金日成
<!-- {{大統領 | 人名 = 金日成 | 各国語表記 = {{Lang|ko|김일성}} | 画像 = Kim Il Song Portrait.jpg | 画像サイズ =200px | キャプション = 金日成 | 国名 = {{PRK2}} | 代数 = 初 | 職名 = 最高指導者 | 就任日 = [[1948年]][[9月9日]] | 退任日 = [[1994年]][[7月8日]] | 副大統領 = | 元首 = --> <!-- ↓省略可↓ --> <!-- | 国名2 = {{PRK2}} | 代数2 = 初 | 職名2 = [[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]] | 就任日2 = [[1972年]][[12月28日]] | 退任日2 = [[1994年]][[7月8日]] | 副大統領2 = | 元首2 = | 国名3 = {{PRK2}} | 代数3 = 初 | 職名3 = [[朝鮮民主主義人民共和国の首相|内閣首相]] | 就任日3 = [[1948年]][[9月9日]] | 退任日3 = [[1972年]][[12月28日]] | 副大統領3 = | 元首3 = | 国名4 = {{PRK2}} | 代数4 = 初 | 職名4 = [[朝鮮人民軍]]最高司令官 | 就任日4 = [[1948年]] | 退任日4 = [[1991年]][[12月24日]] | 副大統領4 = | 元首4 = | 国名5 = [[画像:Flag of the Workers' Party of Korea.svg|25px]] [[朝鮮労働党]] | 代数5 = 初 | 職名5 = 中央委員会[[総書記]] | 就任日5 = [[1949年]][[6月30日]] | 退任日5 = [[1994年]][[7月8日]] | 副大統領5 = | 元首5 = --> <!-- ↑省略可↑ --> <!-- | 出生日 = [[1912年]][[4月15日]] | 生地 = {{JPN1889}}、[[平壌]]、[[万景台]] | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1912|4|15|1994|7|8}} | 没地 = {{PRK2}}、[[平壌]] | 配偶者 = [[金正淑]](第一夫人)<br />[[金聖愛]](第二夫人) | 政党 = [[画像:Flag of the Workers' Party of Korea.svg|25px]] [[朝鮮労働党]] | サイン = Kim Il Sung Signature.svg }} --> '''金 日成'''(キム・イルソン、[[1912年]][[4月15日]] - [[1994年]][[7月8日]])は、[[日本統治下の朝鮮|朝鮮半島]]の[[抗日]]運動家・[[革命家]]<!--独立運動家-->で、[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[政治家]]<!--ノート参照-->、[[軍人]]。[[1948年]]から[[1972年]]までは同国の[[首相]]であり、[[1972年]]から1994年に死去するまで[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]であった。また、[[1949年]]の結党以来、同国を一党独裁によって支配し続けている[[朝鮮労働党]]の最高指導者の地位にあった。 [[称号]]はソ連軍大尉・朝鮮民主主義人民共和国[[大元帥]]・[[英雄称号|朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄]](三回受章しており「三重英雄」と称される)。 北朝鮮においては「偉大なる領導者」「[[リーダー|首領様]]」などの賛辞とともに崇拝され、彼の死後[[1998年]]に改定された[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。現在、遺体は[[平壌]]近郊の[[錦繍山記念宮殿]]に安置・保存されている。 == 姓名と呼称 == {{北朝鮮の事物| title=金日成| hangeul=김일성| hanja=金日成 / 金一星| katakana=キム・イルソン| hiragana=きん・にっせい| alphabet-type=[[英語]]表記| alphabet=Kim Il Sung}} 少年時代まで「'''金 成柱'''」(キム・ソンジュ〔{{lang|ko|김성주}}〕)(「金 聖柱」という説も)という名であったが、活動家となって以後は「金 一星」(キム・イルソン〔{{lang|ko|김일성}}〕)と名乗り、さらに「金日成」(発音は「金一星」と同じ)と改名した。 同国の公式伝記では、当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「星では足りない、[[太陽]]とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。 [[日本]]では[[1980年代]]以降、[[漢字]]表記のまま「キム・イルソン」と[[朝鮮語]]読みされるようになり、現在では「キム・イルソン」と[[片仮名|カタカナ]]表記することも多くなっている。ただし、朝鮮語の発音規則に則ると「キ'''ミ'''ルソン」(Ki'''m I'''l Sung)がより原音の発音に近い。この発音は[[朝鮮の声放送]]の日本語放送でも用いられており、「キム・イルソン」という発音は一切使われなくなっている。 == 経歴 == === 出生 === [[ファイル:Kim Il Song's Birthplace.jpg|225px|thumb|金日成の生家。]] 諱は'''金 成柱'''(キム・ソンジュ)。「ソンジュ」という音に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。「日成」は、本格的に[[抗日パルチザン]]活動に参加した[[1932年]]ころから使い始めた号である<ref>許東粲 『金日成評伝 新装版―虚構と実像』亜紀書房、1992年、7-19頁。335-342頁には、朝鮮占領ソ連軍所属の高麗人・鄭律の証言が載っているが、それによれば、解放後の北朝鮮に帰国当初には、金日成は金成柱と名乗っていたという。</ref>。 [[金亨稷]]の嫡男として、[[1912年]][[4月15日]]、[[平壌]]西方にある[[万景台]](マンギョンデ)に生れた([[平安北道]][[宣川]] との説もある{{要出典}})。母[[康盤石]]は[[キリスト教徒]]であり、外祖父[[康敦煜]]はキリスト教長老会の[[牧師]]であった<ref>北朝鮮の公式文献では両親の[[信仰]]については特に触れられていないが、[[康敦煜]]が使徒「ペテロ」の名に因み女性の名としては珍しい「盤石」という名を娘に付けた逸話は良く知られている。</ref>。彼の家族は抗日派もしくはその[[シンパ]]であったためか、[[1919年]][[3月1日]]の独立運動([[三・一独立運動]])直後[[1920年]]に、金日成を連れて朝鮮を出て[[南満洲]]([[中国東北部]])に移住した。 金日成は満州、[[平城]]の小学校で学んだ後、[[1926年]]、満州の民族派朝鮮人独立運動団体[[正義府]]が運営する軍事学校、華成義塾に入学した。正義府の幹部には[[池青天]]がいて、数年前に現役日本軍将校だった青天や[[金擎天]]が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、ここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没していて、亨稷は正義府に関係していたとされる<ref>許東粲 『金日成評伝 新装版―虚構と実像』亜紀書房、1992年、63-81頁。和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年、30-32頁。</ref>。 父親が没した後、金日成は[[吉林省|吉林]]の吉林毓文中学(中国人中学校)に通いながら、[[共産主義]]に関係していた小さな組織に参加した。彼はこの非合法組織の運動で逮捕されたため、中学校を退学になった。 === 中国共産党入党 === 金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満州の朝鮮人民族派・[[朝鮮革命軍]]のうち、[[李鐘洛]]率いる[[左派]]の一団だった。[[1930年]]、[[中国共産党]]から派遣された朝鮮人運動家・[[呉成崙]](全光)が、[[コミンテルン]]の一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では、入党しなかったものと推測されている<ref>和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年、70-71頁</ref>。金日成の中国共産党入党は、[[1932年]]とするものと[[1933年]]とするものと、二つの記録が中国共産党側の史料に残っている<ref>水野直樹・和田春樹『朝鮮近現代史における金日成』神戸学生青年センター出版部、1996年、24-26頁</ref>。したがって、これ以降に、金日成は、中国共産党の指導する抗日パルチザン組織[[東北人民革命軍]]に参加し、さらには[[1936年]]から再編された[[東北抗日聯軍]]の隊員となるに至った、ということになる<ref>長らく北朝鮮の公式[[プロパガンダ]]では金日成が指揮した部隊は「朝鮮人民革命軍」であったとされ、東北人民革命軍、東北抗日聯軍という名称や中国共産党の指導には言及されていなかった。但し1958年に書かれた李羅英「朝鮮民族解放闘争史」では金日成が中国共産党に入党したことを仄めかしている。金日成は死去の直前に自身によって記した自伝『世紀とともに』(未完)において、中国共産党指導下の東北抗日聯軍に在籍していたことを率直に吐露している。またそこでは、[[李立三]]の下で極左路線に流れた中国指導部との間に、路線上、民族上の葛藤があったことも記している。</ref>。 東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば[[親日派]][[反共主義|反共]]団体である民生団員であるというレッテルを貼られて[[粛清]]された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した([[民生団事件]])<ref>[[1933年]]から「反民生団闘争」が始まったことによって400名余の朝鮮人が粛清され、抗日闘争の継続に大きな障害をもたらしたとされている。</ref>。 当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。にもかかわらず、金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては、第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている<ref>水野直樹・和田春樹『朝鮮近現代史における金日成』神戸学生青年センター出版部、1996年、24-26頁</ref>。 === 抗日パルチザン活動 === [[1937年]][[6月4日]]、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が[[韓国併合|朝鮮]][[咸鏡南道 (日本統治時代)|咸鏡南道]]の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件([[普天堡の戦い]])を契機に、金日成は[[抗日パルチザン]]として有名になった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと<ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、42-48頁。金日成部隊に関する朝鮮半島内の報道は、おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かった。</ref>、何より、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の[[懸賞金]]をかけるなどしたことが、金日成を有名にした。 その後、[[日本軍]]は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。[[咸興市|咸興]](かんこう、ハムフン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ<ref>佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、800-802頁。