飯塚鉱山

提供: Yourpedia
2017年9月18日 (月) 12:37時点における由亜辺出夫 (トーク | 投稿記録)による版 (奈良(1980),田中館(1942)により新規作成。)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

飯塚鉱山(いいづかこうざん)またはブキット・ランカップ鉱山(Bukit Langkap mine)は、かつてマレー半島にあった鉱山。ジョホール州パハン州の境界を流れるエンダウ河Sungai Endau)沿いの、河口から約40キロメートルの上流にあった[1]鉄鉱石の産出量は、1938年時点で約11.8万トンないし17.8万トン、埋蔵量は、1937-1939年時点で250万トン、1942年時点で700-900万トンと推定されていた[2]

鉱石は、山元から直接でエンダウ河を下って搬送され、東海岸のエンダウ港Bandar Endau)で船積みされていた[2]

ブキット・ランカップ鉱山は、飯塚茂が設立した飯塚鉄鉱会社の経営で、1936年から鉄鉱石の採掘と日本への輸出を開始した[3]

12月-3月にはモンスーンのため沖合いでの荷役が困難になり、その間休鉱を余儀なくされる点は、龍運鉱山太陽鉱山などの他の東海岸の鉱山と同様であった[4]

参考文献

関連文献

  • 飯塚茂『南洋の雄姿』万里閣書房、1929年、NDLJP:1176355 (閉)

脚注

  1. 田中館(1942)p.159
  2. 2.0 2.1 奈良(1980)p.8、田中館(1942)p.160
  3. 奈良(1980)p.8、田中館(1942)p.160。田中館(1942)p.160では、会社名を「飯塚鉱業」とし、1936年に試掘され、1937年から採掘・輸出が開始された、としている。
  4. 田中館(1942)p.160。