鈴木貫太郎
{{日本の内閣総理大臣 |[[鈴木貫太郎内閣|42]] |鈴木 貫太郎<br/>(すずき かんたろう)<br/>[[Image:Suzuki Kantaro.jpg|200px]] |[[1868年]][[1月18日]]<br/>([[慶応]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) |[[大阪府]][[堺市]]<br/>([[本籍地]]:[[千葉県]][[野田市]]) |[[海軍大学校]]卒業 |[[海軍大将]]<br/>[[男爵]]<br/>[[従一位]][[勲一等]][[功三級]] |[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長 |無 |[[1945年]](昭和20年)[[4月7日]]|1945年(昭和20年)[[8月17日]] |非議員| |[[挙国一致内閣|中間内閣]] |[[1948年]]([[昭和23年]])[[4月17日]]}} '''鈴木 貫太郎'''('''すずき かんたろう'''、[[1868年]][[1月18日]]([[慶応 (元号)|慶応]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[4月17日]])は、[[海軍軍人]]、[[政治家]]。[[連合艦隊司令長官]]、[[軍令部|海軍軍令部長]]等を歴任し、終戦時の第42代[[内閣総理大臣]]。[[官位]]は[[大将|海軍大将]]、[[従一位]]<ref>鈴木は死後12年を経た[[1960年]](昭和35年)[[8月15日]](終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を[[贈位]]されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、[[日本国憲法]]施行後はこの鈴木が唯一の例である。</ref>[[勲等|勲一等]][[金鵄勲章|功三級]]、[[男爵]]。最後の[[江戸時代]]生まれの総理大臣でもある。 == 経歴 == [[大阪府]][[堺市]][[中区 (堺市)|中区]][[伏尾]]([[和泉国]][[大鳥郡]][[久世村]]伏尾、[[関宿藩]]の飛び地)に[[関宿藩]]士の[[鈴木由哲]]・きよの長男として生まれる。[[本籍地]]は、[[千葉県]][[野田市]](旧・[[関宿町]])。 [[前橋市]]に転居し、[[前橋市立桃井小学校|厩橋学校]]、[[群馬県立前橋高等学校|前橋中学]]、[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]を経て、[[1884年]](明治17年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入学。[[日清戦争]]に従軍。[[1898年]](明治31年)、[[海軍大学校]]を卒業。[[日露戦争]]では、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長と呼ばれたが、自らの駆逐隊で戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈するなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に大きく貢献した。 その後[[ドイツ]]に駐在、[[1914年]](大正3年)、[[海軍省|海軍]][[次官]]となり、[[シーメンス事件]]の事後処理を行う。[[1923年]](大正12年)、[[大将|海軍大将]]となり、[[1924年]](大正13年)に[[連合艦隊司令長官]]に、翌年[[軍令部|海軍軍令部長]]に就任。 [[1929年]](昭和4年)に[[天皇]]と[[皇太后]]([[貞明皇后]])に[[侍従|侍従長]]就任を懇願され[[予備役]]に。[[1936年]](昭和11年)年に起きた[[二・二六事件]]では、青年将校らに襲撃された。一命を取り留めたが、侍従長を辞任した。 [[1944年]](昭和19年)に[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長となり、[[1945年]](昭和20年)4月[[内閣総理大臣]]就任。総理大臣としては非国会議員・[[江戸時代]]生まれ<ref>これに関しては微妙なところで、一般に「江戸時代」の終わりは[[大政奉還]]とされるが、これは鈴木が生まれる前の慶応3年10月14日([[1867年]]11月15日)である。一方、明治への改元は慶応4年9月8日([[1868年]]10月23日)であるが、改元に際して「慶応4年をもって明治元年とする(正月までさかのぼって改元)」とされたことから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)が明治の始まりとなり、鈴木の誕生日の一週間後となる。したがって、厳密には「明治改元前に生まれた最後の総理大臣」である。</ref>という二つの点で最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は2009年現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である<ref>退任時の年齢では[[大隈重信]](満78歳6ヶ月)が最高齢である。</ref>。