人民戦線事件
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人民戦線事件(じんみんせんせんじけん)は、1937年12月15日(第1次事件)と、翌年2月1日(第2次事件)に、日本無産党、全評、労農派などの「人民戦線」の関係者や、マルクス経済学者やリベラル系の学者など400人以上が一斉に検挙された事件。1937年7月の日中戦争勃発の後に推進された国民精神総動員運動により、国民が戦争に協力するように精神面の統制が強化されたことを背景とした。
背景
1937年7月7日の盧溝橋事件の後、同月11日に北京で停戦協定が成立したが、(第1次)近衛内閣は華北への5個師団派遣を決定し、戦線は拡大していくことになった。同年8月13日の第2次上海事変勃発の後、同月24日に「国民精神総動員実施要綱」[1]が閣議決定され、運動推進団体の結成やマスメディアの利用によって、戦争遂行に協力するように国民の精神が統制されるようになった。[2]
第1次事件
日本軍は上海から戦争開始時に国民政府が首都を置いていた南京へ進軍し、1937年12月13日に南京を占領。新聞各紙は連日戦況を大きく報道していた。[2]
1937年12月15日の早朝、加藤勘十委員長以下の日本無産党の党員、日本労働組合全国評議会(全評)の会員、マルクス主義理論グループ「労農派」の山川均、猪俣津南雄、向坂逸郎ら400人が全国で一斉に検挙された(第1次人民戦線事件)[2]。
- 加藤勘十は、1937年に日本無産党から東京市議会議員おょび衆議院に立候補し、続けて当選していた。同年12月7日からは、議員団長として中国の日本軍を慰問に訪れており、長崎に帰港したところを逮捕された[3]。
検挙は、翌日の新聞では報道されず、検挙から1週間が経過した後の同月22日に、号外で報道された[3]。
第2次事件
1938年2月1日には、東大教授・大内兵衛、有沢広巳、美濃部亮吉らが検挙された(第2次人民戦線事件)[4][2]。