花岡事件 (戦犯裁判)
花岡事件(はなおかじけん)の戦犯裁判(せんぱんさいばん)は、1947年11月から翌年3月にかけてアメリカ軍横浜裁判で審理された花岡事件のBC級戦犯裁判。1948年3月1日に鹿島組花岡出張所の関係者4人と地元の大館警察署の関係者2人が、華人労務者に対する虐待・虐待致死により、絞首刑以下の有罪判決を受けた。戦犯受刑者はのちに減刑され、1953年頃までに全員が出所した。
目次
花岡事件
第二次世界大戦中の1944年8月から終戦後の1945年10月頃までの間に、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の土木工事現場では、中国の河北省・山東省などから日本に連行され使役されていた華人労務者約1,000人のうち、400余人が死亡した。
1945年6月30日または7月1日には華人労務者による暴動事件が発生し、鎮圧時・鎮圧後に数十人が殺害されたり死亡したりしたが、同出張所の華人労務者の死亡率が高い状況は暴動の前後も続いており、差別的な待遇による過酷な労働・生活環境や、出張所責任者の物資横流しによる食糧の不足、出張所の輔導員(監視員)による日常的な暴行などの非人道的な取扱いが、暴動事件や高い死亡率の原因になったとみられている。
起訴までの経緯
証拠の隠滅
1945年8月16日から、軍需省の指令により、日本建設工業会華朝労務対策委員会では、3日間にわたって戦時中の華人や朝鮮人に関する統計資料、訓令その他の重要書類の焼却が行われ、その際に中国人の強制連行に関する資料が焼却されたとみられている[1]。また鹿島組花岡出張所では、華人労務者を働かせていた現場監督の解雇や配置転換が行われた[2]。
戦犯調査
1945年9月下旬に、捕虜収容所の調査を行っていた米軍は、鹿島組花岡出張所で華人労務者が悲惨な状況にあるとの情報を得て、花岡事件の戦犯調査を開始した[3]。
- 1945年9月24日に、仙台俘虜収容所第7分所の調査を行った米第14軍団司令部のドゥバーグ大尉が鹿島組花岡出張所の中国人収容所「中山寮」の存在に気付き、上級司令部に報告した[4]。
1945年10月6日に、米軍は「中山寮」を訪問調査し、中国人の遺体が木箱(棺)に入れたまま放置されているのを確認した[5]。
同月15日以降、米軍は鹿島組花岡出張所の河野正敏所長らを逮捕し[6]、同月中に事件関係者7人が秋田刑務所に収監された[7]。
同年10月に、米軍の立会いのもとに、鹿島組によって、鉢巻山などに埋められていた華人労務者の遺体の掘り起しが行なわれた[9]。
鹿島組花岡出張所の元華人労務者たちは同年11月29日に江の島丸に乗船して中国に帰国したが、11人が戦犯裁判の証人として花岡にあった鉱山病院に残された[10]。11人は1946年1月中旬に秋田市の第111師団司令部へ、同年4月に東京の中野刑務所へ移され、暴動事件の首謀者として秋田刑務所に残されていた元華人労務者13人ないし12人も中野刑務所へ送られて、合流した[11]
- 劉(1995,p.164)によると、残されたのは、劉智渠と、耿諄、羅士英、李介生、李克金、王成林、張肇国、翟樹棠、周徳連、劉沢玉、劉当路および賈一民。
1946年1月頃、外務省は、GHQによる戦犯調査に備えるため、華人労務者を使役していた企業に事業場毎の報告書の作成を求め、同年3-4月頃に報告を受けて、同年夏頃に『華人労務者就労事情調査報告書』(いわゆる『外務省報告書』)をまとめた[12]。
捜査の展開
1946年3月に秋田刑務所に収監されていた花岡事件の戦犯容疑者は東京の巣鴨拘置所に送られ、同月24日に鹿島組社長の鹿島守之助が総司令部検事局に召喚された[13]。鹿島組は平林慎一弁護士に事件への対応を一任していたが、「事の重大性に鑑み」て小野清一郎、海野晋吉らの弁護士にも依嘱して鹿島組弁護団を組織した[14]。
同年5月に、鹿島組は日本建設工業統制組合の華鮮労務対策委員会で、中国人を使役していた他の土木建設会社に戦犯訴追が及ばないようにすることを目的として、関係各方面に「起訴前における裏面工作と内情調査」に着手することを提起し、同委員会の議決を経て、同年6月に平林弁護士と土建業者14社が、着手金10万円や、鹿島組の職員が無罪となり、関係者に追及が及ばなかった場合の成功報酬40万円など、弁護報酬についての協約を締結した[15]。