金日成部隊は、1940年3月11日には安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。[[苦力]]およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満州人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満州警察・前田隊の追うところとなった。</ref><ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、47-53頁。金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた。</ref>、[[1940年]]3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている<ref>[[和田春樹]]『金日成と満州抗日戦争』、平凡社、1992年、272-273頁。金賛汀『パルチザン挽歌』、御茶の水書房、1992年、189-190頁。佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、800-802頁。前田隊140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。</ref><ref>和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、41頁。前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人であり、死亡者も多くがそうだった。</ref>。 このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。 === ソ連への退却 === しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。[[1940年]]の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともに[[ソビエト連邦|ソ連]]領[[沿海州]]へと逃れた<ref>和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、43-46頁。</ref>。 ソ連に越境した金日成は、[[スパイ]]の容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後周保中が彼の身元を保障して釈放される。1940年12月の[[ハバロフスク]]会議を経て、金日成部隊はソ連[[極東軍管区|極東戦線]]傘下の[[第88独立狙撃旅団 (ソ連軍)|第88特別旅団]](旅団長は周保中)に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる<ref>但し、北朝鮮の公式文献では40年代に金日成らがソ連領内に退却していたことについて触れておらず、金日成の息子である[[金正日]]も、[[ハバロフスク]]近郊のヴャツコエや[[ウラジオストク]]近郊のオケアンスカヤではなく[[白頭山]]で生まれたことになっている。</ref>。 <!--[[1945年]]8月中、ソ連占領がいきわたるまでの人民委員会発生についてstub--> === 帰国 === [[ファイル:Kim Il-sung 1946.JPG|225px|thumb|[[1946年]]当時の金日成。]] [[1945年]]8月、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が[[38度線|北緯38度線]]以北の[[朝鮮半島]]北部を[[占領]]した。金日成は[[9月19日]]に[[ウラジオストク]]から[[元山市|元山港]]に帰国した。 [[10月14日]]、平壌でソ連軍の歓迎集会が開かれた。参集した朝鮮民衆の前に金日成が姿を現した時、「彼は『金日成将軍』とは別人ではないか」という噂がたった。「金日成将軍」は既に[[1920年代]]から抗日英雄として、朝鮮半島北部の住民達の間で伝説的な存在になっていた(一部には[[義兵|義兵闘争]]以来の英雄であるとの噂も広がっていた)ため、「金日成将軍」が白髪の老将軍だと思い込んでいた人々も多かった。しかし、実際に現れた「金日成将軍」は、長い活動歴の持ち主にしては余りに年齢が若過ぎ、出迎えた民衆は驚いたのである。 金日成は帰国直前に[[モスクワ]]に呼ばれてソ連の最高指導者[[ヨシフ・スターリン]]と会談しており、ソ連が朝鮮半島北部地域で樹立を計画していた共産党政権の指導者として認定されていた。ソ連は金日成を凱旋者として華々しく演出し盛り立てようとしていたと思われる。しかし、ソ連軍歓迎集会で金日成を偽者ではないかと疑う声が多く挙がったため、あわてたソ連軍は平壌郊外の万景台に“金日成将軍の親類”なる人物が存在すると宣伝し民衆をツアーに招待して面会させ、疑いを晴らそうとしたという。 === 指導者へ === 1945年[[12月17日]]、金日成は[[朝鮮共産党]]北朝鮮分局([[1946年]]6月に[[北朝鮮労働党]]に改組)の責任書記に就任した。 ソ連占領下の朝鮮半島北部では、1946年[[11月3日]]に南北朝鮮全域を選挙区とする総選挙が行われ、北朝鮮臨時人民委員会が半島北部の臨時政府として成立した。金日成は、ソ連の後押しでその委員長となった。 しかし、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は、[[1970年代]]に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入に怯えなければならない要因となった。 [[1948年]][[9月9日]]、ソ連の支援を受けた朝鮮半島北部は朝鮮民主主義人民共和国として独立し、金日成は首相に就任した。さらに翌年[[6月30日]]に北朝鮮労働党と[[南朝鮮労働党]]が合併して[[朝鮮労働党]]が結成されると、その党首である中央委員会委員長(のち総書記)に選出された。 === 朝鮮戦争 === [[ファイル:Victorious Fatherland Liberation War Museum, Pyongyang, North Korea-1.jpg|225px|thumb|金日成を朝鮮戦争の指揮官として称える壁画。]] [[1950年]][[6月25日]]、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、[[朝鮮戦争]]が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については諸説あり、スターリンの指示によるものであったという説、[[朝鮮人民軍]]の一部が暴走して始まったとする説、金日成自身の指示があったとする説がある。一説には「戦争がおこれば南朝鮮の国民が雪崩をうって立ち上がり、祖国統一が達成される」と南朝鮮労働党から聞かされていたとされる。 当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。[[9月15日]]、[[アメリカ軍]]が[[仁川広域市|仁川]]上陸を開始すると、一転して敗走を重ねるようになった。金日成は自分の家族(祖父母、子供2人([[金正日]]・[[金敬姫]]兄妹)<ref>次男シューラは1947年に事故死している。</ref>)を疎開させた後、[[10月1日]]には部下に戦争の指揮を任せ、自らも逃亡した。 その後、[[中華人民共和国]]が[[中国人民志願軍]]を派兵してきたことによって戦局は膠着状態に陥る。その頃南側では、金日成が行方不明になったので「平壌で戦死してしまった」とか「事故死して[[影武者]]が立てられた」とする噂が立った。しかし、[[1953年]]6月の休戦後、何食わぬ顔で平壌に帰還した。 === 粛清 === [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-38870-0003, Berlin, Otto Nagel, Otto Grotewohl, Kim Ir Sen.jpg|225px|thumb|[[オットー・グローテヴォール]]らと談笑する金日成。([[1956年]])]] ==== 反満州派の粛清 ==== {{main|8月宗派事件}} 金日成派は[[満州派 (朝鮮労働党)|満州派]]とも呼ばれる満州抗日パルチザン出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。当時、満州派は、外部からは[[ソ連派 (朝鮮)|ソ連派]]との区別がついていなかった。ソ連派は、金日成を中心とする親ソ共産主義政権を作らせるために送り込まれたソ連国籍の朝鮮人([[高麗人]])たちによって構成されていた。 満州派はまず、ソ連派と共同して警察と軍を押さえることに専念した。当時、植民地時代から朝鮮で活動していた共産主義者たち(国内派)が最大の勢力を誇っていた。金日成と満州派はまず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には[[朴憲永]]をリーダーとする[[南朝鮮労働党|南労派]](国内派の主流と目された一派。[[ソウル特別市|ソウル]]を中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。 中華人民共和国の建国後に同国から朝鮮に戻った[[延安派]](中国共産党の援助で抗日闘争を展開していた)は、南労派の粛清を黙視していたが、その後、[[ニキータ・フルシチョフ]]の[[スターリン批判]]を受け、ソ連派とともに金日成の批判を試みた。これは失敗に終わり、自らも粛清されるに至った([[8月宗派事件]])。 さらに満州派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。1967年5月には国内北部で活動していた朴金喆ら[[甲山派]]なども粛清し、満州派が主導権を握るに至った。この頃までに満州派の中からも[[金策]]の変死事件が起こるなどしている。 参考として朝鮮労働党初代政治委員の名簿を以下に掲げる。金日成以外の政治委員が排除されていったことが見てとれるだろう。 *金日成(政治委員 [[満州派]]) *[[朴憲永]](政治委員 [[南労派]]) - [[処刑]] *[[許哥而]](政治委員 [[ソ連派]]) - [[変死]] *[[金枓奉]](政治委員 [[延安派]]) - 獄死 *[[李承ヨプ (政治家)|李承燁]](政治委員 南労派) - 処刑 *[[金三龍]](政治委員 南労派) - 処刑 *[[朴一禹]](政治委員 延安派) - 追放 *[[金策]](政治委員 満州派) - 変死したとも、朝鮮戦争で戦死したとも言われる *[[許憲]](政治委員 南労派) - [[事故死]] *崔昌益(組織委員 延安派) - 獄死 ==== 満州派内部の粛清 ==== [[1969年]]以降、満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光([[1977年]]に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。[[1972年]]には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が展開され、金日成の後妻の金聖愛([[1993年]]に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の[[金英柱]]([[1975年]]に失脚、[[1993年]]に復帰)、叔父の娘婿の楊亨燮([[1978年]]に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には[[強制収容所 (北朝鮮)|政治犯収容所]]へと送られた。 金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の[[プロレタリア独裁|執権]]を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。[[全体主義]]体制の生理であるとする立場、満州派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、[[金正日]]後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。<!--後継体制を準備するための粛清だという見方にはいくつかの反論があります--> === 独裁体制の確立 === [[ファイル:CeausescuKim1971.jpg|225px|thumb|[[ニコラエ・チャウシェスク]]を迎える金日成([[1971年]])]] 金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。