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==経歴== | ==経歴== | ||
− | + | [[文政]]9年(1826)2月14日、[[下谷]][[池之端|池の端]]茅町に、幕臣・[[久野玄三]]の次男として生まれる。幼名を'''正三'''といい、のち'''尹哲'''と改めた。{{Sfn|竹内|1912|p=1}} | |
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江戸幕府の役人としては[[御小納戸]]御召方役をつとめ、[[徳川家達|徳川亀之助]]にも勤仕した{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。 | 江戸幕府の役人としては[[御小納戸]]御召方役をつとめ、[[徳川家達|徳川亀之助]]にも勤仕した{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。 | ||
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その後は[[佐野量丸]]の門下となった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。 | その後は[[佐野量丸]]の門下となった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。 | ||
− | [[明治維新]]の後は[[東京府]]出仕となり、後に戸長職を務めた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。 | + | [[明治維新]]の後は[[東京府]]出仕となり、後に戸長職を務めた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。[[神田区|神田]]および[[日本橋区|日本橋]]の区長となったことがあった{{Sfn|村居|1937}}。 |
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+ | 東京・[[神田猿楽町|神田猿楽町]]の[[独逸協会学校]]の前{{Sfn|読売新聞|1901|p=によると、1901年頃の住所は、神田区仲猿楽町。}}に住み、各所へ出張、教導{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。東京の[[青梅市|青梅]]地方や八王子、相原方面([[相模原市]])へも出張して門下を増やし、淘宮術を普及させた{{Sfn|鈴木|1966|p=9}}。 | ||
吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、[[華族]]や富豪の信者・支援者も多かった{{Sfn|西川|1914|p=126}}。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。 | 吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、[[華族]]や富豪の信者・支援者も多かった{{Sfn|西川|1914|p=126}}。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった{{Sfn|鈴木|1966|p=7}}。 | ||
+ | *門弟は1万数千人に上り、皆伝を受けた者は[[桑島光品]]、[[岡田寛]]、[[永井直晴]]など10数人に達した{{Sfn|竹内|1912|p=1}}。 | ||
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吉川 尹哲(よしかわ いんてつ、1826年 - 1909年)は、宗教活動家、淘宮術の指導者。はじめ淘宮術の創始者・横山丸三に、横山の死去後は佐野量丸に師事。江戸時代末期の幕臣で、明治維新後は東京府に出仕し、のち戸長職をつとめ、神田区長、日本橋区長を歴任した。1881年に戸長を辞職し、1882年、淘宮術の免許皆伝を受け、淡々斎一元(たんたんさいいちげん)と号した。1885年に教導職試補に任じられ、のち大教正に昇進。3代目の指導者として各地へ出張して門弟を増やし、淘宮術の普及に努めた。
経歴[編集]
文政9年(1826)2月14日、下谷池の端茅町に、幕臣・久野玄三の次男として生まれる。幼名を正三といい、のち尹哲と改めた。[1]
11歳の時、吉川家の養嗣子となった[1]。
淘宮術の開祖・横山丸三の縁故者でもあり[2]、弘化元年(1844)12月に横山の門下に入った[1]。
江戸幕府の役人としては御小納戸御召方役をつとめ、徳川亀之助にも勤仕した[2]。
嘉永元年(1848)、幕府が横山の淘宮講義の集会を禁止し[2]、安政元年(1854)に横山が死去[3][4]。
明治維新の後は東京府出仕となり、後に戸長職を務めた[2]。神田および日本橋の区長となったことがあった[6]。
1881年(明治14)に戸長を辞職[2]。
1882年(明治15)5月30日に佐野から「天源十二宮」の皆伝を受け、「淡々斎一元」と号した[1]。3代目の指導者として、淘宮術の教導・普及につとめた[7]。
1885年(明治18)4月、教導職試補に任じられ、その後、昇進して大教正となった[1]。
東京・神田猿楽町の独逸協会学校の前[8]に住み、各所へ出張、教導[9]。東京の青梅地方や八王子、相原方面(相模原市)へも出張して門下を増やし、淘宮術を普及させた[2]。
吉川は、佐野に比肩するほど多くの門弟を抱え、華族や富豪の信者・支援者も多かった[10]。佐野や吉川の教導・指導によって、淘宮術は明治中期に信奉者を増やし、全国的にブームとなった[9]。
- 門弟は1万数千人に上り、皆伝を受けた者は桑島光品、岡田寛、永井直晴など10数人に達した[1]。
- 相沢菊太郎は吉川の直弟子だった[9]。
- 1905年(明治38)頃、村居銕城は巌六平と池田甚吉の手引きで半年ほどその社中となったことがあった[6]。
74歳の頃、病気を患ったが、その後も淘宮術の淘話を続けた[11]。
1909年(明治42)3月、娘・福子が東京美術学校の卒業生・久野亀之助と婚約[12]。
同年9月上旬頃、首のあたりに瘍(できもの)ができ、順天堂医院に入院して切開手術を受けたが、治癒せず、同月29日に死去[13][14]。行年84歳[13]。下谷区谷中坂町の上聖寺に埋葬された[6]。法号:蓮華院一元日哲居士[6]。養嗣子の吉川留男が後を継いだ[10][15]。
西川 (1914 128-129)は、吉川の弟子だった竹内師水は、1912年に吉川の淘話を筆記して『一元先生の淘話』(竹内 1912 )として刊行し、秘密を漏洩したとして吉川に破門された、としている。
- 同書は、吉川が1912年(明治45)9月に病没した、としているが、読売新聞 (1909b )によると、吉川は1909年10月5日より少し前に死去している。
著作物[編集]
- 竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、NDLJP 949211
附録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 竹内 1912 1
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 鈴木 1966 9
- ↑ 大井 1868 20
- ↑ 井上 1896 228
- ↑ 西川 1914 125
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 村居 1937
- ↑ 鈴木 1966 7,9
- ↑ 読売新聞 1901 によると、1901年頃の住所は、神田区仲猿楽町。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 鈴木 1966 7
- ↑ 10.0 10.1 西川 1914 126
- ↑ 竹内 1912 4-5
- ↑ 読売新聞 1909a 同月29日に大神宮にて挙式予定とされている。
- ↑ 13.0 13.1 竹内 1912 6
- ↑ 読売新聞 1909b に、会葬への参加のお礼を載せている。
- ↑ 西川 1914 126は、留男について「不肖にして徒らに様に依りて胡蘆を画くに過ぎず(愚かで、ただ形はそれらしくしているが、先例主義で独創性がなかった)」と評している。
参考文献[編集]
- 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
- 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
- 読売新聞 (1901) 「[広告]近火御見舞い御礼/神田区 吉川尹哲」『読売新聞』1901年12月8日 朝刊 p.6
- 読売新聞 (1909a) 「結婚」『読売新聞』1909年3月18日 朝刊 社会 p.3
- 読売新聞 (1909b) 「[広告]訃報 大教正 吉川尹哲/男 吉川留男」『読売新聞』1909年10月5日 朝刊 p.4
- 竹内 (1912) 竹内師水「吉川一元先生略伝」竹内師水(竹内勝太郎)(編)『一元先生の淘話 附 天源十二宮詳解』永楽堂、1912・大正元、pp.1-6、NDLJP 949211/10
- 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、大正3、NDLJP 908681/70
- 村居 (1937) 村居銕城「吉川尹哲先生」『明治大正 実話稿 附感恩録・智友録』村居銕次郎、p.127、NDLJP 1026490/78
- 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、pp.7-9、NDLJP 2985880/8