ユダヤ人

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'''ユダヤ人'''(יהודים<ref>ラテン文字翻字:Yehudim</ref>、[[英語]]: Jew、Djudios、ייד<ref>ラテン文字翻字:Jidn</ref>)は、[[ユダヤ教]]の信者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(血統)。ヨーロッパでは[[19世紀]]中頃まで主として前者の捉え方がなされていたが、近代的[[国民国家]]が成立してからは後者の捉え方が広まった。[[ハラーハー]]では、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている<ref>関哲行 『世界史リブレット59 スペインのユダヤ人』 山川出版社、2003年、1頁。</ref>。 [[2010年]]現在の調査では、全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家として[[イスラエル]]があるほか、各国に移民が生活している。 古代イスラエル人またはユダヤ人は'''ヘブライ人'''とも称される。日本においては[[第二次世界大戦]]中までは「セム人」と称されることが多かったが、現在は「ユダヤ人」という呼称がほぼ一貫して使用されている。 ユダヤ人は[[ディアスポラ]]以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する[[社会的少数者|少数派]]の[[:en:Ethnic group|エスニック集団]]として定着した<ref>関哲行 『世界史リブレット59 スペインのユダヤ人』 山川出版社、2003年、2頁。</ref>。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有する一つの[[民族]]として分類することはできない。言語の面をみても、[[イディッシュ語]]の話者もいれば[[ラディーノ語]]の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、一つの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている<ref>佐藤唯行 『英国ユダヤ人』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1995年、16頁。</ref>。 ==定義== 「ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人々である」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近代以降ではユダヤ人の家系で[[キリスト教]]に改宗した人々(例えば[[フェリックス・メンデルスゾーン]]や[[グスタフ・マーラー]]、[[ベンジャミン・ディズレーリ]])も[[無神論]]者のユダヤ人(例えば[[ジークムント・フロイト]])も「ユダヤ人」とみなされることが多い。なお、[[イスラエル]]国内において[[ユダヤ教]]を信仰していない者は、Israeli([[イスラエル人]])である。 [[帰還法]]は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人と定義している。また、ユダヤ人社会内や[[イスラエル]]国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、[[ヨーロッパ]]などでは、母親がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母親が非ユダヤ人で父親がユダヤ人という場合)もユダヤ人として扱うことが多い。 [[Image:Gottlieb-Jews Praying in the Synagogue on Yom Kippur.jpg|thumb|M. Gottlieb画、シナゴーグで祈るユダヤ人([[1878年]])]] {{右| [[画像:Targum.jpg|thumb|none|[[11世紀]]の翻訳書]] }} 過去の人種学ではユダヤ人という人種が存在しているという考え方もあった。[[ゴビノー]]はアラブ人とユダヤ人を併せてセム人種と呼び、これを[[白人]]の中でも他人種との混血度の高い二級集団と断じた<ref>杉本淑夫「白色人種論とアラブ人 - フランス植民地主義のまなざし」 pp. 64-65.(『白人とは何か? - ホワイトネス・スタディーズ入門』所収)</ref>。[[ナチズム]]はユダヤ人を人種として扱っているが、[[ニュルンベルク法|帝国市民法第一施行令]]による分類では、形式的にユダヤ教組織に属した人間も「人種としてのユダヤ人」になるとされた。こうした見方からはユダヤ人特有の外見の特徴が存在するとされ、これに基づいた差別的検査も行われていた。しかし、ユダヤ人を身体的形質によって他と区別しうる集団として捉えることはできず、すでに白人のみならず多数の[[黒人]]がともにユダヤ人として認められている。[[シオニスト]]はユダヤ教とユダヤ民族を切り離して捉えることが多いが、これも[[ナチス]]の論法と同様の危険をはらんでいる。 現代社会ではユダヤ人はおおむね居住地の他の住民と同化しており、これを血統主義的観点からのみ区分することはできない。そのため、ユダヤ人の[[ハーフ]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}とかクオーターとかいう形容は、まず用いられない。[[ドイツ]]の文芸評論家[[マルセル・ライヒ=ラニツキ]]は、自伝『[[わがユダヤ、ドイツ、ポーランド]]』(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方でこのあたりの機微を突いている。 ==民族性== 現在でもユダヤ人は民族として存続している。 ユダヤ教徒は教義上[[イエス・キリスト]]を[[メシア]]と認めなかった。また、イエスはユダヤ人によって十字架にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、ユダヤ人は「神殺し」(イエス殺し)の汚名を着せられていた。こうした宗教的な理由や、ユダヤ人はキリスト教社会で疎まれていた金貸しが多かったという経済的理由が歴史的な反ユダヤ感情の要因としてしばしば挙げられる<ref>内田 2006, pp. 43-47.</ref>。[[18世紀]]頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、さまざまな商工業分野でユダヤ人が活躍するようになった。近現代には企業の創業者や科学者を多数輩出している<ref>ユダヤ5000年の教え/ラビ・マービン・トケイヤー</ref>。 ユダヤ人は[[タルムード]]に従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも[[学問]]を重視すると言われる。紀元[[70年]]に[[ローマ軍]]によりイスラエルが一度滅びた時もラビ・ヨハナンが10人が入れる[[学校]]を残すことを交渉し、ローマ皇帝[[ティトゥス]]がこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、民族別[[知能指数]]では世界で最も高く<ref>Herrnstein and Murray 1994; Richard Lynn 1991a; Lynn 2006</ref><ref>[http://blog.ohtan.net/archives/51073126.html 人種別知能指数比較(その1) | 防衛省OB太田述正の日本はアメリカの属国だ]</ref>、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。[[カール・マルクス]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[クロード・レヴィ=ストロース]]など、近現代の哲学・思想方面のキーパーソンを輩出しているほか、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られている<ref>内田樹 『私家版・ユダヤ文化論』 文藝春秋、2006年、176-177頁。</ref>。 ドイツを中心とした地域に住みつき、中欧・東欧へ拡散したユダヤ人は、アシュケナージ([[アシュケナジム]])と呼ばれ、[[ドイツ語]]の[[方言]]である[[イディッシュ語]]を話していた。近代のドイツ語圏では彼らはある程度ドイツ文化に同化してドイツ語を使用するようになった。 中世前期のヨーロッパでは、ユダヤ人は農業、商業、職人などさまざまな職業に従事することができた。[[カロリング朝]]ではユダヤ人は聖書の民として保護され、11世紀頃までは国際的な交易の担い手でもあった。イタリア商人に東方貿易のお株を奪われると、ユダヤ人は[[消費貸借]]専門の貸金業に活路を見出した。中世後半期には、土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放等により次第にユダヤ人の活動は制限されるようになり、農業や手工業に従事することが困難になったユダヤ人は、[[質屋]]、[[両替商]]、黄金の管理人、古物商、行商や市場での無店舗販売、芸能などで生計を立てていた。 また、世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]は「フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだらモスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る」と指摘していた。こうしたことから、現在でもユダヤ人にはメディア関係が多いとされる。また[[ロスチャイルド家]]は銀行業で成功したユダヤ系財閥として知られる。19世紀末のアメリカのユダヤ系移民もまた、金融やメディア、流通業等の間隙的な業種以外の業界への参入が難しかった。ハリウッドの映画産業にはユダヤ人が創業したものが多い<ref>内田 2006, p. 175.</ref>。 スファラディ([[セファルディム]])系ユダヤ人は、[[オスマン帝国]]圏や[[スペイン]]・[[フランス]]・[[オランダ]]・[[イギリス]]などに多く、かつては[[ラディーノ語]]を話していた。キリスト教に改宗した人々は[[マラーノ]]と呼ばれた。 アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、中東地域、アジア地域に移り住んだユダヤ人は[[ミズラヒム]](ミズラヒ)と呼ばれていた。 