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(ほまれ、当時の表記は)とは航空機メーカーの中島飛行機が開発した2,000馬力級の航空機用空冷星型エンジンである。海軍ではNK9K「誉」と呼称され、陸軍ではハ四五と呼称された。(ハは「発動機」、つまりエンジンのこと)。その高性能から太平洋戦争末期の陸海軍航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。

開発

航空機用空冷星型エンジンは、シリンダーを放射状に配置しているため、大出力化を狙って排気量(=シリンダー容積)を増やすとエンジン外径(=前面投影面積)も大きくなる。このためエンジンが装着される機首部分もそれに応じて大きくなってしまうため、空気抵抗も増大することになる。

そこで、「誉」は、零戦などに使われていた1,000馬力級の二重星型エンジン「」(星形7気筒×2)の外径をなるべく変えずに、2気筒増やした星型9気筒(前後列合計で18気筒)とすることで、前面投影面積は1,000馬力エンジン並でありながら、エンジン出力は2,000馬力を発揮するという小型・軽量と大出力の両立を目指したものである

もともとは、民間会社である中島飛行機が社内名称BA-11の名前で自主開発を計画したことから始まったが、後にそのアイデアが評価され、海軍航空技術廠(通称・空技廠)の全面的なバックアップによる官民合同プロジェクトとなった。

  • 1940(昭和15)年2月、構想開始
  • 1940(昭和15)年9月、設計完了
  • 1941(昭和16)年2月、部品試作完了
  • 1941(昭和16)年3月、エンジン組立完了
  • 1941(昭和16)年3月末、第1次運転および性能運転完了
  • 1941(昭和16)年6月、公式第一次審査終了
  • 1941(昭和16)年6月末、第一次耐久運転終了
  • 1941(昭和16)年8月、公式第二次審査終了
  • 1941(昭和16)年11月、第一回飛行実験開始
  • 1942(昭和17)年12月、大量生産本格化

完成した「誉」の高性能に注目した軍部は、当時開発中の主要軍用機への搭載を決定したが、戦時中の劣悪な生産環境ではその真価を発揮できずに故障が頻発し、搭載機の稼働率を下げるというまったく逆の結果となってしまった。

その高性能から「日本の航空技術が生んだ奇跡の名エンジン」という評価がある一方で、「国情を無視して技術の理想に走り、結果として役に立たなかった欠陥エンジン」という相反する評価がなされている。

戦後、「誉」を調査したアメリカ軍は、「遅すぎた名エンジン(Nice engine too late)」との評価を与えている。

技術

空冷2重星型14気筒エンジンの「栄」(陸軍呼称:ハ25)のボア(シリンダー直径)×ストローク(ピストンの移動距離)は130mm×150mmであり、「誉」は、この「栄」と同一のボア×ストロークで、一気筒あたり100hp、18気筒で合計1,800hpを目標として開発された。栄の1気筒当たりの出力は約80馬力であり、このままでは18気筒化しても約1500馬力にしかならない。このため、圧縮比は、「栄」では7.2であったのに対して、「誉」では、8.0と高められ、クランクシャフト回転数も2750RPMから3000RPMとなった。

星型エンジンの中央部にあるクランクケースは小型化と薄肉化を狙って、従来のアルミ鋳物ではなくクロームモリブデン鋼を鍛造して製作され、壁の厚さはわずか3mmしかなかった。この鍛造クランクケースも「誉」の開発に伴って、新たに実用化されたものである。

冷却方式は、強制空冷ファンなどは使わず、プロペラ気流を直接シリンダーに当てて冷却する一般的なものである。従来の2重星型エンジンでは、コンパクト化のために、前列と後列をなるべく近づけたレイアウトを採用しているが、ベースエンジンの「栄」のシリンダー間隔が150mmであるのに対して、「誉」では220mmと拡げられている。これは、前列と後列を離すことによって、冷却空気の流れを良くして、後列のシリンダーが冷却不足とならないように配慮しているためである。