[[昭和天皇]]から“聖断”を引き出し、紛糾する軍部・政府部内の意見を[[ポツダム宣言]]の受諾で日本降伏の一本に統一し、終戦と同時に[[総辞職]]。 [[1948年]](昭和23年)死去、[[享年]]81。先妻トヨとは死別、後妻は、[[足立たか|たか]]([[昭和天皇]]の[[皇孫]][[殿下]]時代の教育御用掛)。遺品の多くは野田市の[[鈴木貫太郎記念館]]に展示されている。 == 不死身の鬼貫 == 幼い頃から鈴木貫太郎は何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、[[海軍]]に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。 [[二・二六事件]]のときは事件前夜たか夫人と共に駐日[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大使[[ジョセフ・グルー]]の招待を受けて夕食会に出席した後、11時過ぎに[[麹町]]三番町の[[侍従長]]官邸に帰宅した。午前5時頃に[[安藤輝三]][[陸軍大尉]]の指揮する一隊に襲撃される。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。 反乱軍が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねたという。たかは止血の処置をとってから[[宮内大臣]][[湯浅倉平]]に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけてきた。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上([[昭和天皇]]のこと)に申し上げてください」と言った。しかし声を出すたびに傷口から血が溢れ出た<ref>鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んでしまったという風説を生んだ。</ref>。医師とたかで血まみれの鈴木を[[タクシー|円タク]]に押し込み[[日本医科大学]]に運んだが、出血多量で顔面蒼白となり、やがて意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたこと、頭部に入った弾丸は貫通して耳の後ろから出たことが幸いしたが、なによりもたかの機転でとどめが刺されなかったことが鈴木の命を救った。 安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており、面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は[[西郷隆盛]]のような人で懐が大きい」と言い、後に座右の銘にするからと[[書道|書]]を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っていることなどから、一時、決起を思い止まろうとしたとも言われる。後に安藤が処刑されると、鈴木は記者の質問に答えて「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。 == 海軍出の侍従長 == [[1929年]](昭和4年)1月から[[侍従|侍従長]]を務めた。元々彼は海軍の軍人であり、侍従のような仕事は自分には適していない、と思っていた。彼の父・[[鈴木由哲]](為之助)は、[[幕末]]の頃[[老中]]を務めた[[関宿藩]]主[[久世広周]]の家臣だった。 海軍では[[薩摩藩]]出身が優遇されていた。鈴木より後輩の連中がどんどん進級し、旧幕府系の者はその能力に関係なく差別され進級が遅かった。[[1903年]](明治36年)、鈴木が海軍の露骨な差別にうんざりして辞めようとしたとき、「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙が父親から届いた。鈴木はその手紙で辞職を思いとどまり、翌年から始まった日露戦争で駆逐隊司令として戦った。[[日本海海戦]]のときには、ロシアの[[バルチック艦隊]]の残存艦3隻を[[魚雷]]攻撃で撃沈した。そのため[[連合艦隊]]の[[秋山真之]][[参謀]]から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われたくらいである。要するに鈴木は実戦の雄であり、心にもないお世辞を言えない性格のために平時では損をすることが多かった。 鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である[[海軍軍令部#歴代軍令部総長|軍令部長]]よりも侍従長が[[宮中席次]]にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからだ。そういう性格だから天皇の信任は厚かったが、青年将校たちから見れば鈴木は「君側の奸」であり、それ故に命を狙われることになった。しかし、二・二六事件でのたか夫人の懇願と献身によって鈴木は九死に一生を得た。 なお、たか夫人([[足立たか]])は[[東京女子師範学校]]附属幼稚園の教諭であったが、[[東京大学|東京帝国大学]]教授[[菊池大麓]]の推薦により、明治38年から大正4年まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮([[昭和天皇]])、[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]、[[高松宮宣仁親王|高松宮]]の養育に当たっていた。