「酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)」の版間の差分

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2009年12月14日 (月) 10:13時点における最新版

凡例
酒井忠勝
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時代安土桃山時代後期から江戸時代前期
生誕文禄3年(1594年
死没正保4年10月17日1647年11月13日
改名
別名小五郎
諡号
神号
戒名
霊名
墓所山形県鶴岡市
官位従四位下 宮内大輔
幕府
主君徳川秀忠家光
越後国高田藩主→信濃国松代藩
出羽国庄内藩
氏族酒井氏(左衛門尉系)
父母父:酒井家次
母:榊原政吉の娘
兄弟酒井直次酒井忠重酒井勝吉
酒井了次酒井忠時酒井政時
正室:鳥居忠政の娘
酒井忠当酒井忠俊酒井忠恒
酒井忠貫、酒井忠盛、酒井忠直
酒井忠解、酒井忠興、山名恒豊
娘(伊達宗純正室)、娘(溝口重雄継室)
娘(松平忠利正室のち滝川具孝室)
特記
事項
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酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、江戸時代初期の大名である。

生涯[編集]

文禄3年(1594年)、酒井家次の長男として生まれる。元服した際には主君徳川秀忠より諱の一字を拝領し、忠勝と名乗った。

慶長14年(1609年)1月23日、宮内大輔に任じられる。元和4年(1618年)3月、父・家次の死去により24歳で家督を相続した。しかし、相続後間もない元和5年(1619年)3月に越後高田藩10万石から信濃松代藩10万石に移封されている。それから3年後の元和8年(1622年)6月7日に最上義俊が改易されたのに伴い、出羽庄内藩13万8千石[1]に加増され、移封された。

庄内に入部後は交通の要衝酒田の亀ヶ崎城にかわり、大宝寺氏が拠点としていた鶴ヶ岡城を居城と定めている。しかし、亀ヶ崎城も存続を許され、小藩としては異例のとなる二城を持つことになった。忠勝は居城とした鶴ヶ岡城の整備に努めたが、完成するのは孫の忠義の代となった。

入部直後の検地では表高よりも実高を大幅に増やすことに成功した反面、過酷な徴税につながり、鶴ヶ岡城の普請などもあり領民の逃散につながっている。特に寛永11年(1634年)には遊佐郷の大肝煎であった高橋太郎左衛門が幕府に直訴しており、藩政は揺らぐ一方であった。

忠勝晩年の寛永19年(1642年)となって、改易され忠勝に預けられていた弟の忠重が忠勝に嫡男忠当を廃嫡させ、忠重の子忠広に庄内藩を継承させようとする酒井長門守一件が起きている。この時、筆頭家老高力喜兵衛らを追放されており、忠当も廃嫡されかかっている。しかし、廃嫡となる前の正保4年(1647年)10月17日に、忠勝が死去した為、幕府老中松平信綱の裁定により、忠当が家督を相続している。

注釈[編集]

  1. 入部後に忠勝の弟直次の遺領を編入するなどして、最終的には14万石となっている。

出典[編集]

先代:
酒井家次
酒井氏(高田藩2代)藩主
1618年 - 1619年
次代:
松平忠昌
先代:
松平忠昌
酒井氏(松代藩)藩主
1619年 - 1622年
次代:
真田信之
先代:
-
酒井氏(庄内藩初代)藩主
1622年 - 1647年
次代:
酒井忠当