ほかにも[[イラン]]、[[インド]](主に3集団)・[[中央アジア]]・[[グルジア]]・[[イエメン]]・[[モロッコ]]などを含んだ大きな観念であるミズラヒム、[[カライ派|カライ派・カライム人]]、[[中国]]、[[ジンバブエ]]などのユダヤ人のほか、インド(ミゾ人)・[[ウガンダ]](アバユダヤ)・アメリカ[[黒人]]([[ブラック・ジュー]])などの新たな改宗者、[[イスラエル]]建国は[[メシア]]到来まで待つべきだとする[[サトマール派]]・[[ナートーレー=カルター|ネトゥレイ・カルタ]]、[[キリスト教]]関連の[[メシアニック・ジュダイズム]]、[[ネオ・ジュダイズム]]など多くの分派もある。[[エチオピア]]・[[ベルベル人|ベルベル]]のユダヤ人は孤立して発展し、[[タルムード]]を持たない。 現在世界に散らばるユダヤ人は、全てがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。写真はユダヤ人の言語([[ヘブライ語]])から各国語に翻訳された[[聖書]]の一部である。 ===世界のユダヤ民や宗教的集団=== 世界に散らばるユダヤ教徒のコミュニティーや宗教的集団には以下がある。 *[[イシューブ]]([[イスラエル]]([[パレスチナ]])の地のユダヤ教徒) *[[ミズラヒム]] **[[北アフリカ]]のユダヤ人(マグレビーム) ***[[モロッコ]]のユダヤ人 ***[[アルジェリア]]のユダヤ人 ***:フランス植民地統治下のアルジェリアでは、原住民のイスラム教徒が参政権を持たない下級市民とされたのに対し、ユダヤ教徒(セファルディム、ミズラヒム)に対してはフランスの完全市民権が付与された。このため、ユダヤ教徒はフランス本国からの入植者([[コロン]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}})と同化し、フランス語を母語とするようになり、自らをヨーロッパ人と考えるようになった。このため、アルジェリアの独立時には多くのユダヤ教徒がフランス人としてコロンとともにフランス本国に引き揚げコロンとひとまとめに「[[ピエ・ノワール]]」と呼ばれるようになった。ただし、独立以前にもフランス内地へ移住するユダヤ教徒がいなかったわけではない。これらの人々の中からはフランスで著名な[[歌手]]・[[俳優]]なども多く輩出されている。([[クロード・ルルーシュ]]、[[エンリコ・マシアス]](セファルディム)など)。 ***チュニジア・ユダヤ人 **[[イランのユダヤ人|ペルシア・ユダヤ人]]([[:en:Persian Jews|Persian Jews]]) **[[イエメン・ユダヤ人]](テイメン) **[[ベタ・イスラエル]]([[ファラシャ]])([[エチオピア]]のユダヤ人) **[[山岳ユダヤ人]]<small>(タート・ユダヤ人。ダゲスタン、アゼルバイジャン、アルメニアのタート人社会の内部)</small> **[[グルジーム]] **[[ブハラ・ユダヤ人]](タジキスタンから中央アジア全土) *インドと周辺のユダヤ人 **[[コーチン・ユダヤ人]] **クナナヤ(キリスト教徒) **[[ベネ・イスラエル]] **ボンベイ・ユダヤ人 **バグダーディ・ユダヤ人(イラク系) **[[マニプール・ユダヤ人]](集団改宗者) *中国のユダヤ人 **[[開封のユダヤ人|開封市のユダヤ教徒]] *[[ヘレニスト]] **[[ロマニオット]](「ローマ人」、ユダヤ系[[ギリシャ人]]) *イタリアのユダヤ教徒(北部にはアシュケナジムが多い) *ツァルファーティー(フランスのユダヤ人)消滅した世代と残留者、新しい世代(諸地域・諸国からの移民) *[[セファルディム]] *[[アシュケナジム]] *:アイルランドのユダヤ人(ツァルファーティー・セファルディムとアシュケナジム) *アバユダヤ *レンバ族([[ジンバブエ]]) *[[サマリア人]] *[[ブラック・ジュー]] *[[ハザール]]のユダヤ人 **クリミア・カライム人([[カライ派]]) **[[クリムチャク人]] *ユダヤ=キリスト教徒 **[[メシアニック・ジュダイズム|メシアニックのユダヤ教徒]] (英語版の記事「[[:en:Jews by country|Jews by country]] [[:en:List of Jews from the Arab World|List of Jews from the Arab World]]」も参照) (エジプト、メソポタミア、モロッコ、トルコ、ペルシアなどのコミュニティーに関しては英語版の記事「[[:en:Islam and Judaism|Islam and Judaism]]」も参照) ==歴史== {{main|ユダヤ人の歴史|:en:Jewish history}} ===古代=== {{main|古代イスラエル}} [[旧約聖書]]によると、民族の始祖[[アブラハム]]が、[[メソポタミア]]の[[ウル]](現在の[[イラク]]南部)から部族を引き連れて「[[カナン]]の地」(現在の[[イスラエル]]、[[パレスチナ]]付近)に移住したとされる。'''ヘブライ人'''と呼ばれる彼らは、この付近で遊牧生活を続けた(ヘブライの原義は不明で諸説あるが、一説には「渡り歩く人」の意<ref>『岩波 キリスト教辞典』1014頁、「ヘブライ人」の項(筆者:月本昭男)</ref>)。 [[紀元前17世紀]]頃<ref>[[紀元前17世紀]]には、[[ヒクソス]]がエジプトへ移住し、[[エジプト第15王朝]]([[紀元前1663年]]頃 - [[紀元前1555年]]頃)を興している。[[紀元前1628年]]には[[ギリシャ]]の[[サントリーニ島]]でミノア噴火が起こり、[[火山の冬]]が原因で気候が大きく変動し、カナンに居住し続けるのが困難になった。</ref>、ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされた。 その後、[[エジプト第19王朝]]の時代に、再び大きな気候変動が起こり<ref>[[紀元前1200年]]頃に、[[アイスランド]]・[[ヘクラ山]]の第三ヘクラ大噴火が原因と考えられる世界的な気温低下による[[前1200年のカタストロフ]]が起こった。</ref>、エジプトのヘブライ人指導者[[モーセ]]が中心となり、約60万人の人々がエジプトから[[シナイ半島]]に脱出を果たす([[出エジプト]])。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であった[[カナン人]]や[[ペリシテ人]]を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃から'''イスラエル人'''を自称するようになり、[[ヘブライ語]]もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。[[紀元前1207年]]の出来事を記したエジプトのメルエンプタハ石碑に:<hiero>i-i-z:Z1s*Z1s:r-i-A-r:Z1-T14-A1*B1:Z2s</hiero> ([[ヒエログリフ]]:𓇋-𓇋-𓊃:𓏤*𓏤:𓂋-𓇋-𓄿-𓂋:𓏤-𓌙-𓀀*𓁐:𓏥 - YSRYR - イスラエル)と記されているのがイスラエルという部族についての最古の文献である。 紀元前10世紀頃、古代イスラエル人は[[ヤハウェ]]信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする[[古代イスラエル|古代イスラエル王国]]をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、ある統計によれば同時代の世界人口は約5000万人<ref>Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on File, New York, ISBN 0-7139-1031-3.</ref>、[[縄文時代]]だった日本列島の人口は推定で10数万である<ref> 加藤徹『貝と羊の中国人』[[新潮新書]]、2006年、78頁</ref>。[[ソロモン王]]の死後、紀元前930年頃、北の[[イスラエル王国]]と南の[[ユダ王国]]に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年に[[アッシリア]]によって滅ぼされた([[イスラエルの失われた10支族|失われた十支族]])。南のユダ王国は、[[紀元前609年]]に[[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]でエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、[[紀元前606年]]にカルケミシュの戦い|en|Battle of Carchemish}}でエジプトが[[新バビロニア]]に敗れた。[[紀元前587年]]に[[新バビロニア]]の侵攻に会い({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)}})、翌年にはユダ王国が滅亡して{{仮リンク|エフド<!-- [[:en:Ehud]] とリンク -->|en|Yehud (Babylonian province)}}が置かれ、多くの人民が奴隷として[[バビロン]]に囚われた([[バビロン捕囚]])。彼らはユダ王国の遺民という意味で'''ユダヤ人'''と呼ばれるようになった。 [[紀元前539年]]の{{仮リンク|オピスの戦い|en|Battle of Opis}}で、[[アケメネス朝]]ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人は[[キュロス2世]]によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国{{仮リンク|エフド・メディナタ|en|Yehud Medinata}}として復興された。'''[[ユダヤ教]]'''の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、[[古代マケドニア]]王国、[[セレウコス朝]]シリアなどに[[宗主国]]が引き継がれ、最終的には[[ローマ帝国]]領の[[ユダヤ属州]]とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近い[[アラム語]]にほぼ取って代わり、のちに国際語として[[ギリシャ語]]も浸透した。