昭和天皇は、侍従長・総理時代の鈴木に、「たかは、どうしておる」、「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言う。<!--また、たか夫人は[[新渡戸稲造|新渡戸]]門下生であり、[[今上天皇]]少年期の家庭教師の[[エリザベス・ヴァイニング]]夫人と同じ[[クエーカー]]派[[クリスチャン]]である。[[昭和天皇]]、[[今上天皇]]と2代にわたり[[クエーカー]]派[[クリスチャン]]の女性が養育、教育に携わったことになる。--><!--貫太郎本人とは無関係 --> == 総理就任 == [[Image:Kantaro Suzuki cabinet.jpg|thumb|250px|[[鈴木貫太郎内閣|鈴木内閣]]。前列中央が鈴木首相、<br/>その右が[[米内光政|米内]]海相、後列左が[[阿南惟幾|阿南]]陸相。]] [[1945年]](昭和20)4月、77歳の鈴木は枢密院議長になっていたが、戦況悪化の責任をとって辞職する[[小磯國昭]]総理の後継者を誰にするか、天皇に誰を推薦するか、それを決める[[重臣会議]]に出席した。構成メンバーは6名の総理経験者と[[内大臣]][[木戸幸一]]、そして鈴木であった。[[若槻禮次郎]]、[[近衛文麿]]、[[岡田啓介]]らは、後継総理に鈴木の名を出した。鈴木は「とんでもない話だ。おことわりする」と言った。しかし、すでに事前に根回しが行われていた。 [[東條英機]]は、[[陸軍]]が本土防衛の主体だから、陸軍の[[畑俊六]][[元帥_(日本)|元帥]]がいい、と言った。そして、陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがあるとも言った。二・二六事件のときの総理で、青年将校たちに狙われた岡田啓介が東條英機をたしなめた。「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか」。このとき、既に[[沖縄本島]]には[[連合軍]]が上陸しており、国内でも[[東京]]を中心とした大都市は、アメリカ軍の[[B-29_(航空機)|B-29]]からの[[焼夷弾]]による絨毯爆撃で大損害を蒙っていた。日本がそこまで追い込まれてきたのは陸軍の責任ではないのかと問われると、東條は反論できずに黙ってしまった。 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、総理として組閣するように命じた。このときのやりとりについては、侍立した侍従長[[藤田尚徳]]の証言(侍従長の回想)がある。あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は言った。命令ではなく、“頼む”から総理をやってくれと言われた人物は、後にも先にもこの鈴木だけであろう。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に“頼む”と言われてはそれ以上辞退はできなかった。天皇の母、[[皇太后]]節子([[貞明皇后]])は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し「どうか陛下の親代わりになって」と語ったともいう。 なお、鈴木は非国会議員から就任した内閣総理大臣としては最後である(その後の首相の[[東久邇宮稔彦王]]、[[幣原喜重郎]]、[[吉田茂]]は[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員であり、1947年に[[日本国憲法]]が施行されて以降は内閣総理大臣は[[国会議員]]から選出されることになった)。 == 終戦工作 == [[Image:Kantaro Suzuki suit.jpg|thumb|200px|内閣総理大臣在任時の鈴木貫太郎]] 鈴木の自覚とは別に、実際には優れた政治的感覚の持ち主であることを証明する出来事が起きた。敵国である[[アメリカ合衆国大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]の死に対する対応である(詳細はエピソードに記す)。 しかし、[[ポツダム宣言]]記者会見を行なった際、新聞記者インタビューにより黙殺するという談話を記事に大きく取り上げられたことは誤算だった。[[1945年]][[7月27日]]にポツダム宣言を日本の新聞に論評抜きで公表したとき、[[7月28日]]の[[読売新聞|讀賣新聞]]で「笑止、対日降伏條件」、[[毎日新聞]]で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと予想以上に大きく取り上げられた。 陸軍の突き上げで、7月28日に本来鈴木は、意見を特に言わない、と言いたかったのだが、記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず'''黙殺'''し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、昭和20年7月29日)と述べ、翌日[[朝日新聞]]で「政府は黙殺」などと報道された。