[[1950年]]代のうちに社会主義体制([[ソ連型社会主義]]体制)を築き、[[1960年]]代末までに満州派=金日成派[[独裁]]体制を完成させた。<!--(なお、戦前の日本の政治制度、特に天皇制と官僚制の関係を、自国の政治制度の参考にした、との説もある。)←この類似はしばしば指摘されていますし、口頭でも聞きますが、「疑い」として書くにしても「朝鮮民主主義人民共和国」の項目か、別セクションを設けるのが適当ではないでしょうか。--> 1972年[[4月15日]]、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、[[個人崇拝]]が強まると国外の懸念を生んだ。[[12月28日]]には新憲法を公布し、新設された[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]の地位に就いた。新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。さらに[[1977年]]、金日成は国家の公式理念を[[マルクス・レーニン主義]]から「[[主体思想|主体(チュチェ)思想]]」に変更した。 === 国家主席として === [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1984-0601-041, Berlin, Besuch Kim II Sung- Erich Honecker.jpg|225px|thumb|[[ドイツ民主共和国]]を訪問する金日成([[1984年]])]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1984-0601-046, Berlin, Besuch Kim II Sung in der DDR.jpg|225px|thumb|[[エーリッヒ・ホーネッカー]]と並ぶ金日成([[1984年]])]] 国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から[[1973年]]3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年[[7月4日]]に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。 [[1980年代]]以降はそれまで頼みの綱だったソ連など[[共産圏]]からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の[[餓死|餓死者]]が出たと言われる。 [[1980年]]10月に第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での[[連邦制]]という「[[高麗民主連邦共和国]]」創設を韓国側に提唱した。 [[1985年]]12月、北朝鮮は[[核拡散防止条約]](NPT)に加盟。 [[1987年]][[11月29日]]に起きた「[[大韓航空機爆破事件]]」は犯人の一人とされる[[金賢姫]](キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。 [[1991年]][[9月17日]]には韓国と共に、[[国際連合]]に同時加盟する。 [[1991年]][[12月6日]][[咸鏡南道]]の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可無しに電撃訪朝した統一教会(統一協会、[[世界基督教統一神霊協会]])の教祖[[文鮮明]]と会談。金日成を[[サタン]]の代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるが故に世界を驚かせた<ref>文鮮明は[[1980年代]]後半頃から「神主義」、「頭翼思想」といって、サタンの側にある共産主義の国家や人も最終的には神の愛で救うと言う思想を強調しているので、その思想に矛盾はないと教会側では説明している。</ref>。会談では[[離散家族]]再開に取り組むこと、核査察を受けること自由陣営国家からの投資を受け入れること、[[軍需産業]]を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的窮地を救われる。 [[1992年]][[1月30日]]に金日成は[[国際原子力機関]](IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し、[[1994年]]3月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、[[ジミー・カーター]]元大統領を北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領[[金泳三]]との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。 === 後継者問題 === [[ファイル:Dprk pyongyang mansu kim sculpture 05.jpg|225px|thumb|金日成の像。]] 経過は不明ながらも、結果として[[金正日]]が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。 金日成及び北朝鮮指導部は[[スターリン主義|スターリン型]]の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。 北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。 後継者選定については # 継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ # 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない # 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない と言う[[プロパガンダ]]を徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。 