また、[[ヘレニズム]]諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民([[ディアスポラ]])の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年代頃、ユダヤ属州北部[[ナザレ]]の民から出た[[イエス・キリスト]]([[ナザレのイエス]])が活動したと伝えられる<!--が、イエス・キリストの実在については疑問の声が多い(→当該項目で考証すべき)-->。 [[66年|紀元66年]]から[[ローマ帝国]]に対し反乱を起こすが([[ユダヤ戦争]])、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。[[132年]]、[[バル・コクバの乱]]が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する'''パレスチナ'''という地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民が[[ヨーロッパ]]を中心に世界各国へ移住して離散した({{仮リンク|ユダヤ人離散|en|Jewish diaspora}})。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫<!--(恐らく農耕民の大部分)-->は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の[[パレスチナ人]]になったと考えられる。 ===古代末期から中世=== {{main|{{仮リンク|ヨーロッパのユダヤ人の歴史|en|History of the Jews in Europe}}}} [[画像:Expulsion judios-en.svg|thumb|right|500px|1100年から1600年にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人の追放による民族移動を示す地図]] [[画像:Cohanim DNA migration.jpg|thumb|[[:en:Joseph Felsenstein|Joseph Felsenstein]]のソフトウェアによる解析結果に基づく、J2 DNA [[:en:Kohen|Kohanim]]の3000年間の民族移動を示す地図]] [[7世紀]] - [[10世紀]]に、カスピ海北部に[[ハザール|ハザール王国]]が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。 [[ディアスポラ]]後の[[民族移動時代]]([[2世紀]]-[[7世紀]])、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。[[697年]]に[[ウマイヤ朝]]が[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]との抗争で疲弊していた[[東ローマ帝国]]の[[カルタゴ]]及び[[北アフリカ]]を征服し、[[711年]]の{{仮リンク|グアダレーテの戦い|en|Battle of Guadalete}}で[[西ゴート王国]]を滅ぼし[[イベリア半島]]に進出した。[[ジュデズモ語]]を話す[[セファルディム]]も[[イベリア半島]]に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。 [[レコンキスタ]]・[[十字軍]]時代に、[[ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]社会では、「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。封建制度に内属していなかった彼らはヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて[[農業]]の道を断たれ、商工業[[ギルド]]に加入することができなかったため、[[職工]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。[[1066年]]、イスラム支配下の[[アンダルス]]で{{仮リンク|グラナダ虐殺 (1066年)|en|1066 Granada massacre}}が起こり、多数の{{仮リンク|ベルベル・ユダヤ人|en|Berber Jews}}が犠牲となった。[[11世紀]]末頃にはすでにユダヤ人は「[[高利貸し]]」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人はねたまれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった<ref name="ユダヤ人ゲットー36">大澤武男著『ユダヤ人ゲットー』(講談社現代新書)36ページ</ref>。[[セルジューク朝]]が西方に領土を拡大し、[[東ローマ帝国]]領の[[アナトリア半島]]を占領すると、[[アレクシオス1世コムネノス]]は[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に救援を求めた。[[1095年]]11月に[[クレルモン教会会議|クレルモン公会議]]が開催され、翌年に[[民衆十字軍]]と[[第1回十字軍]]が開始され、[[エルサレム王国]]が設立された。これ以後、約200年にわたって、[[十字軍]]は7回の遠征を行なった。 [[1150年]]頃、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]にユダヤ人が居住した記録が残っている<ref name="ユダヤ人ゲットー44">大澤武男著『ユダヤ人ゲットー』(講談社現代新書)44ページ</ref>。[[13世紀]]になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、職の追放なども行われた。[[神聖ローマ帝国]]のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝に{{仮リンク|ユーデンシュトイアー|de|Judensteuer<!-- 曖昧さ回避ページ -->|label=ユダヤ人税}}(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。後の[[オスマン帝国]]においても[[ジズヤ]]([[人頭税]])の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。 [[東方植民]]時代([[12世紀]]-[[14世紀]])には[[モンゴルのポーランド侵攻]]で人口が減少した[[ポーランド王国]]へ進出し、[[イディッシュ語]]を話す[[アシュケナジム]]が定住を始めた。[[1264年]]の[[カリシュの法令]]によって権利および安全を[[ポーランド王]]および[[シュラフタ]](ポーランドの貴族共和政を担った階級)の庇護のもとに保障され、[[1290年]]に[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]による{{仮リンク|追放布告|en|Edict of Expulsion}}で[[イングランド]]を追放されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「[[シュテットル]]」を形成した。 [[ペスト#14世紀の大流行|14世紀のペスト大流行]]([[:en:Black Death migration|en]])の頃から弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、市街地中心から離れた場所に設けられた[[ゲットー]]と呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。[[1462年]]にフランクフルトのユダヤ人は[[フランクフルト・ゲットー]]に居住するようになった。[[1467年]]、[[ポーランド王国]]と[[ドイツ騎士団]]の間で{{仮リンク|司祭戦争|en|War of the Priests}}が勃発し、1479年に[[ピョートルクフの講和]]({{lang-en|Treaty of Piotrków}})が結ばれると、[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]の治める[[ピョートルクフ・トルィブナルスキ|ピョートルクフ]]に[[神聖ローマ帝国]]を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。[[1488年]]、イタリアの[[ソンチーノ]]に逃れたユダヤ人によって"Casa degli Stampatori"([[:it:Soncino#Musei]])で[[ヘブライ語聖書]]([[タナハ]]、[[旧約聖書]])が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀には[[ヴィリニュス]]にも居住するようになった。 [[1492年]]に[[イベリア半島]]で[[レコンキスタ]]が完了し、[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の治世に[[異端審問]]制度による[[スペイン異端審問]]が始まると、[[モリスコ追放]]によって[[セファルディム]]の多くが[[北アフリカ]]に追放され、[[ポルトガル]]に逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、[[新キリスト教徒]]と呼ばれるユダヤ人が誕生した。[[セファルディム]]のフェルナン・デ・ロローニャ(Fernão de Loronha)は、赤い染料「{{仮リンク|ブラジリン|en|Brazilin}}」を抽出できる[[ブラジルボク|パウ・ブラジル]]の専売権を得て、[[ブラジル]]の植民地開拓期に活躍した。 ===初期近代=== [[1600年]]に[[イギリス]]の作家[[ウィリアム・シェイクスピア]]が発表した[[戯曲]]『[[ヴェニスの商人]]』では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。 [[1648年]]に[[ウクライナ]]で起こった[[フメリニツキーの乱]]では{{仮リンク|ザポロージャン・コサック|en|Zaporozhian Cossacks|label=ザポロージャ・コサック}}による[[ポグロム]]によって多くの犠牲者を出した。[[1657年]]に[[ユダヤ人]]の追放を[[オリバー・クロムウェル]]が解除し、ユダヤ人がイングランドへ367年ぶりに帰還した。 ===近代=== [[ファイル:Map showing percentage of Jews in the Pale of Settlement and Congress Poland, c. 1905.png|thumb|300px|{{仮リンク|ユダヤ教徒居住区|en|Jewish Pale}}及びロシア帝国領ポーランド内のユダヤ人分布図 (数値は百分率(%)、1905年)]] [[啓蒙時代]]([[17世紀]]-[[18世紀]])になると、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]らによる宗教を超えた[[汎神論論争]]を[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]が肯定すると、[[モーゼス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]](『[[賢者ナータン]]』のモデルとして知られる)もこれを擁護して[[ハスカーラー]]と呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から[[1740年]]頃、[[ガリチア]]で[[イスラエル・ベン・エリエゼル|バアル・シェム・トーブ]]が[[ハシディズム]]を開始した。[[1786年]]、ロシアが{{仮リンク|ユダヤ教徒居住区|en|Jewish Pale}}({{lang-ru-short|Черта́ осе́длости}}、{{lang-yi|דער תּחום-המושבֿ}})を設置。[[1795年]]に[[ポーランド分割]]([[1772年]]・[[1793年]]・[[1795年]])が実施され、[[ポーランド・リトアニア共和国]]が消滅して東部(旧[[リトアニア]]公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、[[ハプスブルク家]]へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。[[1806年]]7月、[[神聖ローマ帝国]]が解体され、[[1811年]]に[[カール・テオドール・フォン・ダールベルク]]が[[ナポレオン法典]]をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。 しかし、ナポレオンが敗退すると、[[1814年]]にはユダヤ人の市民権と選挙権が再びはく奪された。[[1819年]]、[[ドイツ]]の[[ヴュルツブルク]]で[[ポグロム]]が発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域で{{仮リンク|へプへプ暴動|en|Hep-Hep riots|label=へプへプ・ポグロム}}が起こった。[[1821年]]にはウクライナで{{仮リンク|オデッサ・ポグロム|en|Odessa pogroms}}が起こった。[[1848年]]、[[ハンガリー革命 (1848年)|ハンガリー革命]]に参加した{{仮リンク|ハンガリーのユダヤ人の歴史|en|History of the Jews in Hungary|label=ハンガリー系ユダヤ人}}({{lang-en-short|Hungarian Jews}})が弾圧された。これをきっかけに[[アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン]]によってハンガリーも[[1851年]]から[[1860年]]にかけてドイツ化が進行した。[[1864年]]、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、[[1871年]]に[[ドイツ帝国]]が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。 {{Seealso|東方問題|{{仮リンク|オスマン帝国分割|en|Partitioning of the Ottoman Empire}}|エジプト・シリア戦役|エジプト・トルコ戦争}} 19世紀後半になると、主に旧[[リトアニア]]公国の領域([[ベラルーシ]]・[[ウクライナ]]・[[モルドバ|モルドヴァ]])で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、[[コサック]]などの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。[[1881年]]に[[アレクサンドル2世]]が暗殺されると、帝政[[ロシア]]政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので反ユダヤ運動が助長されることになり、[[:en:Anti-Jewish pogroms in the Russian Empire#1881-1884|ロシアで反ユダヤ主義のポグロム]]([[1881年]]-[[1884年]])が起こった。ユダヤ人は[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー帝国領]][[ブロディ]]へ大量に脱出したため町が混乱すると、[[1882年]]に[[:en:May Laws|May Laws]]が発布され、ユダヤ人への締め付けが実施された。 [[1890年]]、[[エリエゼル・ベン・イェフダー]]が[[パレスチナ]]に「ヘブライ語委員会」(「{{仮リンク|ヘブライ言語アカデミー|en|Academy of the Hebrew Language}}」の前身)を設立。 [[1894年]]に[[フランス]]で[[ドレフュス事件]]が起こり、同年には「{{仮リンク|イディッシュ・ルネッサンス|en|Yiddish Renaissance|label=イディッシズム}}」を代表する作家、[[ショーレム・アレイヘム]]による『{{仮リンク|牛乳屋テヴィエ|en|Tevye}}』(『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』の項を参照)が発表された。[[1896年]]、[[テオドール・ヘルツル]]が「{{仮リンク|ユダヤ人国家|en|Der Judenstaat}}」を発表。 [[1900年]]には[[黒百人組]]が結成され、[[1903年]]から[[1906年]]にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった({{仮リンク|キシナウ・ポグロム|en|Kishinev pogrom}})。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引きがねとなり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとする[[ナータン・ビルンバウム]]による[[シオニズム|シオニズム運動]]が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり([[キリスト教]]や[[イスラム]]に改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由の一つである。 ====第一次世界大戦==== [[1914年]]11月にイギリスが[[オスマン帝国]]に宣戦布告すると、シオニストの閣僚・[[ハーバート・サミュエル]]が「[[:en:s:The Future of Palestine|The Future of Palestine]]」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナは[[:en:Syria Vilayet|Vilayet of Damascus]]南西部にあったが、[[1915年]][[10月24日]]の[[フサイン・マクマホン協定]]のこの部分に関する解釈が後に大論争となった。[[第一次世界大戦]]が始まると大量の[[コルダイト火薬]]が必要になったが、その原料の[[アセトン]]供給を握っていたのは[[ロシア帝国]]の化学者でシオニストの[[ハイム・ヴァイツマン]]であった。このことでイギリス政府閣僚との知古を得たヴァイツマンは[[アーサー・バルフォア]]に[[バルフォア宣言]]を働きかけた。[[1916年]][[5月16日]]には[[サイクス・ピコ協定]]が締結された。[[アラブ反乱]]([[1916年]]6月 - [[1918年]]10月)。[[1917年]]に熱心なシオニストの[[ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)|第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド]]はイギリス政府から[[バルフォア宣言]]を取り付け、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約は[[トルコ]]との[[セーヴル条約]]や[[イギリス委任統治領パレスチナ]]([[1920年]]-[[1948年]])に繋がっていった。[[1919年]]には{{仮リンク|ファイサル・ワイツマン合意|en|Faisal–Weizmann Agreement}}が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。[[オスマン帝国]]から代わった委任統治が、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]([[1920年]]-[[1948年]])の公用語の一つとして[[ヘブライ語]]を宣言した。 イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。[[1920年]]7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、[[1921年]]の暴動があった。[[1922年]]、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]が成立。[[1925年]]、[[1926年]]の暴動、[[1929年]]には[[嘆きの壁事件]]がきっかけとなって[[8月23日]]には{{仮リンク|ヘブロン虐殺 (1929年)|en|1929 Hebron massacre|label=ヘブロン虐殺}}(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。 [[1928年]]、[[ウラジーミル・レーニン]]の[[社会主義]]民族政策により、[[アムール川]]沿岸の中ソ国境地帯に「[[ユダヤ自治州|ユダヤ民族区]]」が設置され、{{仮リンク|西ウクライナ|uk|Західна_Україна}}から{{仮リンク|西ベラルーシ|be|Заходняя Беларусь}}にまたがる「[[ルテニア]]」と呼ばれた地域、すなわち{{仮リンク|カルパティア・ルテニア<!-- リダイレクト先の「[[ザカルパッチャ州]]」は、[[:en:Zakarpattia Oblast]] とリンク -->|en|Carpathian Ruthenia}}([[カルパト・ウクライナ]])・[[ガリツィア]]([[ガリツィア・ロドメリア王国]])・[[モルダヴィア]]・[[ベッサラビア]]などの[[シュテットル]]から多数のユダヤ人が移住した。社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざすもので、[[イディッシュ語]]の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィア等からの難民が[[ウィーン]]へも押し寄せ、[[イディッシュ語]]のコミュニティーを形成したことが知られている。<ref>メンデル・ノイグレッシェル, "イディッシュのウィーン", (1997), ISBN 4-879-84192-7</ref> ====第二次世界大戦==== [[1933年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなり、様々な扱いで圧迫されるようになった。[[1936年]]から[[1939年]]の{{仮リンク|パレスチナのアラブ反乱 (1936年 - 1939年)|en|1936–39 Arab revolt in Palestine|label=パレスチナのアラブ反乱}}では、エルサレムでの暴動があった。なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5000人、うちユダヤ人が7万5000人を占めていた<ref>イスラエルvsユダヤ MYTHS AND FACTS 』(ニアイースト・リポート編 / 滝川義人 訳)41p - 43p </ref>。[[1938年]][[11月9日]]、ドイツ全土で『[[水晶の夜|帝国水晶の夜]]』({{lang-de|Reichskristallnacht}})事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。[[1939年]]、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域に於けるユダヤ人の隔離を開始した。[[ソ連]]はユダヤ人難民の[[ユダヤ自治州|ユダヤ自治区]]への流入を禁止した。 [[1940年]][[8月31日]]、[[杉原千畝]]が[[リトアニア]]の[[カウナス]]を脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。[[1941年]]、ソ連は[[ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国]]を廃止し、[[ヴォルガ・ドイツ人]]を[[シベリア]]や[[カザフスタン]]へ追放し、{{仮リンク|カザフスタンのドイツ人|en|Germans of Kazakhstan}}と呼ばれた。[[1941年]][[7月10日]]、[[イェドヴァブネ事件]]。[[1941年]][[9月6日]]、[[リトアニア]]の[[ヴィリニュス]]に[[ヴィリニュス・ゲットー]]が設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画([[マダガスカル計画]])を立てていたが、その後[[絶滅収容所]]への収容・絶滅計画に方針を切り替えた。これらは[[ホロコースト]]と呼ばれる。 ====イスラエル建国==== ホロコーストの実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するという[[シオニズム]]が盛んになり、[[1945年]]にアメリカで{{仮リンク|ユダヤ人抵抗運動|en|Jewish Resistance Movement}}が組織された。しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。[[1946年]]にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織による[[キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件]]や[[イフード運動]]の指導者[[ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー]]({{lang|en|Fawzi Darwish al-Husseini}})暗殺が起こった。[[1947年]][[11月29日]]に国連で『[[パレスチナ分割決議]](国際連合総会決議181号)』が採択されると、[[11月30日]]から{{仮リンク|パレスチナ内戦|en|1947–48 Civil War in Mandatory Palestine}}が始まり、[[1948年]]4月には[[エツェル]]による[[デイル・ヤシーン事件]]などが起こったが、同年5月14日の[[イスラエル国]]建国の[[イスラエル独立宣言]]が行なわれると、翌日の5月15日の[[第一次中東戦争]]に繋がっていった。{{仮リンク|全パレスチナ政府|en|All-Palestine Government}}が[[ガザ]]に設置され、[[アミーン・フサイニー]]が[[大統領]]となると、[[:en:Killings and massacres during the 1948 Palestine War|Killings and massacres during the 1948 Palestine War]]が多発した。[[1949年]]7月の[[休戦協定]]によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。[[エジプト]]は[[ガザ地区]]を獲得し、[[ヨルダン]](1949年6月に[[トランスヨルダン]]から名称変更した)は[[エルサレムの旧市街とその城壁群|東エルサレム]]及び[[ヨルダン川西岸地区]]を獲得した。一方、寸土も獲得出来なかった全パレスチナ政府が四ヶ月で崩壊すると、[[1951年]]にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンの[[アブドゥッラー1世]]を暗殺した。 [[1952年]]に{{仮リンク|エジプト革命 (1952年)|en|Egyptian Revolution of 1952|label=エジプト革命}}が起こり、[[1953年]]にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]は[[アスワン・ハイ・ダム]]建設の協力をアメリカに求めた。しかし、[[1956年]]になって[[アメリカ合衆国]]国務長官の[[ジョン・フォスター・ダレス]]がエジプトへの協力に反対した<ref>この問題でダレスは、[[1956年]][[8月19日]]にロンドン会談で日本の[[重光葵]]外相にもソ連と[[北方領土]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}を二島返還で妥結するなら沖縄返還は無いと圧力をかけた。当時の日本は、[[朝鮮戦争]]が[[1953年]]に休戦したことを受け、ソ連とも講和条約締結と北方領土の返還を協議していた。日本は[[1951年]]に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]で[[単独講和]]路線を選択した後だったことから、ダレスの圧力を受け入れ、[[10月12日]]の[[鳩山一郎]]首相と[[ニキータ・フルシチョフ]]の首脳会談で、国交回復を先行させ、平和条約締結後に[[歯舞群島]]と[[色丹島]]を返還する前提で平和条約の交渉を行う事が合意された。その結果、[[10月19日]]の[[日ソ共同宣言]]で北方領土は返還されなかった。</ref>。そのためナーセルはソ連側に接近し、さらに[[汎アラブ主義]]を掲げ、[[スエズ運河国有化宣言|スエズ運河国有化]]({{lang-en-short|Nationalisation of the Suez Canal}})を断行した。当時[[フランス]]は、[[アルジェリア戦争]]([[1954年]]-[[1962年]])で[[アルジェリア民族解放戦線]]をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で[[第二次中東戦争]]が勃発した。[[アメリカ合衆国]]の[[アイゼンハワー]]大統領は、{{仮リンク|アラブ冷戦|en|Arab Cold War}}下に[[ソ連]]が介入する事態を懸念し、[[平和のための結集決議]]で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争に繋がった。 米国が[[ベトナム戦争]]で{{仮リンク|アラブ冷戦|en|Arab Cold War}}に手が回らなくなると、ソ連の[[KGB]]はイスラエルの[[イスラエル諜報特務庁|モサッド]]の諜報活動を逆手にとった。[[ゴラン高原]]におけるユダヤ人入植地の建設を巡る紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは[[1967年]]に逆に先制攻撃を行ない、[[第三次中東戦争]]を開始した。 第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「{{仮リンク|大イスラエル運動|en|Movement for Greater Israel|label=大イスラエル構想}}<ref>[http://d.hatena.ne.jp/believer777/20090130 『大イスラエル』構想 - Greater Israel - について]</ref>」([[1967年]]-[[1976年]])が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。 1964年にアラブ連盟により[[パレスチナ解放機構]](PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍した[[ファタハ]]の[[ヤーセル・アラファート]]が議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。