平時子
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平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日))は、平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言平時忠の同母姉、建春門院平滋子の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、重衡、建礼門院徳子らを生む。
承安元年(1171年)従二位に叙され、清盛亡き後は一門の精神的支柱として重きをなした。壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に最終的な敗北を喫した際、外孫に当たる安徳天皇を抱き、「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせ、海中に身を投じて自殺した。
なお、『吾妻鏡』では時子は宝剣を持ち、安徳天皇は按察局が抱いて入水したとあり、按察局は引き上げられて助かっている。『愚管抄』では、時子が安徳天皇を抱き、宝剣と神爾を具して入水したとされている。
墓所は赤間神宮にあり、毎年5月2日に平家の落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもと一門追悼祭が齋行されている。