しかし、この「黙殺」は日本の国家代表通信社である[[同盟通信社]]により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、また[[ロイター]]と[[AP通信]]では「reject(拒否)」と誤訳され報道された<ref>このことが[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾の広島]]と[[長崎市への原子爆弾投下|長崎への投下]]という結果となったとする見方も多く(例:終戦を遅らせ原爆を投下させたので鈴木には戦争責任がある、とする2006年8月15日付け読売新聞社説)、鈴木も後々まで発言を後悔したというが、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン大統領]]の日記には原爆投下の決意を7月25日夜に行なったと記されており、鈴木の発言とは関わりがないことがわかる。[[長谷川毅]]「 暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』 </ref>。 8月9日深夜から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)でもポツダム宣言即時受諾の東郷外相説と、条件付受諾の阿南陸相説とで議論が分かれた。10日午前2時頃、鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」という言葉を搾り出した。天皇は涙ながらに、「[[朕]]の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。 なお、終戦の日の早朝、[[佐々木武雄]]陸軍大尉を中心とする国粋主義者達に総理官邸及び[[小石川]]の私邸を襲撃され([[宮城事件]]一連)、警護官に間一髪救い出されている<ref>[http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_441/yurin.html 横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱]</ref>(この襲撃事件は[[岡本喜八]]監督の映画『[[日本のいちばん長い日]]』でも再現されている)。生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木の信条は、「'''軍人は政治に関わるべきではない'''」だった。<!-- 鈴木一の述懐 --> == 年譜 == * [[1868年]](慶応3年) - [[関宿藩]]久世広周の[[和泉国]]の飛び領地(現大阪府[[堺市]][[中区 (堺市)|中区]])にて[[代官]]の子として生まれる * [[1871年]](明治4年) - [[本籍地]]の関宿町(現・千葉県[[野田市]])に転居 * [[1877年]](明治10年) - 父・由哲群馬県庁に就職に伴い前橋市に転居 * [[1878年]](明治11年) - 第一番小学校厩橋学校(現・[[前橋市立桃井小学校]])卒 * [[1883年]](明治16年) - 旧制前橋中学(現・[[群馬県立前橋高等学校]])卒 * [[1883年]](明治16年) - 海軍兵学校受験準備のため、[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]に進む * [[1884年]](明治17年) - 海軍兵学校入校 * [[1887年]](明治20年)[[7月25日]] - 海軍兵学校(14期)卒 * [[1888年]](明治21年) - 任[[海軍少尉]]。日清戦争に従軍。大沼とよと結婚。 * [[1892年]](明治25年)[[12月21日]] - 任[[海軍大尉]]。 * [[1897年]](明治30年)[[3月30日]] - 海大砲術学生。 * [[1898年]](明治31年)[[4月29日]] - 海大甲種学生。 ** [[6月28日]] - 任[[海軍少佐]]。 ** [[12月19日]] - [[海軍大学校]](1期)卒。「春日」乗組。 * [[1901年]](明治34年)[[7月29日]] - [[ドイツ]]駐在(~[[1903年]][[12月30日]])。 * [[1903年]](明治36年)[[9月26日]] - 任[[海軍中佐]]。 * [[1904年]](明治37年) - 日露戦争に第四駆逐隊司令として参加(~[[1905年]])。 * [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - 功三級金鵄勲章受章。 * [[1907年]](明治40年)[[9月28日]] - 任[[海軍大佐]]。 * [[1910年]](明治43年)[[7月25日]] - [[海軍水雷学校]]校長。 * [[1913年]](大正2年)[[5月24日]] - 任[[海軍少将]]。 ** [[8月10日]] - [[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令官。 ** [[12月1日]] - [[海軍省]]人事局長。 * [[1914年]](大正3)[[4月17日]] - [[事務次官等の一覧#海軍次官|海軍次官]](~[[1917年]][[5月31日]])。 * [[1916年]](大正5年)[[4月1日]] - 勲一等旭日大綬章受章。 * [[1917年]](大正6年)[[6月1日]] - 任[[海軍中将]]。 ** [[9月1日]] - [[練習艦隊]]司令官。 * [[1918年]](大正7年)[[12月1日]] - 海軍大学校校長。 * [[1920年]](大正9年)[[12月1日]] - 第二艦隊司令長官。 * [[1921年]](大正10年)[[12月1日]] - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官。 * [[1922年]](大正11年)[[7月27日]] - [[呉鎮守府]]司令長官。 * [[1923年]](大正12年)[[8月3日]] - 任[[海軍大将]]。 * [[1924年]](大正13年)[[1月27日]] - [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官。[[連合艦隊司令長官]](兼任)。 * [[1925年]](大正14年)[[4月15日]] - [[海軍軍令部#歴代軍令部総長|軍令部部長]]。 * [[1929年]](昭和4年)[[1月22日]] - 予備役編入。[[侍従#歴代侍従長|侍従長]]<!-- (軍人初)--><!-- 桂太郎が軍人出身者では初。いずれにしても桂や鈴木は「軍人」ではなく「軍人出身」-->に就任。 ** [[2月14日]]に[[枢密顧問官]]を兼任。 * [[1934年]](昭和9年)[[4月29日]] - 勲一等旭日桐花大綬章受章。 * [[1936年]](昭和11年) - [[二・二六事件]]で襲撃され、頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重傷を負うも奇跡的に回復、九死に一生を得る。 ** [[11月20日]] - 勲功により、男爵を賜る。 * [[1940年]](昭和15年)[[6月24日]] - 枢密院副議長を経て、[[1944年]]に枢密院議長に就任。 * [[1945年]](昭和20年)[[4月7日]] - 組閣の大命を受け、内閣総理大臣となり終戦工作に奔走する。 ** [[4月12日]]にアメリカ大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]が死去。海外向けに哀悼の談話を発表。 ** [[7月28日]]に[[ポツダム宣言]]について記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」<ref>[[毎日新聞]]昭和20年 (1945年) 7月29日</ref>と回答。日本の[[同盟通信社]]で「ignore(無視)」、[[ロイター]]、[[AP通信]]で「reject(拒否)」と訳され配信された。 ** 在任中、[[沖縄本島|沖縄]]が陥落、全国に空襲が続き、[[広島市|広島]]と[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾|原爆]]が投下された。直後に[[ソビエト連邦]]が対日参戦。 ** [[8月14日]]にポツダム宣言受諾を御前会議で決定。 ** [[8月15日]]、[[玉音放送]]のあと内閣総辞職([[東久邇宮内閣|東久邇宮稔彦王内閣]]成立の同月17日まで職務執行)。早朝、佐々木武雄陸軍大尉率いる国粋主義者達の襲撃を受ける。至近の二重橋では近衛師団反乱部隊による閉塞が行われており、もし官邸にいたら危険な状態だった。夫妻は警護官の手により小石川の私邸から脱出し難を逃れる。直後、私邸は佐々木達により焼き払われる。 ** [[12月15日]]に[[平沼騏一郎]]枢密院議長が[[戦争犯罪]]容疑で逮捕されたために、再度枢密院議長となる。 * [[1946年]](昭和21年)[[6月3日]] - [[公職追放令]]の対象となったため、[[清水澄]]副議長に枢密院議長を譲って辞職。 * [[1948年]](昭和23年)[[4月17日]] - 82歳で死去。関宿町(現:野田市)の実相寺に葬られた(遺灰の中に[[二・二六事件]]の時に受けた弾丸が混ざっていた)。 * [[1960年]](昭和35年) - 終戦にかかる功績から従一位を贈位される。 == 系譜・親族 == *'''鈴木氏''':鈴木家に子供が無かったので[[鈴木由哲]]が倉持家から養子入り(倉持家は[[足利氏|足利]]将軍家家臣の[[家柄]]で文書係り)。貫太郎の子、一は農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等をつとめた。[[靖国神社]][[宮司]]を務めた[[鈴木孝雄]][[陸軍大将]]は次弟。[[関東都督府]]外事総長・[[久邇宮]]御用掛の鈴木三郎は三弟。四弟永田茂陸軍中佐は軍務での無理がたたり40代前半で死去(『日本の名家・名門人物系譜騒乱』)。娘のさかえは、[[藤江恵輔]]陸軍大将と結婚した。 <pre> 由哲━━┳ ┣貫太郎━┳ 一 ━┳哲太郎━┳真理絵 ┣孝雄 ┣さかえ ┗道子 ┗由里 ┣よし ┗ミつ子 ┣三郎 ┣君 ┣敬子(永田廉平海軍大尉(彦根藩士永田太郎兵衛正備の子)の妻) ┗茂(黄海海戦で永田廉平大尉戦死の為、永田家へ養子、家督相続) </pre> == エピソード == * 海軍の命令で[[学習院]]に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に[[吉田茂]]がいた。以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「負けっぷりをよくする」などといったことを伝えていたと言われている。 * 枢密院議長をしていた1943年のこと、会議の席で[[嶋田繁太郎]][[海軍大臣]]が[[山本五十六]]の戦死(国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答え方をした。