「日本占領時期死難人民記念碑」の版間の差分

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{{infobox military memorial
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[[ファイル:Singapore Civilian-War-Memorial-01.jpg|thumb|the Civilian War Memorial]]
|name=日本占領時期死難人民記念碑
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'''日本占領時期死難人民記念碑'''(にほんせんりょうじきしなんじんみんきねんひ)、一般に{{lang-en|'''the Civilian War Memorial'''}}(市民戦没者記念碑)は、[[シンガポール]]・{{仮リンク|ダウンタウン・コア|en|Downtown Core}}の{{仮リンク|戦争記念公園 (シンガポール)|label=戦争記念公園|en|War Memorial Park, Singapore}}にある高さ222フィート(約68メートル)の[[慰霊塔]]。[[1967年]]に、{{仮リンク|シンガポール中華総商会|en|Singapore Chinese Chamber of Commerce and Industry}}が中心となって、1960年代初めにシンガポール島内で発掘された[[シンガポール華僑粛清事件|華僑粛清]]の犠牲者の遺骨を納め、1942年2月から1945年8月の日本軍占領時期に殺害された無辜(むこ)の市民を追悼するために建てられた。日本語文献では[[血債問題]]との関連から'''血債の塔'''とも呼ばれる。
|native_name={{lang-en|The Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation}}<br>{{lang-zh|日本佔领时期死难人民纪念碑}}<br>{{lang-ms|Tugu Peringatan Bagi Mangsa Awam Pemerintahan Jepun}}
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'''日本占領時期死難人民記念碑'''(にほんせんりょうじきしなんじんみんきねんひ)、一般に{{lang-en|'''the Civilian War Memorial'''}}(市民戦没者記念碑)は、[[シンガポール]]・{{仮リンク|ダウンタウン・コア|en|Downtown Core}}の{{仮リンク|戦争記念公園 (シンガポール)|label=戦争記念公園|en|War Memorial Park, Singapore}}にある高さ約68メートルの[[慰霊塔]]。[[1967年]]に、{{仮リンク|シンガポール中華総商会|en|Singapore Chinese Chamber of Commerce and Industry}}が中心となって、1960年代初めにシンガポール島内で発掘された[[シンガポール華僑粛清事件|華僑粛清]]の犠牲者の遺骨を納め、1942年2月から1945年8月の日本軍占領時期に殺害された無辜(むこ)の市民を追悼するために建てられた。日本語文献では[[血債問題]]との関連から'''血債の塔'''とも呼ばれる。 「チョップスティックス(箸)」の愛称がある。<ref>この記事の主な出典は、{{Harvtxt|岩崎|2013|pp=52-53}}、{{Harvtxt|林|2007|pp=14-16,162-166,235-242}}、{{Harvtxt|篠崎|1978|pp=80-82}}、{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-106}}および{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=220-223}}。</ref>
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== 建立 ==
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== 遺骨の発掘 ==
<!-- {{see also|血債問題}} -->
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{{Main|血債問題}}
1961年の暮れから翌1962年1月にかけて、[[シンガポール]]の東海岸一帯で日本が占領直後に行った[[シンガポール華僑粛清事件|中国人粛清]]の犠牲者の遺骨とみられる大量の白骨が出土したことをきっかけに、{{仮リンク|シンガポール中華総商会|en|Singapore Chinese Chamber of Commerce and Industry}}は「'''日本占領時期死難人民遺骸善後委員会'''」を組織してシンガポール全島で遺骨の発掘調査を行い、遺骨を埋葬して慰霊碑を建設することになった{{Sfn|岩崎|2013|pp=52-53}}{{Sfn|林|2007|pp=163,236}}{{Sfn|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-102}}{{Sfn|南洋商報|1962-03-01}}。
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1961年の暮れから翌1962年1月にかけて、大規模な宅地造成工事が行われていた[[シンガポール]]{{仮リンク|東海岸路 (シンガポール)|label=イースト・コースト|en|East Coast Road, Singapore}}7.5マイルの「シグラップの谷」と呼ばれる場所で、大量の遺骨が出土し、日本がシンガポール占領直後に行った[[シンガポール華僑粛清事件|中国人粛清]]の犠牲者として新聞で連日報道された{{Sfn|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-102}}。
  