同年7月末以降、事件の証人として中野刑務所に残っていた元華人労務者たちが日中の外出を許可されるようになると、鹿島組東京本社の関係者が刑務所をしばしば訪れ、元華人労務者たちを料理屋などへ連れ出して、早く中国へ帰るように説得した[16]。
同じ頃、中国・国民政府の駐日代表部から依頼があって、刑務所に残っていた24人のうち14人が大使館で住込みの衛兵(守衛)として勤務することになった[17]。しかし、国民党と共産党の内戦が激化し、国民党が劣勢に立たされると、国民党は日本や米国との連携強化を志向するようになり、駐日代表部にとって、往事の日本政府・企業の責任を問う戦犯裁判の意義は薄れ、裁判の証人として日本に残っていた元華人労務者に対して冷淡な態度を取るようになった[18]。このため、大使館で雇用されていた元華人労務者のうち、5-6人は大使館を脱走し、中野刑務所に戻った[19]。
1946年10月頃、耿諄は中国へ帰国し[20]、後に戦犯裁判への出廷を要請されたが、出廷しなかった[21]。同月、劉智渠は、衛兵を辞職して、同郷人が店主をしていた新宿の泰華楼という店で働き始めた[22]。
1947年7月に、大館警察署の三浦元署長が東京・明治ビルの本部刑事部に出頭を命じられてアメリカの検事の取調べを受けた後、8月14日に巣鴨の収容所に入れられて取調べを受け、警察関係者も戦犯裁判に付されることになった[23]。
- 1945年10月に逮捕されたのは鹿島組花岡出張所の関係者だけで、警察関係者は戦犯容疑者になっていなかった。
- 鹿島組弁護団の平林弁護士が、面識のあったGHQのキーナン検事に、鹿島組の華人労務者の運営管理は大館警察署が指揮しており、責任は鹿島組ではなく警察にあるとして警察関係者を告発した[24]。
裁判
公判
1947年11月26日に米第8軍戦争犯罪法廷(アメリカ軍横浜裁判)で河野正敏所長らの裁判が始まった[25]。
判決
1948年3月1日に判決が下され、鹿島組花岡出張所の河野正敏所長が終身刑、中山寮の伊勢智得寮長代理ら警備員3人が絞首刑、大館警察署の三浦太一郎署長ら2人が重労働20年の有罪判決を受けた(役職はいずれも事件当時)[26]。
確認・再審査
戦犯受刑者は、判決後に減刑されて死刑を執行された人は居なかった[27]。
米第8軍所属法務官が作成した「差戻し再審勧告書」は、裁判の起訴事実468件のうち有罪と認められたのは33件のみで、検察側の証拠は有効性に欠けていて予断や偏見、誇張に満ちており、起訴準備段階で被告人の尋問をした通訳が後に検察側の証人となっているなど通訳の公平な立場を失しているなど、8点の問題を指摘し、再審のための差戻しが相当と勧告していた。再審が行なわれた形跡がはないが、同勧告書の内容が減刑の理由になったとみられている。[28]
服役
戦犯受刑者のほとんどが1953年までに仮出所した[29]。
評価
横浜裁判では、暴動事件後の虐待だけでなく、暴動事件以前の虐待の責任も問われたが、下級管理者の責任のみが問われ、鹿島組の社長以下の企業幹部の責任が問われることはなかった。また華人労務者の内地への連行・使役を立案・実施した日本政府や日本軍、華人労務者を非人道的に取り扱うよう指示していた内務省・警察の組織的な責任は問われなかった。[30]
- 劉(1995,p.165)は、判決について、華人労務者の食糧を盗み取っていた鹿島組花岡出張所の労務主任・柴田某が無罪になり、張蘭英を打ち殺した輔導員の越山は起訴されず、また暴動事件後に共楽館で華人労務者を拷問したり、撲殺した警官や一般人が罪を贖っていない、と批判している。
- 劉智渠は、裁判で有罪となった被告人が判決後に減刑されて十分な処罰を受けなかったことに対する不満から、その後、自分や死亡した同僚が受けた虐待に対する損害賠償請求を志向したとされる[31]。
なお、華人労務者を使役していた事業所135ヵ所のうち、中国人強制連行事件について戦犯裁判が行なわれたのは、鹿島組花岡出張所と港運大阪築港2次の2事業所のみだった[32]。
