野沢竹朝
野沢 竹朝(のざわ ちくちょう、1881年 - 1931年1月)は囲碁棋士七段。本因坊秀栄門下。
経歴
島根県松江市に1881年、元出雲藩士の子として生まれる。6才の時に碁を覚え、10才の頃には少年時代から神童として名が知られた。1892年に方円社に入塾した。大阪へ移ると後に十五世井上因碩を襲名する田淵米蔵に師事した。1903年に本因坊秀栄に入門し、飛付き二段となる。同年に三段、1907年には四段となる。『時事新報』囲碁新手合で10人抜きを達成、1909年には『万朝報』の勝ち抜き戦「碁戦」で12人抜き、1913年にも『時事新報』の勝ち抜き戦で5人抜きするなどし「常勝将軍」「鬼将軍」の異名をとった。 1909年に石井千治らとともに囲碁同志会を結成した。石井が方円社に復帰する1912年まで続く。1913年に結婚。1915年五段。 1924年の碁界大合時には日本棋院設立には参加せず、肺結核を患って神戸で療養生活を送った。 1926年の院社対抗戦では主催者である読売新聞から棋正社での出場を依頼され、これを受けて棋正社より六段を贈られ、次いで七段に推薦される。向井一夫(二子)、前田陳爾、宮坂寀二、長谷川章、小杉丁を破る4勝3敗で実力を証明した。 日本棋院では秀哉に次ぐ実力者であった鈴木為次郎が名乗りを上げ、1927年から十番碁が開始された。しかし、すでに竹朝は結核の病状を悪化させていたため、両者はそれぞれ別室で対局を継続した。当初は2勝1敗と勝ち越していたが、病状が進み、1930年には2勝5敗2ジゴに追い込まれた。 1931年、死去。葬儀には瀬越憲作、喜多文子、伊藤友恵、橋本宇太郎らが参列し、多磨霊園に埋葬された。
人物
- 毒舌のため稽古先の高田民子が野沢を批判したが、師の秀栄はこのため高田への稽古を断り、これにより四象会も後援者を失って終了した[1]。
- 1907年に本因坊秀栄が亡くなり秀哉と雁金準一との間で本因坊継承争いが起きた際、秀元が一旦再襲名した後に秀哉に本因坊を譲ったのは、野沢の発案であったといわれる。
- 1915年に「囲碁虎之巻」で「評の評」を担当し、本因坊秀哉や中川亀三郎らの講評を批評したため、本因坊・方円社の両派からの圧力で打切りとなる。
- 1918年、野沢の後援者の高橋善之助が月刊誌『囲碁評論』を創刊すると、竹朝は『評の評』を復活し、秀哉や中川亀三郎の評に是々非々を加え、人物評論「棋界月旦」では秀哉の本因坊継承にまつわる裏話を暴露した。権威主義の風潮に逆らった破天荒の試みであった。12月秀哉は竹朝に戒告状をに送ったが、何の返答もしなかったため、同16日、竹朝を本因坊家より破門し、段位を没収した。 すでに名人となっていた秀哉の評に当時五段の野沢が評を加えることは、名人や方円社の権威を危うくするものと受け止められた。しかし野沢はこの後も五段の肩書きで評論活動を続けた。
- 1923年1月(43才)、古島一雄代議士、喜多文子五段の斡旋で、中央棋院設立を機に本因坊秀哉と和解した[1]。
- 「奇美談碁」の著者吉田俊男が語る野沢の言行によると「オレは新聞や雑誌に、唯の一つもよく書かれたことがない。しかし、そんなことを構って居ちゃ、碁は上らんテ」と語った[2]。
- 村松梢風によれば、野沢と鈴木の性格は正反対であったという。野沢については、「此の人の態度には何となく人を馬鹿にしてゐる処がある。が、傲慢と云ふには大変愛嬌があり過ぎる。時々洒落た冗談を云ふが、とにかく相手を頭から呑んで掛かっている」とあり、一方の鈴木は「丁度其の正反対、何処迄も質実、寡黙、謹厳、真面目一方だ。沈思黙考久しうして容易に石を下さない」
- 中山典之は野沢を「近代三舌」の一人とした。
棋風
門下生
林徳蔵との番碁を契機にその息子の林有太郎を指導した。堅実な棋風を「小秀策の面影あり」と評した。
著書
- 野沢竹朝『野沢竹朝全集』斯文館,1931年
- 野沢竹朝『最新碁戦評の評』斯文館,1935年
- 野沢竹朝『囲碁実戦詳解 : 理論的説明』吉川弘文館,1911年