双十節事件
この項目では、シンガポールの事件について説明しています。1943年10月10日に北ボルネオで起きた抗日武装蜂起については「アピ事件」をご覧ください。 |
双十節事件(そうじゅうせつじけん)とは、1943年10月10日の双十節に、日本占領下のシンガポールで、同年9月下旬に起きた昭南港爆破事件にシンガポールの残留連合国人が関与したことを疑った昭南憲兵隊が、捕虜・民間人収容所にいた連合国人57人を容疑者として検挙し、その後、拷問や監禁などの虐待を加えて、14人ないし15人を死亡させた事件。戦後、イギリス軍シンガポール裁判で憲兵中佐以下8人が絞首刑の判決を受け、7人が処刑された。
昭南港爆破事件
1943年9月27日に、昭南港に碇泊中の輸送船及びタンカー7隻が爆沈する事件が起き、事故直後から日本軍による大規模な捜索が行われたが、犯行につながる証拠は見つからなかった[1]。
双十節事件
昭南憲兵隊は、1943年10月10日以降、シンガポールの連合国人の民間人収容所への立入捜査を強行した[2][3]。
戦後の戦犯裁判における起訴理由によると、同日から翌1944年4月2日までの間に、チャンギー刑務所(Changi Prison)に収容されていた57人の連合国人の民間人が逮捕された[4]。
- 篠崎 (1976 192)は、昭南憲兵隊はサイム路(Sime road)[map 1]にあった連合国人(民間人)収容所への立入捜査を強行し、高官を含む50数名の連合国人を逮捕した、としている。
- 遠藤 (1996 64)は、「シンガポールに抑留されている英国人が事件の首謀者だ」と内部通報があり、オートラム収容所(Outram Prison)が捜索された、としている。
昭南憲兵隊は連合国人の収容所を何度も捜索し、所持が禁止されていた短波ラジオを隠し持っていた者が逮捕され、拷問されたが、艦船の爆破はオーストラリア軍の特殊部隊の作戦によるもので、シンガポールの住民は関係しておらず、犯行を自供する者はいなかった[5][6]。
逮捕された57人は、全員が打擲などの拷問や監禁など虐待を受け、うち14人ないし15人が拷問によって死亡した[4][2]。
- 戦後の戦犯裁判における起訴理由によると、虐待による死者は14人[4]。
- 篠崎 (1976 166-167)は、拷問による死者は、Dr.C.A.Stanley、S.Cornelins、A.Buchanan、W.L.Stevenson、D.V.P.Perry、H.C.R.Rendle、A.J.Clark、N.Coulson、S.A.Hagger、H.E.W.Bryning、S.M.Middlebrook、T.H.Bower、H.Fraser、M.PenselerおよびA.W.W.Kerの15人だった、としている。
- 遠藤 (1996 64)は、日本軍が逮捕した英国人は、最終的に100人にのぼり、30人が裁判にかけられ、1人が死刑、15人が3-15年の有期刑に処されたほか、容疑者のうち1名が自殺、3名が病死した、としている。
逮捕され拷問を受けた人物の中には、シンガポール統治の三役とされた総督、大僧正、極東情報局長(Far Eastern representative of the Ministry of Information)のうち、大僧正のレオナルド・ウィルソン(Leonard Wilson)と極東情報局長のロバート・H・スコット(Robert H. Scott)が含まれていた[7][8][9][10]。
また、遠藤 (1996 65,166)によると、英国人とは別に、犯人に隠れ家や食料を提供したとして100人近いマレー人が逮捕され、このうち20人は、1945年5月頃、事件を共謀したとして処刑されようとしていたが、リマウ作戦で日本軍の捕虜となった特殊部隊の隊員が事情を説明し釈放を要請したため、処刑は延期されたまま終戦に至った。
戦犯裁判
戦後、イギリス軍シンガポール裁判で、昭南憲兵隊による拷問や監禁等の虐待と虐待致死が戦争犯罪(陸戦法規第43条違反)にあたるとして、同隊の角田中佐以下21人が起訴された。1人は免訴となり、1946年4月15日の判決では、14人が有罪で、うち角田中佐以下8人が絞首刑、3人が終身、1人が15年、2人が8年の有期刑とされ、6人が無罪とされた。[11]
確認の結果、絞首刑の判決を受けた8人のうち1人(杜通訳)は4年の有期刑に減刑され、7人が死刑を執行された[13][14]。
付録
地図
- ↑ Google maps - Sime road, Singapore 2018年4月24日閲覧
脚注
- ↑ 篠崎 1976 191-196
- ↑ 2.0 2.1 篠崎 1976 97,166,192
- ↑ 林 2007 94
- ↑ 4.0 4.1 4.2 茶園 1989 161
- ↑ 篠崎 1976 97,192-193
- ↑ 遠藤 1996 64-65
- ↑ 東京裁判ハンドブック 1989 116
- ↑ 岩川 1995 200
- ↑ 遠藤 1996 64
- ↑ 篠崎 1976 163,167
- ↑ 茶園 1989 161-162。判決の日付は豊田 (1986 354)による。坂 (1967 139-140)では、免訴への言及がなく、無罪を7人としている。
- ↑ 篠崎 (1976 167)は、角田中佐について「住田中佐」、杜通訳について「唐通訳」、と記している。茶園 (1989 161-162)では、辻尾軍曹について「辻○曹長」と記している。
- ↑ 茶園 1989 161-162
- ↑ 坂 1967 139-140
参考文献
- 林 (2007) 林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、2007年、ISBN 978-4874983867
- 遠藤 (1996) 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社、1996年、ISBN 4087811379
- 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
- 茶園 (1989) 茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 下』不二出版、1989年、JPNO 89052289
- 東京裁判ハンドブック (1989) 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年、ISBN 4250890139
- 豊田 (1986) 豊田隈雄『戦争裁判余録』泰生社、1986年、JPNO 88006312
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、1976年、JPNO 73016313
- 坂 (1967) 坂邦康『戦争裁判(英領地区)』東潮社、1967年、NDLJP 3007723