[[1970年]]に[[ガマール・アブドゥン=ナーセル]]が急死すると、[[アンワル・アッ=サーダート]]がエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固める為に[[1971年]]9月にシリアとリビアとの[[アラブ共和国連邦]]を結成した。1972年4月には、[[1970年]]の[[ヨルダン内戦|ブラック・セプテンバー事件]]でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻込まれる形で、1973年10月の[[第四次中東戦争]]が勃発した。[[石油輸出国機構]](OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界で[[オイルショック]]を引き起こした。 和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル路線からの転換を図った。[[1977年]]6月にサーダートがイスラエルへ[[メナヘム・ベギン]]首相を公式訪問し、[[1978年]]9月の[[キャンプ・デービッド合意]]はサーダートが単独で締結した。しかし、[[1981年]]10月にサーダートはエジプトの[[ジハード団]]によって暗殺された。 [[1987年]]に始まる[[第1次インティファーダ]]は、PLOへの失望感からパレスチナ人が抵抗運動を始めたものである。 ==年表== <!--<table border=1 bordercolor=blue> <tr><td>[[ヘブライ人]] | [[ヤハウェ]]信仰</td></tr> <tr><td>年表 - [[古代イスラエル]] ::[[イスラエル王国]] ::[[ユダ王国]] [[聖書成立史]] | [[ユダヤ教]] | [[ユダヤ史関連人物一覧]]</td></tr> <tr><td>[[メソポタミア地方のユダヤ教徒の歴史]] | [[ユダヤ教]]</td></tr> <tr><td>[[ユダヤ人の歴史|ユダヤ教徒の歴史]](詳細)</td></tr> <tr><td>[[イスラエルの歴史]] | [[レバント]] --><!--(考古学年表執筆予定)--><!-- </td></tr> <tr><td> --><!--各地域の[[コミュニティー]]の歴史;その項目を参照 *[[ユダヤ教徒コミュニティー]] *[[:Category:ユダヤ史|ユダヤ史]] </td></tr> <tr><td>[[セファルディム]]</td></tr> <tr><td>[[中欧のユダヤ教徒の歴史]]</td></tr> <tr><td>[[東方ユダヤ人の歴史]](中東欧・ロシアのユダヤ教徒の歴史)</td></tr> </table> --><!--暫定テンプレートです--> *[[313年]] - [[ミラノ勅令]]([[ローマ帝国]]で、これまで弾圧を受けていたキリスト教が公認される) *[[392年]] - ローマ帝国が[[キリスト教]]以外の宗教を禁止 *[[529年]] - [[ユスティニアヌス1世]]、[[アテネ]]の哲学院([[ギリシア哲学]])を閉鎖 *[[622年]] - [[イスラム教]]が成立 *[[6世紀]] - [[8世紀]]頃 - 東ローマとササン朝が全面戦争。ユダヤ人の一部が大挙してアラビアに移住。新都市の建設に協力するが、イスラム教への改宗は拒絶した。その為、短期間、迫害を受ける。 *[[7世紀]]以降 - イスラム教徒がイベリア半島に進出するに伴い、メソポタミア地方、シリア、小アジア、エジプト、そして勿論マグリブのユダヤ教徒がイベリア半島に移住([[セファルディム]]、[[ラディーノ語]]を参照) *[[10世紀]] - アシュケナジムがライン地方に定着(詳細は[[アシュケナジム]]、[[イディッシュ語]]、[[中欧のユダヤ教徒の歴史]]を参照) *[[11世紀]] **[[十字軍]]、[[イスラム帝国]]分裂の結果、[[中東]]のユダヤ教徒が弾圧され、多くが[[ヴェネツィア]]に移住 **カトリック教会がユダヤ教徒をほとんどの職業から追放 ***ユダヤ人は中世のヨーロッパ大陸でさまざまな商工農業に従事し、東方貿易の担い手でもあったが、教会法と世俗法による職業制限の結果、商業、特に貸金業などの[[金融]]業に従事する割合が増大した。教会法はキリスト教徒の利子付き貸借を禁じていたが、ユダヤ教は異教徒から利子を受け取ることを許しているためである(ただし、キリスト教会によって名目上あらゆる利子取得は非難されていたにもかかわらず、実際には聖職者や修道院さえも金銭貸借を行っていた)。11-12世紀にイタリア商人が地中海貿易の覇権を握るとユダヤ人は遠隔地貿易から締め出され、貸金業に活路を見出した。13世紀頃から北イタリアを中心としてキリスト教徒の商人が大々的に金融業を営むようになると、金貸しはユダヤ人の独占市場ではなくなり、ユダヤ人は質屋などの消費者金融専門となった。こうした経済的社会状況を背景とした反ユダヤ感情が11世紀末頃から芽生える。 **[[ポーランド王国]]によるユダヤ人[[移民]]の受け入れが本格化する *[[1246年]] - [[ミンダウカス]]、[[リトアニア大公国|リトアニア大公]]として即位 *[[1264年]] - 「[[カリシュの法令]]」が発布され、これ以降ポーランドではユダヤ人の権利と安全が制度的に保障される *[[14世紀]]初め - [[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]によってポーランド再統一 *[[1386年]] - ポーランド、非キリスト教国であった[[リトアニア大公国]]から大公ヨガイラ([[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]])を国王に迎え入れ、リトアニアと連合([[ヤギェウォ朝]]) *[[1453年]] - [[オスマン帝国軍]]、[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノポリス]](現在の[[イスタンブル]])を陥落させる。[[オスマン帝国]]では、この後、ユダヤ難民を受け入れ、[[ヨーロッパ世界]]とは異なり、基本的には非ムスリムに対する差別を禁止する、国家による平等社会が整備された *[[15世紀]] - [[レコンキスタ]]の進展により[[スペイン]]のイスラム勢力がキリスト教勢力に追われ、イスラム教国に協力したとされたユダヤ教徒が弾圧される。一部はキリスト教に改宗し、[[1492年]]改宗を拒否したユダヤ人は追放され、多数が地中海周辺の都市に移住。改宗したユダヤ人は、スペインにおいては差別はなくならず、[[マラーノ]]と呼ばれ蔑まれた。 *[[1569年]] - [[ルブリン合同]] *[[1648年]] - [[ボフダン・フメリニツキー]]([[ウクライナ・コサック]])の反乱 *[[1772年]]・[[1793年]]・[[1795年]] - [[ポーランド分割]] *[[1786年]] - {{仮リンク|ユダヤ教徒居住区|en|Jewish Pale}}設置 *[[18世紀]]末 - [[フランス革命]]:ユダヤ教徒の権利向上の動きもあり、ユダヤ教徒への弾圧が弱まって行ったが、逆に新反ユダヤ主義が芽生える面もあった。 **[[1789年]][[8月26日]] - [[人間と市民の権利の宣言]] **1800年代 - [[ナポレオン戦争]] *[[1881年]] - [[アレクサンドル3世]]即位。ユダヤ教徒弾圧始まる。 *[[1883年]] - ロシア、[[イディッシュ演劇]]の上演禁止([[オーストリア・ハンガリー帝国]]ではこのようなことはない) *19世紀末 **[[東ヨーロッパ|東欧]]で続く弾圧から逃げるため、東欧のユダヤ教徒が[[パレスチナ]](イスラエルの地)に移住し始める。[[ロスチャイルド家]]から移住の費用が補助されたといわれる。これが、後のイスラエル建国へとつながる。[[テルアビブ]]の都市建設などが始まる。 **[[ドレフュス事件]]が起き、[[シオニズム]]が活発になる。フランス軍のユダヤ人大尉がスパイの冤罪を着せられた事件。 *[[1908年]]/[[1909年]]/[[1914年]] - [[イズレイル・ザングウィル]]、アメリカのアイデンティティに対し「メルティング・ポット」論(原型が溶かされて一つになる)を唱える。 *[[1914年]] - [[ホレイス・カレン]](ユダヤ系)、アメリカのアイデンティティに対し「[[サラダボウル]]論」(それぞれの形の色と形を留めたままで共生する社会)を唱え、[[文化的多元主義]]を提案する。 *[[1918年]] - ポーランドが[[西ウクライナ人民共和国]]を武力で滅ぼし、東[[ガリツィア|ガリツィヤ]](ハルィチナー)をはじめとする一帯を[[領有]]。 *[[1930年代]] - 1933年の[[ナチ党の権力掌握]]により、ドイツにおいて[[人種主義]]に基づく反ユダヤ政策が実行される。 *[[第二次世界大戦]]期 - 反ユダヤ政策がドイツの占領地域に拡大し、ユダヤ人の隔離、強制収容が行われる。[[独ソ戦]]勃発以降にはヨーロッパからのユダヤ人種の根絶をはかる[[ホロコースト]]が行われ、600万人とも言われるユダヤ人が犠牲になったとされる。戦中、戦後の時期においてヨーロッパを離れパレスチナなどに移住するユダヤ人が発生。 *[[1948年]][[5月14日]] - [[国連決議181号]]に基づき[[イスラエル]]の独立宣言。 *[[1965年]] - [[多文化主義]]が提唱される。 *[[1990年代]] - [[ソビエト連邦]]の崩壊によりソ連に住んでいたユダヤ人が大量にイスラエルに移住。 <!--:''詳細は[[ユダヤ人の歴史]]を参照''--> ===反ユダヤ主義=== ユダヤ人の歴史の要素の一面として、時には迫害・襲撃・追放をも含んだ[[反ユダヤ主義]]ということが言われるが、これはあくまで極一面であって、[[ディアスポラ]]の地で2000年、地域によっては1000年以上の隣人として共存・共発展してきた面もあり、たとえば[[キリスト教]]では親ユダヤの宗派も存在する。宗教弾圧を受けた面もあれば、セム的[[一神教]]・[[アブラハムの宗教]]の本流としての「[[啓典の民]]」<ref>{{lang-ar|Ahl al-Kitab}}</ref>、「聖なる民 ‘am Qodeš<small>([[マルティン・ブーバー]]は「聖に<u>する</u>民」と訳している。[[レビ記]]11章45節を参照。)</small>」としての面もある。[[イスラム世界]]においては、貢納を行えば信仰は許されたが、メルラーと呼ばれる[[ゲットー]]も存在していた。これを編み出したのは[[ハルーン・アル・ラシード]]であった。