1963年3月には「'''日本占領時期死難人民記念碑募捐委員会'''」が結成され、記念碑建設のための募金が始められた{{Sfn||2007|p=236}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}では、[[シンガポール華僑粛清事件]]の被害者遺族を中心とした[[集体鳴冤委員会]]の発議に基づいて建てられた、としている。</ref>。同年4月にシンガポールで行われた募金運動の開会式では、[[リー・クアンユー]]首相が演説をした<ref>{{Harvtxt|林|2007|p=240}}。「法律的には、[[サンフランシスコ条約]]で、すべては解決されており、過去のことはみな忘れるべきだとの議論もあろう。しかしその解決は、人民を代表せず、侵略者がわれわれに加えた残虐と屈辱に対する我々の感情の深さを理解しない植民地政府によって行われたのである。この問題に関する我々の感情は非常に強いので、日本から真に遺憾の意を表わす適切なるジェスチャーが示されるべきと考える。」(リー・クアンユー、1963年4月21日、募金運動の開会式で)。(同)</ref>
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{{仮リンク|シンガポール中華総商会|en|Singapore Chinese Chamber of Commerce and Industry}}は、1962年1月31日に「日本占領時期死難人民遺骸善後委員会」を組織して、埋葬地点の情報を集めて遺骨の発掘調査をシンガポール全島で展開{{Sfn|高嶋|1987|pp=21-22}}{{Sfn|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-102}}。1965年までの第1次発掘で、遺骨収容容器155個分の遺骨が集められた{{Sfn|高嶋|1987|p=22}}{{Sfn|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-102。同書は、遺骨の発掘は1962年いっぱい継続された、としている。}}。
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*うち1個分については氏名が判明したため、遺骨は遺族に引き渡され、また別の容器1個分の遺骨は英国兵のものであることが明らかだったため、[[英軍]]に引き渡された{{Sfn|高嶋|1987|p=22}}{{Sfn|林|2007|p=163}}。
  
1966年3月に慰霊塔の建設工事が開始され、建設途中の1966年11月に、島内35ヵ所から発掘・収集された遺骸を納めた甕607甕のうち、身元が判明した2甕を除いて605甕が台座の下に収められた<ref>{{Harvtxt|林|2007|pp=163,236}}。1甕分は軍人の遺骨であることが判明して英軍に引き渡され、1甕分は身元が判明して遺族に引き渡された({{Harvnb|林|2007|p=163}})</ref>
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1962年2月28日に中華総商会はシンガポール政府に対日賠償要求交渉を進めるよう要請することを決議{{Sfn|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-102}}。同年3月15日に[[リー・クアンユー]]首相は立法院で、日本に賠償を要求するとともに、シンガポール政府が遺骨の発掘区域を買い上げ、慰霊碑を建設する計画だと発表した{{Sfn|シンガポール日本人会|1978a|pp=101-102}}{{Sfn|岩崎|2013|pp=52-53}}{{Sfn|林|2007|pp=163,236}}{{Sfn|南洋商報|1962-03-01}}。
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1963年3月に「日本占領時期死難人民記念碑募捐委員会」が結成され、記念碑建設のための募金が始められた{{Sfn|林|2007|p=236}}{{Sfn|篠崎|1978|p=80は、シンガポール華僑粛清事件の被害者遺族を中心とした「集体鳴冤委員会」の発議に基づいて建てられた、としている。}}。同年4月21日にシンガポールで行われた募金運動の開会式では、リー首相が英国植民地政府が締結した[[サンフランシスコ条約]]ですべてが解決済とする主張を批判する演説をした{{Sfn|林|2007|p=240}}。
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1966年に行われた遺骨の第2次発掘では、島内12地点から収容容器452個分の遺骨が発掘された{{Sfn|高嶋|1987|p=23}}。
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==塔の建立==
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{{いつ}}慰霊碑については、シンガポール政府代表と中華総商会の代表とで「紀念碑工作委員会」が組織され、政府が[[ラッフルズ・ホテル]]斜め前の空地を提供したことにより、建設計画が具体化{{Sfn|高嶋|1987|p=23}}。
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1966年3月に慰霊塔の建設工事が開始され、建設途中の同年11月に、島内35ヵ所から発掘・収集された遺骸を納めた甕607甕のうち、身元が判明した2甕を除く605甕が塔の土台部分を含む池の地下に収められた{{Sfn|高嶋|1987|p=23}}{{Sfn|林|2007|pp=163,236。同書は、台座の下に納められた、としている。}}
  