なお、前列と後列のシリンダーは20度の位相差をもち、前列シリンダーの隙間に後列シリンダーを置くStaggerというレイアウトである

また、空気との接触面積を少しでも増やすため1枚1枚形状の異なる冷却フィン(厚さ1mm)を4mmピッチ間隔で、シリンダーヘッドとシリンダーにビッシリと植え込んでおり、その形状はさながら空冷フィンの極致とでも言うべきものであった。その後、生産性向上のため植え込み式フィンをやめて低圧押湯式鋳造法に改めたが、これも性能低下の一因となった。

このほかのピストンリング、バルブカム、弁ばね、発電機などの部品についても、負荷の増大に対応したサイズが確保できず、耐久不足で破損するといった問題が続発した。また、狭小なスペースに高圧配線を取り回したためにエンジンの発熱で配線が焼けるといった問題も発生し、整備兵は修理に忙殺されることになった。

コンパクト化と弊害

「誉」構想のポイントであるエンジン外径は、ベースとなった「栄」が115cmであるのに対して、「誉」はわずか3cm増しの118cmという極端にコンパクトなサイズにまとめられている。

一方、外径をコンパクト化したことによるしわ寄せは内部の部品に及び、エンジン出力は「栄」の2倍にもかかわらず、クランク軸径は+5mmにしか拡大できなかった。このため、クランク軸に掛かる荷重は30%も増大し、軸受の焼付きが問題となった。この対策として、クランク軸の変形に合わせて軸受の形状を微妙に変える、表面を研磨する、軸受材質を変更する、といった対策が行われたが、品質低下によって根本解決には至らなかった。

同時期の空冷星型18気筒エンジンと比較すると、誉の35.8Lはかなり小さい。これはエンジンの直径を小さくするために1気筒当たりの排気量を増やさなかったためである。星型エンジンではストロークを増やせばそれがエンジン直径の増加に結びつく。2000馬力級のプラット・アンド・ホイットニーR-2800-9の排気量は46Lであった。空冷星型14気筒で1600~2000馬力のBMW 801でも排気量は41.8Lであり、誉が小さな排気量から高出力を絞りだそうとしていたことがわかる。小さな排気量から高出力を出すには回転数を上げ過給圧を上げることになる。当時の空冷星型エンジンのリッター当たり出力の水準は40馬力/L台であり、50馬力/Lを狙った誉は極めて野心的なエンジンだったと言える。

ノッキング対策

高圧縮比化によるノッキング(異常燃焼)対策として、「誉」ではモーター・オクタン価100のハイオクタン・ガソリンの使用が必須であったが、戦時中の劣悪な燃料事情によって、87~91オクタン価のガソリンしか供給できず、「誉」不調の一因となった。

また、不調は燃料ではなく、潤滑油の品質に起因するという説もある。事実、当時の航空用エンジンでは、アメリカから自動車用潤滑油を輸入し、航空エンジンに使用していた。

「誉」には、ノッキング対策として、水とメタノールの混合液を吸気管内に噴射して吸気温度を下げる水メタノール噴射装置が当初から採用されていたが、噴射された水メタノールが9個のシリンダーに均一に分配されず、特定のシリンダーにデトネーション(自着火燃焼)が頻発することになった。デトネーションの頻発により点火プラグの焼損が発生、プラグの不調からさらにエンジンの不調になるという悪循環を招くことになった。

戦況の変化と品質低下

ソロモン海戦以降の大消耗戦では、より一層の大量生産が求められる一方、資源不足も深刻化しつつあった。このため、代用材料の使用や部品製作の簡略化が図られたものの、品質管理の概念がなかったため、粗悪品があふれ、生産現場の混乱を招いただけの結果に終わっている。

さらに、熟練作業者が徴兵されて、生産の主体が未熟練労働者になってしまったことも品質低下の一因となった。但し、元々無理な設計のエンジンというのは技術者の中では初期の頃から知られていた話であり、公称1800馬力であったが、あくまで試作機が試験台の上で出した値であり、量産機は先行量産機のような状態が良いものでも平均1300馬力程度しか発揮できなかったといわれる。従って次期艦上戦闘機烈風のエンジン選定の際に主任設計者であった堀越二郎が誉搭載に反対し続けたのも、この情報を知っていたからだと後年堀越自身が証言している[1]