すると、鈴木は'''「俺は帝国の海軍大将だ! その答弁は何であるか!」'''と大声で叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされたという(鈴木は予備役ながら軍籍があった)。 * 鈴木は[[ルーズベルト]][[大統領]]死去の報道を知ると、[[同盟通信社]]の短波放送により、「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。」という談話を世界へ発信している。同じ頃、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]][[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]も敗北寸前だったが、対照的にルーズベルトを罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家[[トーマス・マン]]は、英国[[BBC]]で「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木の[[武士道]]精神を称賛した<ref>[http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog100.html]</ref>。 * [[1918年]](大正7年)、鈴木はアメリカ訪問の際「日米両国は[[太平洋]]を名の通り平和の海にせねばならない。もしどちらかが戦争をするのならたちまち天罰が下るであろう。」とスピーチした。組閣後[[帝国議会]]での演説においてで上記のスピーチをしたことを述べたことが、休戦の意志ありと抗戦派の議員からつっこまれた。([[天罰事件]])鈴木は要領の得ない答弁で相手を煙にまいた。だが、かえって議会は混乱し、すわ倒閣という雰囲気となった。[[閣僚]]は意気消沈し沈痛な雰囲気となった。しかし鈴木は何事もなかったかのよう[[葉巻]]を吹かして[[新聞]]を読んでいた。この姿に閣僚達は「これが、大海戦のさ中に司令長官として船橋に泰然として立っている提督」とたのもしく感じた人もいた。また抗戦派と目された[[阿南惟幾]][[陸軍大臣]]は、この時一言も発言していない。 * 首相官邸で本土決戦を担う[[国民義勇隊]]に支給される武器の展示が行われたときのことである。展示されているのは鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、[[弓 (武器)|弓]]、さす又など、すべて江戸時代のしろものであった。物に動じない鈴木貫太郎も思わず「これはひどいなあ」と嘆声をあげた。 * 組閣当初から鈴木本人は和平派かそれとも和平と戦争継続に揺れ動いていたかは諸説あるが、和平派説の有力な一例として取り上げられるのが1945年6月8日の[[重臣会議]]での出来事である。[[若槻禮次郎]]から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、[[近衛文麿]]は微笑しており若槻が不審に思った。これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、「[[内大臣]]に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」([[志賀直哉]]『鈴木貫太郎』)という若槻の証言が残っている。 * 8月14日の[[御前会議]]終了後、阿南陸相は紙に包んだ葉巻の束を手に「いろいろご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。ですがこれも国と[[陛下]]を思ってのことなのです。これは[[閣下]]がお好きと聞き持参いたしました。」と挨拶にきた。鈴木は「御心配いりません。陛下が常に神をお祭りしていますから。」と告げた。阿南は目に涙を浮かべながら「私も、そう思います。」と言って辞去した。鈴木は、[[内閣書記官長]][[迫水久常]]に「阿南君は暇乞いにきたのだね。」とつぶやいた。その数時間後阿南は[[自決]]した。 * 昭和18年頃、以前校長も経験した[[海軍兵学校]]を訪ね、当時校長だった[[井上成美]]に「井上君、兵学校の教育の効果が現れるのは二十年後だよ、二十年後!」と大声で言い、井上もわが意を得たりと大きく何度も頷いたという。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正しのちに名校長と言われるようになるが、鈴木の言葉を傍らで聞いていた兵学校長付副官は、「井上さんの、「戦後」のために生徒を教育している真意を見透かして、ただこの言葉だけを言いに[[江田島]]まで来たんだと思う」と述べている。 == 著書 == * [[鈴木一]]編 『鈴木貫太郎自伝』([[時事通信社]]、1968年、ISBN 4-788785-19-6) :<人間の記録24>[[日本図書センター]]で復刻再刊。 == 鈴木を演じた主な俳優 == * [[笠智衆]] 「[[日本のいちばん長い日]]」(1967年 東宝) * [[西村晃]] 「歴史の涙」([[東京放送|TBS]]テレビ) * [[森繁久彌]] 「[[そして戦争が終わった]]」(1985年 TBS終戦40年記念ドラマ) * [[芦田伸介]] 「[[2.26事件|226]]」(1989年 [[松竹]]) * [[松方弘樹]] 「[[聖断]]」(2005年 テレビ東京終戦60年記念ドラマ) <!