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2009年11月29日 (日) 20:49時点における版
鳩山 一郎 (はとやま いちろう)
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在任期間 | 1954年12月10日 - 1956年12月23日 |
生没年月日 | 1883年1月1日 |
出生地 | 東京府東京市牛込区 |
出身校 | 東京帝国大学 |
学位・資格 | 正二位大勲位 法学士・弁護士 |
前職 | 衆議院議員 日本民主党総裁 |
世襲の有無 | 家族・親族参照 |
選挙区 | 東京1区 |
当選回数 | 衆15回 |
党派 | 日本民主党 →自民党 |
花押 | |
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位大勲位。
1912年に東京市会議員に当選、1915年に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。1954-1956年に首相を務めた。首相在任中、保守合同を成し遂げ自由民主党の初代総裁となり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦の国交回復を実現した。
経歴
- 1883年(明治16年) 東京市牛込区東五軒町に出生。父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府議会議員。母・春子は東京女子師範学校の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立
- 1895年(明治28年) 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業
- 1900年(明治33年) 高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
- 1903年(明治36年) 旧制第一高等学校卒業
- 1907年(明治40年) 東京帝国大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める
- 1908年(明治41年) 右翼団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚
- 1911年(明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京弁護士会会長)
- 1912年(大正元年) 父の補欠選挙で東京市会議員に初当選
- 1915年(大正4年) 立憲政友会公認で衆議院議員に当選
- 1924年(大正13年) 政友会分裂に伴い、政友本党に参加
- 1925年(大正14年) 政友本党を離党、翌年に同交会を経て政友会に復党
- 1927年(昭和2年) 田中義一内閣の内閣書記官長(1929年まで)
- 1931年(昭和6年) 犬養毅内閣の文部大臣。五・一五事件後、斎藤実内閣で引き続き文部大臣(1934年まで)
- 1933年(昭和8年) 文部大臣として滝川事件に関与。
- 1934年(昭和9年) 帝人事件で汚職の疑いをかけられ辞職(斎藤内閣も後に総辞職)
- 1937年(昭和12年) 中島知久平・前田米蔵・島田俊雄とともに政友会総裁代行委員に就任する
- 1939年(昭和14年) 政友会の分裂に伴い、正統派に所属する
- 1942年(昭和17年) 翼賛選挙に非推薦で出馬、無所属で当選
- 1943年(昭和18年) 東條内閣を批判し、軽井沢へ隠遁
- 1945年(昭和20年) 終戦後軽井沢から上京、日本自由党結成(総裁)
- 1946年(昭和21年) 総選挙で日本自由党が第一党になるが公職追放の措置を受ける
- 1951年(昭和26年) 脳出血で倒れる、追放解除
- 1954年(昭和29年) 日本民主党結成(総裁)、総理大臣になる
- 1955年(昭和30年) 保守合同で自民党結成(55年体制を参照)
- 1955年11月22日-1956年12月23日 第3次鳩山一郎内閣
- 1956年(昭和31年) モスクワで日ソ共同宣言(日ソ国交回復)、総辞職
- 1959年(昭和34年) 逝去。墓所は東京都台東区の谷中霊園。大勲位菊花大綬章が没後受勲された。
戦前の事績
戦前は立憲政友会の議員として活躍(ただし、一時期政友本党に参加していた時期がある)し、1930年、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった(なお、狙撃事件後傷の癒えぬ濱口に執拗な登院要求を行った。濱口は登院の5ヶ月後に死去している)。統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱めるものであった為、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。鳩山は対立する立憲民政党政府を苦しめることを企図したようだが、議員としては政争に明け暮れて大局を見失っていたことになる。また、この時期の政友会は田中義一・鈴木喜三郎の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまった事になる。この事は戦後になりGHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。
鳩山は犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣を務めたが、1932年に義兄の鈴木が犬養の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。1933年の京都帝国大学の滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川教授を休職処分にした。このことは戦後になって反対派の批判材料とされたが、立場上やむをえなかったという見方もある。
樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ、辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院の平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。
帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。
1936年の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大きな顰蹙を買う。特に軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。1939年の政友会分裂に対しては中島知久平を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ自由主義的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。1940年に鳩山は民政党総裁の町田忠治と極秘に正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。
1942年の翼賛選挙に際して、自由主義政党人として、議会制民主主義を守る立場から反対した。1943年の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会。その後は軽井沢で隠遁生活を送った。引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機首相の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。
首相としての事績
第二次世界大戦終結後、1946年の総選挙で自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、公職追放(1946年)となる(軍国主義台頭に協力したとの理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)[1] 。また追放解除を目前に脳梗塞で倒れた(1951年)。