- 中国人強制連行事件の戦犯訴追が2件に止まった理由として、1948年には、中国で反攻に転じた共産軍の優勢が明らかになりつつあり、また朝鮮半島の南北分断が固定化して、東アジアの国際情勢が緊迫していたことから、アメリカの対日政策が、民主化・非軍事化を基調とした日本政府や日本企業に対する戦犯追及から、日本政府や日本企業の協力を得て経済復興を促進する路線に変化したことが指摘されている[33]。
- こうした見方を裏付ける資料として、1948年3月に、当時米国務省の政策企画室長だったジョージ・ケナンが提出した「米国対日政策に関する勧告」では、反共産主義の立場から日本の経済復興を最優先にし、戦犯裁判について、A級戦犯容疑者の裁判終結の期限を早めることを強く主張しないこと、BC級戦犯容疑者のうち刑罰に値しないものを釈放することが主張されている[34]。
- GHQの中で中国人の強制連行問題の調査を担当したのは法務局中国課だったが、花岡以外の華人労務者使役事業所でも類似の事件が起きていただろうと想像していたものの証拠集めはしておらず、1948年3月の花岡事件の戦犯裁判の判決後、GHQの内部には中国人の問題をそれ以上追及しないという雰囲気があり、強制連行事件に関する調査は打ち切られた[35]。
付録
関連文献
- 花岡研究会編『花岡事件横浜法廷記録−BC級戦犯裁判の代表的事例』総和社、2006年、978-4901337939
脚注
- ↑ 野添(1993)pp.28-29、野添(1992)p.232
- ↑ 野添(1993)pp.28-29、野添(1992)p.232
- ↑ 林(2005)p.10
- ↑ 杉原(2002)p.159
- ↑ 新美(2006)p.304、杉原(2002)p.159
- ↑ 新美(2006)p.305、杉原(2002)p.159
- ↑ 野添(1993)p.29
- ↑ 石飛(2010)p.281
- ↑ 野添(1993)p.31
- ↑ 石飛(2010)p.190、野添(1992)pp.218-220,228、野添(1975)p.142。このほかに、病気入院中の18人が帰国せず日本に残留していた(杉原,2002,p.159)。
- ↑ 石飛(2010)p.190、野添(1992)pp.218-220,228、野添(1975)pp.143-144。野添(1993)p.28では、戦犯裁判の証人として12人が残された、としている。
- ↑ 西成田(2002)pp.5-12、NHK(1994)pp.28-30,37-39,58-60。石飛(2010,p.42)や野添(1992,p.234)は報告書はGHQに提出されたもの、GHQの指示により作成されたもの、としているが、NHK(1994,pp.28-30,58-62)によればあくまで外務省が戦犯調査を想定してまとめた内部資料であり、GHQから指示を受けたり、GHQに報告書を提出したりした経緯は確認されていない。「外務省報告書」は1946年3月1日付で作成されているが、西成田(2002,pp.5-12)は「事業場報告書」の日付が同年3月-4月に及んでいると指摘しており、NHK(1994,pp.37-39,58-60)は調査関係者の証言から3月1日は仮日付で報告書の完成は同年夏頃としている。
- ↑ 杉原(2002)p.163、野添(1993)p.29
- ↑ 野添(1992)p.229、野添(1975),p.130-『華鮮労務対策委員会活動記録』による。
- ↑ 杉原(2002)pp.163-164、野添(1975)pp.130-132
- ↑ 野添(1992)pp.228-229、野添(1975)p.146
- ↑ 石飛(2010)p.79、野添(1975)p.147
- ↑ 石飛(2010)p.81、野添(1975)pp.147-149
- ↑ 野添(1975)pp.147-149
- ↑ 野添(1993)p.36
- ↑ 野田(2008)pp.274-275
- ↑ 野添(1975)p.151
- ↑ 野添(1992)p.229
- ↑ 野添(1992)p.230、野添(1975)p.130
- ↑ 新美(2006)p.305、林(2005)p.10、西成田(2002)p.402、李(2010)p.99