また反ユダヤ暴動もしばしば起きていた<ref>イスラエルvsユダヤ {{lang|en|MYTHS AND FACTS}}』(ニアイースト・リポート編 / 滝川義人 訳)200p </ref>。 :''(詳しくは[[反ユダヤ主義]]を参照)'' ===ユダヤ人国家の誕生=== {{Main|シオニズム|イスラエル|中東戦争}} [[1945年]]、[[シオニスト]]によってユダヤ人国家[[イスラエル]]が建設される。<!--第一次大戦後、パレスチナはイギリスの[[委任統治]]領となった。イギリスはユダヤ人居住地の建設に支持を示す[[三枚舌外交]]を行って、ユダヤ人の支援を取り付けていたこともあり、シオンの丘帰還運動いわゆる[[シオニズム]]が始まる{{要出典}}。 イギリスはユダヤ人国家の建設を否定したが、ユダヤ人過激派はこれに満足せず、反英[[テロリズム]]に手を染めていくことになる{{要出典}}。 ホロコーストはシオニズムに一気に加速させ、多くのユダヤ人とユダヤ資本がパレスチナに流入した。ついにはパレスチナ地域の人口の三分の一がユダヤ人、土地の7%がユダヤ人所有という事態になる{{要出典}}。ユダヤ人とパレスチナ人の対立やユダヤ人テロの激化にイギリスは国連に裁可を求め、国際社会の後押しでパレスチナ分割が決議され、翌年[[イスラエル]]建国が宣言された。しかし少数派のユダヤ人に国土の多く(しかも豊かな土地が集中していた)明け渡すパレスチナ分割に国内外のアラブ人は激しく反発し[[第一次中東戦争]]が始まる。戦争はイスラエルの勝利に終わり、イスラエルはパレスチナ人地区や周辺アラブ国家の一部を占領、現在も占領下におき続けている。--> ==博物館== *[[ユダヤ博物館]]がある都市…[[ロンドン]]、[[ベルリン]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[ウィーン]]、[[ヴィリニュス]]、[[プラハ]]、[[ニューヨーク]] *[[サバタイ・ツヴィ博物館]]…トルコのスミルナ(イズミル)に建設予定(2006年時点) ==文化遺産== ユダヤ人関連の文化遺産として以下がある。 *[[イスラエル]] **[[エルサレム|東エルサレム]](イスラエル管理地域)旧市街と城壁([[1981年]]世界遺産登録) **[[マサダ]]([[2001年]]世界遺産登録) **[[アッコ]]旧市街(2001年 世界遺産登録) **[[テルアビブの白い都市|テルアビブの白い都市 - 近代建築運動]]([[2003年]] 世界遺産登録) *[[スペイン]] **[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]旧市街([[1985年]][[世界遺産]]登録) **[[コルドバ]]歴史地区([[1984年]]/[[1994年]]世界遺産登録) **[[トレド]]旧市街([[1986年]]世界遺産登録) *[[チェコ]] **[[プラハ]]歴史地区 - 旧ユダヤ人墓地&新旧[[シナゴーグ]]([[1992年]]世界遺産登録) **[[トシェビーチ]]のユダヤ人地区と[[聖プロコピウス大聖堂]](2003年世界遺産登録) *[[イエメン]] **[[サナア]]旧市街(1986年世界遺産登録) - ユダヤ人の先祖[[セム]]が作ったとされ、[[古代イスラエル|イスラエル]]と関係のあった[[シバ王国]]があったとされる。 **[[ザビード]]歴史地区([[1993年]]世界遺産登録) *[[アフガニスタン]] - [[ジャームのミナレット]] - ユダヤ人墓地 *[[ルーマニア]] - [[ブカレスト]]の[[国立ユダヤ劇場]] *[[オマーン]] - [[乳香]]の交易路 (The Frankinsence Trail) ([[2000年]]) <!-- クリーンアップ予定・・・何故? ==関連組織== ユダヤ人が歴代運営する組織とユダヤ人の創始した組織には以下がある。 *[[デ・ビアス]] *[[オリヴェッティ]] *[[シトロエン]] *[[リーバイス|リーヴァイ・ストラウス]] *[[シェル石油]] *[[ニューヨーク・タイムズ]] - 歴代社主サルツバーガー(Sulzberger)家 *[[ワシントン・ポスト]] - ユージーン・メイヤー創設 *[[ロイター通信]] '''[[ハリウッド]]''' *[[メイアー]] *[[ゴールドウィン]] *[[ランスキー]] *[[ラスキー]] *[[ズーカー]] *[[キューカー]] *[[フォックス]] *[[ワーナー]] --> ==関連書籍== {{参照方法|date=2008年4月|section=1}} ===初歩的入門書・紹介書=== *『わかるユダヤ学』(手島勲矢 編著、[[日本実業出版社]]、2002年9月、ISBN 4-534-03449-0) *『図解ユダヤ社会のしくみ 現代ユダヤ人の本当の姿がここにある』(滝川義人 著、[[中経出版]]、2001年3月、ISBN 4-8061-1442-1) *『ユダヤを知る事典』(滝川義人 著、[[東京堂出版]]、1994年04月、ISBN 4-490-10363-8) *『ユダヤ人〈1〉ユダヤ人とは何か』([[広河隆一]](編集), [[パレスチナ・ユダヤ人問題研究会]] (編集)、三友社出版 (1985/12) ASIN:B000J6R5A8 ) *『イスラエル VS. アラブ 誤解と真実』([[ニアイースト・リポート]]編 / 滝川義人 訳 / ミルトス / ISBN 4-89586-114-7 / 1991年4月) *『私のなかの「ユダヤ人」』([[ルティ・ジョスコビッツ]]著、 現代企画室;増補新版版 (2007/08) ISBN-10:4773807083、ISBN-13:978-4773807080 ) *『イスラエル』([[臼杵陽]]著、岩波書店 (2009/4/21) ISBN-10:4004311829、 ISBN-13:978-4004311829 ) ====ユダヤ教==== *『現代人のためのユダヤ教入門』([[デニス・プレーガー]][[デニス・プレガー|<sup>*</sup>]] [[:en:Dennis Prager|Dennis Prager]]、[[ジョーゼフ・テルシュキン]] [[:en:Joseph Telushkin|Joseph Telushkin]] 著、松宮克昌・松江伊佐子 訳、[[ミルトス]]、ISBN 489586118X)- ユダヤ教への入門・再入門書。ユダヤ教の本質について論じている。 *『ユダヤ教聖典入門 ― トーラーからカバラーまで』(R・C・ムーサフ・アンドリーセ 著、市川裕 訳、[[教文館]]、ISBN 4764262622) ===アシュケナジム社会=== *中央大学人文科学研究所研究叢書 29『ツァロートの道 ユダヤ歴史・文化研究』([[中央大学]]出版部、2002年3月、ISBN 4-8057-4207-0) *『彼ら抜きでいられるか 二十世紀ドイツ・ユダヤ精神史の肖像』(ハンス・ユルゲン・シュルツ 編、山下公子・他 訳、[[新曜社]]、2004年8月、ISBN 4-7885-0905-9) *『表現主義論争とユートピア』(船戸満之 著、情況出版、2002年5月、ISBN 4-915252-63-9) *『パリ・貧困と街路の詩学 1930年代外国人芸術家たち』(今橋映子 著、都市出版、1998年5月、ISBN 4-924831-68-9) *『フロイトのウィーン』([[ブルーノ・ベッテルハイム]] 著、森泉弘次 訳、みすず書房、1992年3月、ISBN 4-622-03057-8) *平凡社ライブラリー 386『ウィトゲンシュタインのウィーン』([[スティーヴン・トゥールミン|S.トゥールミン]]&A.ジャニク 著、藤村竜雄 訳、[[平凡社]]、2001年3月、ISBN 4-582-76386-3) *りぶらりあ選書『取り消された関係 ドイツ人とユダヤ人』(ハンス・マイヤー 著、宇京早苗 訳、[[法政大学]]出版局、2003年8月、ISBN 4-588-02216-4) *叢書・ウニベルシタス 510『ユダヤ人とドイツ 「ユダヤ・ドイツの共生」からアウシュヴィッツの記憶まで』([[エンツォ・トラヴェルソ]] 著、宇京頼三 訳、[[法政大学]]出版局、1996年2月、ISBN 4-588-00510-3) *[[中公新書]]『ユダヤ・エリート―アメリカへ渡った東方ユダヤ人』([[鈴木輝二]] 著、[[中央公論新社]]、2003年3月、ISBN 4121016882)<small>- 著者は経済学者であり、パレスチナ問題に関しては偏りが見られる。</small> ===ユダヤ人の芸術=== ====[[イディッシュ文化|イディッシュ文学]]==== *『ティビエおやじと娘たち』([[ショーレム・アレイヘム|ショーロム・アレイヘム]]著 / 南川貞治 注釈、[[研究社出版]]、1983年) *『{{仮リンク|牛乳屋テヴィエ|en|Tevye}}』([[ショーレム・アレイヘム]]著) *『ユダヤ人たち』([[ショーレム・アレイヘム|シャロム・アレイヘム]]著 / 木島始 江田阿希子 訳、[[思潮社]]、1980年10月) *『[[屋根の上のバイオリン弾き]]』([[ショーレム・アレイヘム|ショラム・アレイヘム]]著 / 南川貞治 訳、[[早川書房]]、1976年) *『悔悟者』([[アイザック・バシェヴィス・シンガー|アイザック・B・シンガー]]著 / 大崎ふみ子 訳、[[吉夏社]]、2003年12月、ISBN 4-907758-11-1) ====ドイツ文学==== *『[[賢者ナータン]]』([[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]] 著 / [[篠田英雄]]訳、[[岩波書店]](岩波文庫)、1978年、ISBN 4-00-324042-1) *『ユダヤ人の生活 マゾッホ短編小説集』(L・v・[[ザッハー=マゾッホ]] / 中沢英雄 訳、[[柏書房]]、1994年9月、ISBN 4-7601-1120-4) *『果てしなき逃走』([[ヨーゼフ・ロート]]著) *『ラデツキー行進曲』([[ヨーゼフ・ロート]]著) ====アメリカ文学==== *[[E・L・カニグズバーグ]]作品(児童文学):[http://www.kyobunkwan.co.jp/Narunia/LIB04.htm カニグズバーグ作品] **『魔女ジェニファとわたし ベーグル・チームの作戦(カニグズバーグ作品集 2)』(松永ふみ子 訳、[[岩波書店]]、2002年1月、ISBN 4-00-115592-3) *創元推理文庫 282-01『水の戒律』([[フェイ・ケラーマン]] 著 / 高橋恭美子 訳、[[東京創元社]]、1993年4月、ISBN 4-488-28201-6) ===ユダヤ人の精神・生活関連=== ====哲学関連==== *『ブーバーに学ぶ 「他者」と本当にわかり合うための30章』(斉藤啓一 著、[[日本教文社]]、2003年12月、ISBN 4-531-06389-9)<small>- 建国と中東戦争・パレスチナ問題に関する箇所に関しては、著者の偏りと情報の欠落があり、時にユダヤ教に対して、キリスト教的偏見が見受けられる。