首相の座を目前にしての追放、病気と不運な状態が続いたことから世間の同情を集めることになった。貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後、首相になると(1954-1956年)、鳩山ブームを起こした。
首相在任中、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより保守勢力と革新(この時点では社会主義)勢力を軸とした55年体制が確立された。また、吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案であった日ソ国交回復を成し遂げた。
日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。
1956年の日ソ共同宣言により国交を回復した後に内閣総辞職、政界を引退した。その後、友愛青年同志会[2]を育成するほかは、療養生活を送り、1959年に亡くなった。
逸話
- 文京区音羽の自邸、通称「音羽御殿」は、高等師範学校附属中学時代からの友人で建築家の岡田信一郎による設計。現在は鳩山会館として一般に公開されている。
- 文部大臣時代の1933年、聾学校での手話教育を口話教育に転換させた。
- 鳩山が結婚前に薫に宛てたラブレターは本にまとめられて『若き血の清く燃えて』(講談社、1996年)として刊行されている。
- 教育者の家庭に育ち、政治家としてはアクの強さに欠ける面があったようだが、盟友の大野伴睦や三木武吉らに支えられ、政党政治家として筋を通した。
- お坊ちゃん育ちのせいか、時折気に入らない事があると同志や家族に向けて癇癪を起こす事があり、妻の薫に対しても暴力を振るう事があった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るう事があっても同志の方にそのような振舞いをしてはいけません」と言って夫を諭した。後に脳梗塞で倒れても以前の薫の教えを守っていたために同志達が離れる事も無く、以後鳩山は妻を非常に大切にするようになったのだと言う。孫の邦夫の幼時の回想では癇癪を起こした際にとりなす役目も薫がしていた。
- 分派政党に作っては合流といったことを繰り返したため、緒方竹虎から「出たり入ったり、また出たり」と皮肉を言われた。
- クリスチャンであった。
- 1955年3月、東京でフリーメーソンに加入。
- 戦後、青森へ遊説に行くため、上野で汽車に乗ろうとすると、車両が中華民国人に占拠され、車両を出て行こうとしない老人が殴られるのを目撃した。青森から東京に戻る際には、朝鮮人が列車を占拠しようとしたが、駅長が拒否するという事件にあった。「自衛隊はこういうことが起こらないために必要だ」と述べている。
- 大の甘党で赤飯に砂糖をかけて食べたという逸話がある。
- バラの花を好み、総理在任中も休日には「とどろきばらえん」(東京都世田谷区)を訪れ、バラを鑑賞し、苗木を購入、自宅の庭に植えさせている。余生もバラ栽培に没頭した。
- プロスポーツにも造詣深く読売ジャイアンツ後援会会長務め、更にプロボクサー田中敏朗を公私に渡り可愛がった
家族・親族
- 実家
- 祖父:博房(美作勝山藩士)
- 父:和夫(弁護士、代議士、衆議院議長)
- 母:春子(信州松本藩士・渡辺努(明治になって多加に改姓)の長女、教育者、共立女子学園の創立者のひとり)
- 姉:カヅ(政友会総裁・鈴木喜三郎に嫁ぐ)
- 弟:秀夫(民法学者、嫁は数学者・菊池大麓の次女・千代子。息子道夫はソニー常務取締役兼中央研究所所長。)。
- 自家
系譜
- 鳩山家
著書
- 『鳩山一郎・薫日記』上・下(伊藤隆、季武嘉也編 、中央公論新社、1999年・2005年)
- 『鳩山一郎回顧録』(文芸春秋新社 1957年)口述筆記
- 『私の自叙伝』(改造社、1951年)
- 『私の信条』(東京文庫、1951年)、ほか著書は戦前に複数刊行。
参考文献
- 宮崎吉政『鳩山一郎』<日本宰相列伝19> (時事通信社、1989年)
- 堀徹男 『さようなら、みなさん! 鳩山日ソ交渉五十年目の真相』(木本書店、2007年)
- 豊田穣『英才の家系 鳩山一郎と鳩山家の人々』(講談社1990年、講談社文庫、1996年) ISBN 4-06-263447-3
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 165-168頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 45-60頁
脚注
- ↑ かつての著作『外遊日記 世界の顔』(1938年)がヒトラー礼賛本とされ、公職追放の一因になったと言われるが、特にファシズム礼賛という内容ではない。また実際には鳩山ではなく評論家の山浦貰一がゴーストライターとして執筆したと言われている。
- ↑ 鳩山はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの友愛思想に感銘を受け、カレルギーの著作『Totalitarian State against Man』を『自由と人生』(1952年)と題して自ら翻訳出版日本友愛青年協会の沿革。翌1953年に友愛青年同志会を結成した(現・財団法人日本友愛青年協会)。
関連項目
- 第1次鳩山一郎内閣
- 第2次鳩山一郎内閣
- 第3次鳩山一郎内閣
- 保守合同
- 鳩山会館
- 共立女子大学-母春子が創立者の一員で、夫人薫が理事長だった。
- 渡邉暁雄 - 指揮者、娘婿
- 肥後亨 - 背番号候補事件で名高い政治ゴロ、元書生
外部リンク
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第52・53・54代:1954年 - 1956年
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次代: |
先代: | 文部大臣 第40代:1931年 - 1934年
|
次代: 齋藤實(兼任)
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先代: | 内閣書記官長 第28代:1927年 - 1929年
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次代: |
党職 | ||
先代: 結成
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自由民主党総裁 初代 : 1956年
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次代: |
先代: 結成
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日本民主党総裁 初代 : 1954年 - 1955年
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次代: |
先代: 結成
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日本自由党総裁 初代 : 1945年 - 1946年
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次代: |
先代: 鈴木喜三郎(総裁)
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立憲政友会総裁代行委員 1937年 - 1939年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第51代 吉田茂 |
第52・53・54代 1954年 - 1956年 |
第55代 石橋湛山 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
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