こうした戦争末期の粗製濫造は、誉本来の性能を低下させただけでなく、搭載航空機の稼働率も著しく低下させる結果を招いた。一例をあげると、昭和20年7月、松山基地の偵察部隊では保有していた艦上偵察機彩雲16機のうち作戦可能機はわずか2機に過ぎず、1機は故障、残りの13機はすべて整備中であった。しかも13機のうち8機までがエンジンの調整に追われていた。

また、エンジンからのオイル漏れを修理するためパッキンを交換したものの、オイル漏れは解消せず、部隊にあった予備パッキンをすべて使い切ってしまった部隊もあった。それでもオイル漏れが止まらなかったため、整備兵がパッキンを検査したところ、すべて規格を外れていたという例さえあった。

内燃機関では、吸排気ポートの形状が性能に大きな影響を与えるが、誉のような高出力化を狙ったエンジンでは特に影響が顕著となる。ところが現実には増産を重視するあまり、鋳造時に型崩れを起こした部品がそのまま出荷されるケースさえ起きていた。

とはいえ、大戦末期の日本軍は多くの航空機に誉を搭載していたことから終戦まで生産が続けられ、良きにつけ悪しきにつけ、大戦末期の日本を象徴するような航空機エンジンと言っても過言ではない。

生産台数

  • 昭和18年(1943):約200基
  • 昭和19年(1944):5400基
  • 昭和20年(1945):3150基

主な搭載機

諸元

誉一一型(ハ45-11型)

  • タイプ:空冷星型複列18気筒(9シリンダ×2列)
  • ボア×ストローク:130mm×150mm
  • 排気量:35,800cc
  • 全長:1,690mm
  • 直径:1,180mm
  • 乾燥重量:830 kg
  • 水メタノール噴射装置付き
  • 過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
  • 離昇馬力 1,800HP/2,900RPM/ +400mmHgブースト
  • 公称馬力 
    • 一速全開 1,650HP/2,900RPM/ +250mmHgブースト (高度2,000m)
    • 二速全開 1,460HP/2,900RPM/ +250mmHgブースト (高度5,700m)

誉二一型(ハ45-21型)

  • 離昇馬力 2,000HP/3,000RPM/ +500mmHgブースト(+550mm Hgブースト説あり)
  • 公称馬力 
    • 一速全開 1,900HP/3,000RPM/ +350mmHgブースト (高度2,000m)
    • 二速全開 1,700HP/3,000RPM/ +350mmHgブースト (高度6,000m)

注記

  1. 堀越二郎・奥宮正武『零戦 日本海軍航空小史』(朝日ソノラマ、1997年改訂新版) ISBN 4257790288 第4部 名機にも強敵続出 第3章 あとを継ぐもの 3 零戦の再来・烈風 p447~p448、またp460~p464

参考文献

社団法人日本機械学会『日本機械学會誌』第85巻 第759号 1982年2月 ISSN 0021-4728 p214~p220
  • 中川良一・水谷総太郎『中島飛行機エンジン史 若い技術者集団の活躍』(酣灯社、1987年増補新装版) ISBN 4873570115
  • 前間孝則『富嶽 米本土を爆撃せよ』上(講談社文庫、1995年) ISBN 4061859129
第三章 奇蹟のエンジン――「誉」 p191~p246
  • 前間孝則『マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ』上(講談社文庫、1996年) ISBN 4062631768
第二章 奇蹟のエンジン「誉」の運命、第三章 「誉」の限界 p95~p222
  • 前間孝則『悲劇の発動機「誉」 天才設計者中川良一の苦闘』(草思社、2007年) ISBN 9784794215130
  • 日本航空学術史編集委員会 編『日本航空学術史 1910-1945』(日本航空学術史編集委員会、1990年)
第4章 戦時中の航空機の整備取扱いの状況について(奥平祿郎)

関連項目