--== 鈴木貫太郎を演じた人物 == * 竹村新 「[[2.26事件|叛乱]]」([[新東宝]]) * [[笠智衆]] 「[[日本のいちばん長い日]]」([[東宝]]) * [[芦田伸介]] 「[[226]]」(東映) * [[森繁久弥]] (TBS系) * [[松方弘樹]] (TV東京系)--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[鈴木貫太郎内閣]] * [[内閣総理大臣]] * [[鈴木孝雄]] * [[関宿藩]] * [[日本のいちばん長い日]] * [[攻玉社中学校・高等学校]] == 参考文献 == * [[半藤一利]]『聖断―天皇と鈴木貫太郎』(PHP研究所、ISBN 4-569629-84-9、PHP文庫 ISBN 4-569-66668-X) :旧版は(文藝春秋、ISBN 4-163399-00-3、文春文庫、ISBN 4-167483-01-7) * [[小堀桂一郎]]『宰相鈴木貫太郎』(文藝春秋、ISBN 4-163374-20-5、文春文庫、ISBN 4-167452-01-4) * 小松茂朗『終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯』(光人社、ISBN 4-769807-32-5) * [[花井等]]『終戦宰相 鈴木貫太郎』([[廣池学園]]出版部、ISBN 4-892054-10-0) * 立石優『鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将』(PHP文庫、ISBN 4-569-57376-2) * [[平川祐弘]]『平和の海と戦いの海』(新潮社 1983年、講談社学術文庫 1993年) * 『鈴木貫太郎伝』 同編纂委員会編 昭和35年(1960年) :[[御厨貴]]監修『歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎』 (ゆまに書房 2006年)で復刻 *「別冊[[歴史読本]]57」 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜騒乱』 新人物往来社 2003年 266-267頁 == 外部リンク == * [http://www.city.noda.chiba.jp/shisetsu/0023.html 鈴木貫太郎記念館] * [http://www.city.noda.chiba.jp/syoukai/kankou/suzuki.html 鈴木貫太郎の墓(実相寺)] * [http://www.exkw.bias.ne.jp/~tabiari/sekiyado.htm 関宿町-鈴木貫太郎を訪ねて] * [http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no101.htm 59回目の8月15日を前に] * [http://www.geocities.jp/torikai007/war/1945/suzuki.html 鈴木貫太郎内閣とポツダム宣言黙殺・終戦] *[http://kingendaikeizu.net/sezima.htm 関連系図] *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/suzukikanntarou.html 国立国会図書館 憲政資料室 鈴木貫太郎関係文書] <!-- この上二行あける --> {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代=[[鈴木貫太郎内閣|42]] |在任期間=1945年 |前代=41 |前首相名=小磯國昭 |次代=43 |次首相名=東久邇宮稔彦王}} {{先代次代|[[連合艦隊司令長官]]|第15代:1924年|[[竹下勇]]|[[岡田啓介]]}} {{先代次代|[[軍令部|海軍軍令部長(軍令部総長)]]|第12代:1925年 - 1929年|[[山下源太郎]]|[[加藤寛治]]}} {{先代次代|[[枢密院 (日本)|枢密院副議長]]|第14代: 1940年 - 1944年|[[原嘉道]]|[[清水澄]]}} {{先代次代|[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]|第20代:1944年 - 1945年<br/>第22代:1945年 - 1946年|[[原嘉道]]<br/>[[平沼騏一郎]]|[[平沼騏一郎]]<br/>[[清水澄]]}} {{先代次代|[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]|第70代:1945年(兼任)|[[重光葵]]|[[東郷茂徳]]}} {{外務大臣}} {{DEFAULTSORT:すすき かんたろう}} [[Category:日本の内閣総理大臣]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:日本の宮内庁関係者]] [[Category:日本の枢密顧問官]] [[Category:日本の海軍軍人]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:第二次世界大戦期の政治家]] [[Category:日本の男爵]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1868年生]] [[Category:1948年没]]