久留島通容
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久留島 通容(くるしま みちかた/つうよう、1811年 - 1850年)は、江戸時代後期の豊後・森藩主[1]。淘宮術の創始者・横山丸三の直弟子で、免許皆伝を受けた6人のうちの1人[2][3]。
文化8年(1811)生まれ[4]。はじめ采女と称し、のち安房守に任じられた[4]。
天保5年(1834)、24歳のとき、天源淘宮学を称していた横山に入門[4]。
のち皆伝を許され、森鶴斎丸一と号した[4]。
淘宮を藩政に活用した、という[1]。
嘉永3年(1850)5月21日没。享年40。白金の瑞聖寺に葬られた。法号「良峰院殿」。[4]
付録
脚注
参考文献
- 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
- 中島・足立 (1914) 中島力造・足立栗園「第11章 淘宮術」『社会徳育及教化の研究』隆文館、1914・大正3、pp.345-359、NDLJP 939551/189
- 藤田 (2019) 藤田英昭「幕末維新期の大奥と『淘宮術』」『論集大奥人物研究』東京堂出版、pp.345-371、ISBN 978-4490210200