このプロパガンダのあり方は、[[世襲]]そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。 金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。 === 死去 === [[ファイル:Kumsusan Memorial Palace, Pyongyang.jpg|225px|thumb|金日成の遺体が安置されている[[錦繍山記念宮殿]]。]] [[ファイル:North Korean won.jpg|225px|thumb|紙幣に描かれる金日成。]] 金日成は、[[1994年]][[7月8日]]に死去した。この年、息子の金正日が病気治療中であった為、死亡までの間、様々な課題の解決に向けて、自ら精力的な陣頭指揮に当ることになる。内政では、低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では、一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、[[ビル・クリントン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の密命を帯びたカーター元大統領の招朝実現と、直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるとの彼特有の「円環の理論」に基づく賭でもあったが、交渉の結果、米朝枠組み合意を実現した。その次には当時の[[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]][[金泳三]]との南北首脳会談の話が持ち上がっていた。そのために、彼の死は世界に衝撃を与えた。 北朝鮮政府の公式発表では、執務中の[[心臓発作]]が死因とされている。長く[[心臓病]]を患っており、82歳と高齢であったことからも、一般には病死は事実と考えられている。死去前日にも、経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。セメント生産が成否を握ると叱咤した上で(この映像と音声は記録映画『偉大な生涯の1994年』に収録)党官僚の「形式主義」を声を荒らげて非難しながら「やめていた」はずの[[喫煙|煙草]]を吸った後に寝室に入ったとの情報がある。このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や[[暗殺]]を疑う声が上がった。しかし、米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。 また、韓国の[[中央日報]]が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し、北朝鮮は激しく抗議した。同日、金正日は金日成に会っていないことが記録上明らかである。 死後、遺体は[[エンバーミング]]処理によって保存され、主席宮殿を改造して[[錦繍山記念宮殿]]が設けられた。 == 死後の評価 == 訪朝経験のあるジミー・カーター元米大統領は[[タイ王国|タイ]]の新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。 == 日本人女性が見た金日成 == 金日成が帰国した当時の朝鮮半島には、まだ多くの[[日本人]]が残留しており、避難民はソ連軍や朝鮮人から使役と称して強制労働を強いられていた。このころ金日成宅では2人の日本人女性が[[女中]]として働いていた。日本人の元女中の回想<ref>小林和子(旧姓:萩尾)著『私は金日成首相の小間使いだった』(奥村芳太郎編『在外邦人引揚の記録』1970年 [[毎日新聞社]])</ref>によると、金日成は、接収した日本人の邸宅に住んでおり、夫人とユーラ(長男。後の[[金正日|正日]])・シューラ(次男。[[金万一|万一]]ともいう)という名の息子と一緒に住んでいた。食事方式はロシア式を採用し、朝食10時、昼食3時、夜食が9時~10時だった。金正淑夫人も日本人女中2人に、当時の日本人避難民の平均的な食事からすれば豪華な白米や鶏肉等を食べさせていた。ただし食事以外では金家の生活程度は高くは無く、トイレはチリ紙ではなく新聞紙で用を足し、時にはボール紙で用を足してトイレを故障させてしまうこともあったという。 ある日、金日成は2人に『[[しんぶん赤旗|アカハタ]]』を見せ、[[野坂参三]]を立派な男だという手つきをしてみせた。2人は「ついに[[日本]]も[[共産党]]の国になってしまったのか」と悲しい表情をしてみせた。金日成は「共産党は嫌いですか?」と問うと2人がうなずいたため、驚いた表情をしたあと笑って黙っていた。それから数日後に金日成は2人に[[カール・マルクス|マルクス]]や[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]の本を渡したという。このような金日成であったが、身辺は不安だったらしく自宅へ至る道の要所に警備兵がおり、門前には番兵が立っていた。また枕の下には常に護身用の[[拳銃|ピストル]]を潜ませていた。 このころ、金日成の弟である[[金英柱]]が自宅に出入りするようになった。ある時、2人のうちの1人の姉が朝鮮人の集団にリンチされ重傷を負った。以前、仲間が姉の訴えで共産党本部によって厳罰に処せられたとことの報復だった。このことを知った英柱は共産党本部から兵を連れ、リンチを行った朝鮮人を捕まえて痛めつけ、牢に入れた。そして、被害者に「朝鮮人民が迷惑をかけた」と謝ったという。翌日、英柱は2人に「共産党は'''日本の[[帝国主義]]、[[軍国主義]]に排撃するのであって日本人を憎むのではない'''」と語った。その場にいた金日成は2人に共産党が好きになったかと問うと、2人は少しうなずくと「でも、[[昭和天皇|天皇陛下]]の方が好き」と答えた。すると金兄弟は笑い出し、それ以後は2人の日本人に再教育するとは言わなくなった。その後、2人が南から日本へと帰国したいと申し出たため、金日成は南への通行証を渡し、今までの礼を述べた。最後は一家で2人を見送ったという。 == 系譜 == * '''金氏''' [[本貫]]は[[全州金氏]]。自伝『世紀とともに』によると、「[[金膺禹]]の10代前の先祖金継祥が、全羅道から平安道へ移住して来た」という。[[金膺禹]]は、「[[朝鮮]][[平壌]]中城里の出身で、生活苦から[[平壌]]の[[地主]][[李平澤]]家の[[墓守]]をする為に[[万景台]]に遷って来た」という。