「七代目 林屋正蔵」の版間の差分

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[[1894年]](明治27年)3月31日、東京の三ノ輪で生まれる。風呂桶職人として働き、素人の[[天狗連]](アマチュアの芸人)で新内や落語を語っていた。天狗連は寄席より安い料金で、庶民が楽しめた<ref name=zensyu7>保田武宏(1982)『名人名演 落語全集 第7巻』立風書房</ref>
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===生い立ち===
[[1920年]](大正9年)、26歳で二代目 柳家三語楼に弟子入りし、柳家三平を名乗った。初高座は立花亭。天狗連で下地ができていたため、4年後の[[1924年]](大正13年)3月に七代目柳家小三治を襲名し真打に昇進した。以後、三語楼門下の重鎮として活躍した。師匠三語楼が東京落語協会(現[[落語協会]])を脱会したため、協会側の四代目柳家小さん一門から「小三治の名前は小さん一門のものだから返せ」と要求された。七代目柳家小三治が断ると、四代目柳家小さんは一門の柳家こゑんに「[[八代目柳家小三治]]」を1929年(昭和4年)3月に襲名させた。小三治が二人できたため、[[五代目柳亭左楽]]を仲介として六代目遺族から名跡を譲り受けて、[[1930年]](昭和5年)2月に七代目 林屋正蔵を襲名した<ref name=zensyu7></ref>。
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金語楼、[[春風亭柳橋]]らと[[芸術協会]]を結成し理事長となる。その後、1934年に東宝名人会の専属となる。戦後も三代目金馬とともに東宝専属として残り、長男の海老名栄三郎を林家甘蔵の名で当方の前座とさせた。[[青森県]]の興行で現地の風土病に罹患し、1949年(昭和26年)10月26日、東京・下谷病院で55歳の若さで亡くなった。
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===落語家へ===
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[[1920年]](大正9年)、26歳で落語研究家の今村信雄氏の紹介で、二代目 柳家三語楼に弟子入りし、柳家三平を名乗った。初高座は立花亭。天狗連で下地ができていたため、4年後の[[1924年]](大正13年)3月に七代目柳家小三治を襲名し真打に昇進した。以後、三語楼門下の重鎮として活躍した。
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===名跡===
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師匠三語楼が東京落語協会(現[[落語協会]])を脱会したため、協会側の四代目柳家小さん一門から「小三治の名前は小さん一門のものだから返せ」と要求された。七代目柳家小三治が断ると、四代目柳家小さんは一門の柳家こゑんに「[[八代目柳家小三治]]」を1929年(昭和4年)3月に襲名させた。小三治が二人できたため、[[五代目柳亭左楽]]を仲介として六代目遺族から名跡を譲り受けて、[[1930年]](昭和5年)2月に七代目 林屋正蔵を襲名した<ref name=zensyu7></ref>。
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金語楼、[[春風亭柳橋]]らと[[芸術協会]]を結成し理事長となる。その後、1934年に東宝名人会の専属となる。
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===戦後===
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戦後も三代目金馬とともに東宝専属として残り、長男の海老名栄三郎を林家甘蔵の名で当方の前座とさせた。[[青森県]]の興行で現地の風土病に罹患し、1949年(昭和26年)10月26日、東京・下谷病院で55歳の若さで肝臓炎症により亡くなった。墓所は足立区の[[常福寺]]。戒名は正恵院釈讃良意居士。
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==芸風==
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*頭のてっぺんから発するかの奇声で、「林家正蔵です。ドウモスミマセン」と言うのがキャッチフレーズであった。
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*極度の近眼であるが、高座では眼鏡をかけていない。往来で声をかけてきた自分の細君に「どちらの奥様で?」と尋ねたエピソードがある。
  
 
==得意演目==
 
==得意演目==

2021年11月11日 (木) 10:56時点における版

七代目 林屋正蔵(ななだいめ はやしやしょうぞう, 1894年3月31日 – 1949年10月26日)は東京の三ノ輪出身の落語家である。本名は「海老名竹三郎」である。師匠は柳家三語楼

概要

生い立ち

1894年(明治27年)3月31日、東京の三ノ輪で蔵屋(角風呂専門の製造業)の四男として生まれる。風呂桶職人として働き、素人の天狗連(アマチュアの芸人)で新内や落語を語っていた。天狗連は寄席より安い料金で、庶民が楽しめた[1]。若いころから、落語と油絵が上手いため、どちらで身を立てるか考えていた。

落語家へ

1920年(大正9年)、26歳で落語研究家の今村信雄氏の紹介で、二代目 柳家三語楼に弟子入りし、柳家三平を名乗った。初高座は立花亭。天狗連で下地ができていたため、4年後の1924年(大正13年)3月に七代目柳家小三治を襲名し真打に昇進した。以後、三語楼門下の重鎮として活躍した。

名跡

師匠三語楼が東京落語協会(現落語協会)を脱会したため、協会側の四代目柳家小さん一門から「小三治の名前は小さん一門のものだから返せ」と要求された。七代目柳家小三治が断ると、四代目柳家小さんは一門の柳家こゑんに「八代目柳家小三治」を1929年(昭和4年)3月に襲名させた。小三治が二人できたため、五代目柳亭左楽を仲介として六代目遺族から名跡を譲り受けて、1930年(昭和5年)2月に七代目 林屋正蔵を襲名した[1]。 金語楼、春風亭柳橋らと芸術協会を結成し理事長となる。その後、1934年に東宝名人会の専属となる。

戦後

戦後も三代目金馬とともに東宝専属として残り、長男の海老名栄三郎を林家甘蔵の名で当方の前座とさせた。青森県の興行で現地の風土病に罹患し、1949年(昭和26年)10月26日、東京・下谷病院で55歳の若さで肝臓炎症により亡くなった。墓所は足立区の常福寺。戒名は正恵院釈讃良意居士。

芸風

  • 頭のてっぺんから発するかの奇声で、「林家正蔵です。ドウモスミマセン」と言うのがキャッチフレーズであった。
  • 極度の近眼であるが、高座では眼鏡をかけていない。往来で声をかけてきた自分の細君に「どちらの奥様で?」と尋ねたエピソードがある。

得意演目

  • 『源平』
  • 『相撲風景』
  • 『反対車』
  • 『素人鰻』

弟子

家族

  • 林家 三平(初代)(落語家), 長男
  • 海老名 美どり(タレント), 孫
  • 泰葉(歌手), 孫
  • 林家 正蔵(9代目)(落語家), 孫
  • 林家 三平(2代目)(落語家) ,孫

参考文献

  1. 1.0 1.1 保田武宏(1982)『名人名演 落語全集 第7巻』立風書房