議]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == *[http://www.hiranuma.org/ 平沼赳夫オフィシャルホームページ](公式サイト) *[http://www.choujintairiku.com/keisho/ 平沼赳夫の警鐘塾] *[http://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/010426/09hiranuma.html 平沼赳夫略歴] *[http://episode.kingendaikeizu.net/18.htm 系図でみる近現代 第18回] {{先代次代|[[運輸大臣]]|第70代: 1995 - 1996|[[亀井静香]]|[[亀井善之]]}} {{先代次代|[[通商産業大臣]]|第66代: 2000 - 2001|[[深谷隆司]]|廃止}} {{先代次代|[[経済産業大臣]]|初代: 2001<br />第2代:2001 - 2003|発足|[[中川昭一]]}} {{経済産業大臣}} {{DEFAULTSORT:ひらぬま たけお}} [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:日本の衆議院議員(1947-)]] [[Category:岡山県の政治家]] [[Category:1939年生]] [[en:Takeo_Hiranuma]]