金日成はその曾孫にあたる。 <pre> ∴ 膺禹 ┃ ┃ ┃ 輔鉉 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 亨稷(順川) 亨禄 亨権 女 ┃ ┃ ┣━━━━━━┳━━┓ ┣━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 成柱(日成) 哲柱 英柱 永柱 元柱 昌柱 女 ┃ ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━┳━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 正一(正日) 萬一 成一 平一 英一 清一 女 女 女 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 正男 正哲 正銀 仁剛 成剛 </pre> == 家族 == *曾祖父:[[金膺禹]]([[1848年]][[旧暦]][[6月17日]] - [[1878年]][[旧暦]][[10月4日]]) *曾祖母:不詳 **祖父:[[金輔鉉]]([[1871年]][[旧暦]][[8月19日]] - [[1955年]][[新暦]][[9月2日]]) **祖母:[[李寶益]]([[1876年]][[旧暦]][[5月31日]] - [[1959年]][[新暦]][[10月18日]]) ***父:[[金亨稷]]([[1894年]][[旧暦]][[7月10日]] - [[1926年]][[新暦]][[6月5日]]) ***母:[[康盤石]]([[1892年]][[旧暦]][[4月11日]] - [[1932年]][[新暦]][[7月31日]]) ****次弟:[[金哲柱]] ****末弟:[[金英柱]]([[日本陸軍]][[関東軍]]の[[通訳]]<ref name=joins20091106>{{cite news | url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=122425&servcode=100§code=100 | title = 【コラム】恣意的に作られた親日人名辞典 | newspaper = [[中央日報]] | date = 2009-11-06 | accessdate = 2010-02-24 }}</ref>) *****子(長男):[[金正日]] 幼名:有羅(ユーラ、{{lang|ko|김유라}})、母[[金正淑]] ******孫(長男):[[金正男]]([[1971年]][[5月10日]] - )、母[[成恵琳]] ******孫(二男):[[金正哲]]([[1981年]][[9月25日]] - )、母[[高英姫]]([[在日朝鮮人]]帰還者) ******孫(三男):[[金正銀]]([[1983年]][[1月8日]] - )、母[[柳明淑]]([[在日朝鮮人]]帰還者) ******孫(長女):[[金恵敬]]、母[[洪一茜]] ******孫(二女):[[金雪松]]、母[[金英淑]] ******孫(三女):[[金英順]]、母[[金英淑]] ******孫(四女):[[金ヨジュン]]、母[[高英姫]] *****子(二男):[[金万一]] 幼名:修羅(シューラ、{{lang|ko|김슈라}})、母[[金正淑]] *****子(三男):[[金成一]]([[1951年]] - )、母[[文成子]] *****子(四男):[[金平一]]([[1954年]][[8月10日]] - )、母[[金聖愛]] ******孫:[[金仁剛]] *****子(五男):[[金英一]]([[1956年]]8月 - [[2000年]]10月)、母[[金聖愛]] ******孫:[[金成剛]] *****子(六男):[[金清一]]、母[[金聖愛]] *****子(長女):[[金敬姫]]([[1946年]][[5月30日]] - )、母[[金正淑]] *****子(二女):[[金慶真]]([[1952年]] - )、母[[金聖愛]] *****子(三女):[[金京一]]、母[[金聖愛]] == 別人説 == 日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身するキム・イルソン将軍伝説があったことには、多くの証言がある。伝説の将軍は、「[[陸軍士官学校 (日本)|日本陸軍士官学校]]を出ている」「[[義兵闘争]]のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「[[白頭山]]を根城にして日本軍と戦った」などといわれていた<ref>李命英著『金日成は四人いた』より</ref>。 金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」という声があがった<ref>[[萩原遼]]著『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』に詳しい。</ref>。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうことについては、『金日成と満州抗日戦争』において、別人説を否定した[[和田春樹]]も認めている。別人説は、金日成が伝説を剽窃したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。伝説のモデルについての探索と、金日成のパルチザン活動の実体については、別個に考える必要がある。 伝説のキム・イルソン将軍については、李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという[[金一成]](キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した[[金擎天]]が、生まれた年がともに[[1888年]]、出身地も同じ[[咸鏡南道]]であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないか、と佐々木春隆は推測している<ref>佐々木春隆著『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』より</ref>。 [[普天堡の戦い|普天堡]](ポチョンポ)の事件によって、東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。 彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、陸士卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている<ref>李命英著『金日成は四人いた』など</ref>。これに対する和田春樹などによる反論もある<ref>後に朴金喆、朴達らが恵山事件により逮捕され、彼らから金日成は普天堡襲撃当時36歳の人物だと言う供述が引き出された。しかし、満州国の朝鮮人治安関係者は金日成は事件当時27歳平壌近郊の[[平安南道 (日本統治時代)|平安南道]]大同郡古平面南里出身の人物で、既に日満側に帰順していた[[金英柱]]の実兄であるといった情報を集め、金日成の祖母や金英柱を連れて来て投降を呼びかけている。その後の[[朝鮮総督府]]の記録でも、「金日成の身許に付ては種々の説があるが本名金成柱当二十九年平安南道大同郡古坪面(原文ママ)南里の出身」(思想彙報20号(1939年9月))と記されている。こうした事情から、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長と、後に北朝鮮政府首班として登場した金日成とは別人ではないかと疑う意見が出た。李命英は聴き取り調査などに基づいて金日成複数説を提起した。しかし、抗日運動家に関する記述に齟齬があるのは珍しいことではなく、結局は朝鮮総督府がその他の情報・供述を排して「本名金成柱当二十九年」としていることなど、李命英の日本に保存されていた資料の読み落としが指摘され、両者は同一人物で間違いないという反論([[和田春樹]]など)がなされている。</ref>。 諱は初め聖柱のち成柱と改める。父亨稷は順川と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者の朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、一星(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄金日成の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される<ref>『続 日本人が知ってはならない歴史』 p48, [[若狭和朋]] 朱鳥社 (2007年) ISBN 978-4-434-11358-1</ref> 。 元[[抗日パルチザン]]の多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである<ref>『朝鮮半島最後の陰謀」』 p85, [[李鍾植]] 幻冬舎 (2007年) ISBN 978-4-344-01323-0 その「本物」とされる金日成はスターリンに粛清されたと各国諜報機関で通説となっており、ソビエトが朝鮮人を糾合のために金日成を作り上げたとしている。</ref> 。 また、金日成が朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃されて、戦死した。若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、[[中国]]領の[[吉林]]に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日は吉林の小学校に通っていたとされている。 == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 関連項目 == * [[朝鮮民主主義人民共和国]] * [[独裁者]] * [[個人崇拝]] * [[スターリン主義]] * [[金日成将軍の歌]](金日成を称える歌) * [[金日成大元帥万々歳]](上に同じ) == 外部リンク == {{Commonscat|Kim Il Sung}} * [http://dprk-cn.com/memoir 金日成回顧録「世紀とともに」](中国語) * [http://my.cnd.org/modules/wfsection/article.php?articleid=994 My China News Digest](中国語) - 粛清された初期要人達の死因なども紹介。 * [http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/ 朝鮮族近現代史-朝鮮族ネット](日本語) {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- ! {{PRK2}} {{先代次代|最高指導者|[[1948年]] - [[1994年]]|建国|[[金正日]]}} {{先代次代|[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]|[[1972年]] - [[1994年]]|設置|廃止}} {{先代次代|[[朝鮮民主主義人民共和国の首相|内閣首相]]|[[1948年]] - [[1972年]]|設置|[[金一 (政治家)|金一]]<br>(政務院総理)}} {{先代次代|[[朝鮮人民軍]]最高司令官|[[1948年]] - [[1991年]]|設置|[[金正日]]}} |- ! [[File:Flag of the Workers' Party of Korea.svg|25px]][[朝鮮労働党]] {{先代次代|中央委員会総書記|[[1949年]] - [[1994年]]|設置|[[金正日]]<br>(1997年まで空位)}} |- |} {{朝鮮民主主義人民共和国の指導者}} {{朝鮮民主主義人民共和国の首相}} {{冷戦}} {{Wikipedia/Ja}} {{DEFAULTSORT:きむ いるそん}} [[Category:全州金氏]] [[Category:北朝鮮の政治家]] [[Category:共産主義者]] [[Category:反修正主義]] [[Category:アジアの社会主義]] [[Category:朝鮮の独立運動家]] [[Category:テロリズム]] [[Category:冷戦に関わった政治家]] [[Category:主体思想]] [[Category:紙幣の人物]] [[Category:核武装推進論者]] [[Category:平壌直轄市出身の人物]] [[Category:1912年生]] [[Category:1994年没]]