- ↑ 新美(2006)p.305、林(2005)pp.10-11、杉原(2002)p.160、西成田(2002)p.402、野添(1993)pp.29-30、野添(1992)pp.230-231
- ↑ 新美(2006)p.305、林(2005)pp.10-11、杉原(2002)p.160、野添(1993)p.30、野添(1992)p.231
- ↑ 野添(1992)pp.231-232、『朝日新聞』1982年1月28日による。1982年1月27日に国立国会図書館が公表した、米国立公文書館の日本占領関係資料のマイクロフィルムのBC級戦犯裁判の横浜裁判の花岡事件に関する資料の中に、米第8軍所属法務官の「差戻し再審勧告書」が含まれていた(同)。
- ↑ 新美(2006)p.305、林(2005)pp.10-11、野添(1993)p.30、野添(1992)p.231
- ↑ 林(2005)pp.10-11、西成田(2002)p.402、NHK(1994)p.61、野添(1993)p.30、野添(1992)p.230
- ↑ 石飛(2010)pp.83-84、野添(1975)pp.157-158
- ↑ 杉原(2002)pp.132,165-166、NHK(1994)pp.61,183。西成田(2002,p.402)および野添(1993,p.30)は、戦犯裁判が行われたのは、鹿島組花岡出張所のみ、としている。
- ↑ 杉原(2002)pp.166-167、NHK(1994)pp.191-192
- ↑ NHK(1994)p.192
- ↑ NHK(1994)pp.184-186 - 当時、GHQの法務局中国課で働いていた張乃文の証言による。
参考文献
- 大館郷土博物館(2014) 大館郷土博物館 > バーチャル博物館 > 展示館2F > 花岡事件 2017年7月31日閲覧
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
- 野田(2008) 野田正彰「虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解」『世界』2008年2月号、岩波書店、pp.273-284
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- 林(2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波新書〉岩波書店、2005年、4-00-430952-2
- 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
- 西成田(2002) 西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002年、4-13-026603-9
- 石飛(1998) 石飛仁「解説 日本語版発刊によせて」シンプソン(1998)pp.296-301
- シンプソン(1998) ウィリアム・B・シンプソン(著)古賀林幸(訳)『特殊諜報員』現代書館、1998年、4768467369
- 劉(1995) 劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)『花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記』岩波書店、1995年、4002602257
- 初版「花岡事件-日本に俘虜となった一中国人の手記」中国人俘虜犠牲者善役委員会、1951
- NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670
- 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
- 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8
- 野添(1975) 野添憲治『花岡事件の人たち-中国人強制連行の記録』〈「人間の権利」叢書16〉評論社、1975年