</small> *『トーラーの知恵 現代を生きるためのユダヤ人の聖書観』(ピンハス・ペリー 著 / 手島勲矢・上野正 訳、[[ミルトス]]、1988年6月、ISBN 4-89586-102-3) *『なるほど!ユダヤの格言・ユダヤの知恵』(エスカルゴ・ブックス / 滝川義人 著、日本実業出版社、1995年8月、ISBN 4-534-02364-2) ===教養関連=== *『1人の母親は100人の教師にまさる ユダヤの伝統教育と英才教育』(ルツ・アラジ 著 / 滝川義人 訳、[[プロスパー企画]]、2000年4月、ISBN 4-938695-40-5) *『子どもが伸びるユダヤ式教育』(アシェル・ナイム 著 / [[河合一充]] 訳、ミルトス、2000年7月、ISBN 4-89586-142-2) *『ユダヤ人が語った親バカ教育のレシピ』(アンドリュー・J・サター ユキコ・サター 著、[[インデックス・コミュニケーションズ]]、2006年3月、ISBN 4-7573-0363-7) *<small>次の著者は多少固定観念を語り単純化しているため、深い問題は語っていない。日本では「金持ちになるため、ユダヤ人から学ぶ」という内容の本も多い。</small> *:<small>『ユダヤ人「頭の壁」を破る法』(前島誠 著、[[三笠書房]]、2004年4月、ISBN 4-8379-2092-6)</small> *:<small>『ユダヤに学ぶ世界最強の勉強法 わが子を億万長者に育てる方法』([[和田秀樹]] 著、[[ビジネス社]]、2004年11月、ISBN 4-8284-1159-3)</small> *:<small>『ユダヤ5000年の教え 世界の富を動かすユダヤ人の原点を格言で学ぶ』([[ラビ]]・[[マービン・トケイヤー]] 編著 / [[加瀬英明]] 訳、[[実業之日本社]]、2004年4月、ISBN 4-408-39551-X)</small> ===その他=== *『にせユダヤ人と日本人』([[浅見定雄]] 著、[[朝日新聞社]]、1983年12月、ISBN 4-02-255090-2) *『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫、1986年12月、ISBN 4-02-260416-6) *『ユダヤ人の脅威―アメリカ軍の反ユダヤ主義』(ジョーゼフ・W・ベンダースキー著 / 佐野誠 樋上千寿 関根真保 山田皓一 訳、風行社、2003年8月、ISBN 4-938662-60-4) *『ロスト・ラゲッジ―エルサレムのかたすみで』(大桑千花 著、而立書房、2006年12月、ISBN 978-4880593364) *『ユダヤ移民のニューヨーク 移民の生活と労働の世界』(野村達朗 著、[[山川出版社]]、1995年10月、ISBN 4-634-48090-5) *『ニューヨーク知識人 ユダヤ的知性とアメリカ文化』(堀邦維 著、[[彩流社]]、2000年6月、ISBN 4-88202-649-X) *『ショアーの歴史 ユダヤ民族排斥の計画と実行』(ジョルジュ・ベンスサン著 / 吉田恒雄訳、[[白水社]]([[クセジュ|文庫クセジュ]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}})、2013年8月、ISBN 4-560-50982-1) *[http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/tandai/kiyou/No.37/045-067_Nakata.pdf  見えないユダヤ人―半世紀後に読む『ロリータ』―]中田晶子、南山大学紀要第37号、2009年 ==ユダヤ人科学者== *[[アルベルト・アインシュタイン]](物理学者) *[[ロバート・オッペンハイマー]](原爆を完成させたユダヤ系アメリカ人物理学者) *[[ジョン・フォン・ノイマン]](原爆を完成させたユダヤ系ハンガリー人数学者) == ユダヤ人音楽家 == *[[ウラディミール・アシュケナージ]] *[[エリアフ・インバル]] *[[ジョージ・ガーシュウィン]] *[[オットー・クレンペラー]] *[[スタン・ゲッツ]] *[[ベニー・グッドマン]] *[[サイモン&ガーファンクル]] **[[ポール・サイモン]] **[[アート・ガーファンクル]] *[[アイザック・スターン]] *[[ボブ・ディラン]] *[[イツァーク・パールマン]] *[[ダニエル・バレンボイム]] *[[レナード・バーンスタイン]] *[[ユーディ・メニューイン|イェフディ・メニューイン]] *[[アルフレッド・ライオン]] *[[アルトゥール・ルービンシュタイン]] *[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]] *[[ブルーノ・ワルター]] ==日本と関わりの深いユダヤ人== *[[バーナード・ジャン・ベッテルハイム]]- 沖縄に来たプロテスタント系キリスト教伝道師(1846) *[[アーサー・ウェイリー]]([[源氏物語]]、能などを英訳したイギリスのユダヤ人) *[[ブルーノ・タウト]]([[桂離宮]]など日本建築の美しさを欧米に伝えたユダヤ系ドイツ人) *[[ヤン・レッツェル]]([[広島県]]の広島県物産陳列館《後の[[原爆ドーム]]》などを設計したユダヤ系チェコ人) *[[ジェイコブ・シフ]]([[日露戦争]]の際、日本の[[戦時国債]]に協力したドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人) *[[アナトリー・ヤコヴレヴィチ・グートマン]] ([[尼港事件]]の詳細を日本に伝えたユダヤ系の[[白系ロシア人]]のジャーナリスト) *[[ハリー・ホワイト]]( [[ハル・ノート]]を書いたリトアニア系ユダヤ人のアメリカ外交官) *[[チャールズ・ケーディス]]([[日本国憲法]]執筆者) *[[ハーバート・ノーマン]](日本史研究者) *[[エドワード・サイデンステッカー]](日本文学翻訳家) *[[ルティ・ジョスコビッツ]](著述家) *[[スティーヴン・スピルバーグ]](映画監督) *[[エリ・コーヘン]](元駐日イスラエル大使) *[[レオ・シロタ]](ピアニスト、当時高い評価を西欧で得ていたが、来日し多くの日本人音楽家を育てた) *[[ベアテ・シロタ・ゴードン]]([[レオ・シロタ]]の娘で、日本国憲法の人権条項作成に携わり、女性の権利の明記に尽力した。日本国憲法の作成に携わった足跡が『ベアテの贈りもの』として05年に映画化された) ==日本のメディアに登場するユダヤ人== *[[ロバート・アラン・フェルドマン]] *[[ピーター・フランクル]] - 数学者 *[[ピーター・バラカン]] *[[デーブ・スペクター]] - コメンテーター。 その他、[[日本のユダヤ人]]参照。 ==ユダヤ関連の映画== *[[しあわせ色のルビー]] [http://www.ryokojin.co.jp/tabicine/backnumber/apriceaboverubies.html (しあわせ色のルビー)] *[[太陽の雫]] ([[サボー・イシュトヴァーン]]監督) *[[ザ・ロイヤル・テネンバウムズ]] *[[ライフ・イズ・ビューティフル]] *[[戦場のピアニスト]] *[[ベニィ・グッドマン物語]] *[[紳士協定 (映画)]] *[[シンドラーのリスト]] *[[戦火の奇跡 ユダヤを救った男]] *[[ブルーノ (映画)]] *[[ミート・ザ・ペアレンツ]]シリーズ *[[ブラックブック]] *[[耳に残るは君の歌声]] *[[十戒]] ==脚注== <references /> ==関連項目== *[[カイク]] *[[ユダヤ教]] *[[ユダヤ関連用語一覧]] *[[ユダヤ教史関連人物一覧]] *[[ユダヤの神話]] *[[ヘブライ聖書]] *[[タルムード]] *[[613のミツワー]] *[[シナゴーグ]] *[[ラビ・ユダヤ教]](ラビ的ユダヤ教) *[[ユダヤ教への改宗者の一覧]] *[[ヘブライ語]]と[[ヘブライ文字]] *[[ユダヤ諸語]] *[[イスラエル (民族)|イスラエル]] **[[古代イスラエル]] **[[イスラエルの失われた十氏族]] *[[ディアスポラ]] **[[アシュケナジム]] **[[セファルディム]] **[[ミズラヒム]] ***[[イエフディ]] **[[反ユダヤ主義]] **[[ホロコースト]] **[[オスカー・シンドラー]] **[[杉原千畝]] ***[[反日感情]] *[[シオニズム]] *[[選民としてのユダヤ人]] ==外部リンク== {{commonscat|Jews}} *[http://d.hatena.ne.jp/believer777/ 聖書とユダヤ人] *[http://www.bh.org.il/ MUSEUM OF THE JEWISH PEOPLE](英語・ヘブライ語) *[http://www.alljudaica.com/ ALLJUDAICA.COM](英語)- ユダヤ教・ユダヤ人関係のショッピング *[http://www.jtsa.edu/library/exhib/costume/index.html CULTURE AND COSTUME](英語) - ユダヤ教徒の衣装。アルムスハイムのヨハネス・シュニッツァーの版画もあり。 :'''アシュケナジム社会''' *[http://polish-jewish-heritage.org/ The Canadian Foundation of Polish-Jewish Heritage](ポーランド語・英語) *[http://www.eilatgordinlevitan.com/vilna/vilna.html Vilna Site](英語)- リトアニアのユダヤ教徒社会の写真集 *[http://www-english.tamu.edu/pers/fac/myers/ D.G.Myers](英語)- テキサス大学の教授のページ *[http://www.scarsdalemura-kara.com/yudayasaijiki.htm ユダヤ歳時記](ユダヤ教に改宗しニューヨークに在住する一日本女性のサイト) {{DEFAULTSORT:ゆたやしん}} [[Category:ユダヤ人|*]] [[Category:ユダヤ教]] [[Category:地域別の民族]] [[Category:アジアの民族]]