 
1967年1月に竣工、竣工後の管理はシンガポール政府に委ねられた{{Sfn|林|2007|p=236,238}}{{Sfn|篠崎|1978|p=80,81}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=220-221}}。
 
1967年1月に竣工、竣工後の管理はシンガポール政府に委ねられた{{Sfn|林|2007|p=236,238}}{{Sfn|篠崎|1978|p=80,81}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=220-221}}。
  
記念碑の建設費用48.7万[[シンガポール・ドル]]は、シンガポール中華総商会などが集めた募金28万シンガポール・ドルと、政府からの拠出金20.7万シンガポール・ドルで賄われた{{Sfn|林|2007|p=238}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1976|p=222}}は、シンガポール政府が中華総商会に対して記念碑建設費として50万ドルを交付し、当時の中華総商会主席・孫炳炎(ソンペンヤム)が更に50万ドルを会より支出、合計100万ドルで建設した、としており、{{Harvtxt|篠崎|1978|p=81}}は、「中華総商会はさらに50万ドルを預金して」塔を建設したとし、政府の支出については言及していない。</ref>。
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記念碑の建設費用48.7万[[シンガポール・ドル]]は、シンガポール中華総商会などが集めた募金28万シンガポール・ドルと、政府からの拠出金20.7万シンガポール・ドルで賄われた{{Sfn|林|2007|p=238}}{{Sfn|篠崎|1976|p=222は、シンガポール政府が中華総商会に対して記念碑建設費として50万ドルを交付し、当時の中華総商会主席・孫炳炎(ソンペンヤム)が更に50万ドルを会より支出、合計100万ドルで建設した、としており、{{Harvtxt|篠崎|1978|p=81}}は、「中華総商会はさらに50万ドルを預金して」塔を建設したとし、政府の支出については言及していない。}}
<!--編注:{{Sfn|林|2007|pp=241-242}}には「日本の文献の中には、この67年の協定によって日本が出した援助金の中から、血債の塔の建設資金の一部が出されたと書いているものがあるが、まったくの間違い」との記載があり、これは{{Sfn|篠崎|1976}}を念頭に置いているように思うが、同書では「中華総商会が50万ドル拠出した」(血債問題妥結後)「政府から中華総商会に記念碑建設費として50万ドルが交付された」と書いているので、「日本の準賠償の中から建設費用が拠出された」と書いてあるわけではない。また{{Sfn|篠崎|1978|p=81}}では何故か、中華総商会が'''さらに'''50万ドル支出したと記しているが、政府の支出額には触れていない。また{{Sfn|林|2007|p=242}}では「血債の塔は1967年2月に完成して会計処理を済ませており、協定締結は血債の塔完成後だから時系列でみてもあり得ない」としているが、{{Sfn|原|1995|p=28}}によればシンガポール政府と日本政府の間では1966年10月には合意に達していて、1967年9月まではマレーシア政府との合意を待っていたので、塔の完成前に政府の拠出金額が決められていたとしても、おかしくはない。-->
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== 意匠 ==
 
== 意匠 ==
 
[[ファイル:War Memorial Park 11, Singapore, Aug 06.JPG|thumb|青銅の壷と台座の碑文]]
 
[[ファイル:War Memorial Park 11, Singapore, Aug 06.JPG|thumb|青銅の壷と台座の碑文]]
当初は、日本軍の占領直後に起きた[[シンガポール華僑粛清事件]]の犠牲者の慰霊碑とすることが考えられていたが、最終的には、日本の占領中に犠牲になったシンガポールの全市民のための慰霊碑として建立された{{Sfn|岩崎|2013|pp=52-53}}{{Sfn|林|2007|p=237}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=220-221}}では「日本軍がシンガポールを占領した直後に虐殺された華僑犠牲者の霊を慰めるため」としており、{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}では「日本軍がシンガポールを占領した直後に行った華僑虐殺の被害者のほか、戦争中の砲爆撃で亡くなった人や、占領中に治安維持法や軍規に触れたとして死刑になったり、獄中死した人々も含まれている」としている。</ref>
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当初は、日本軍の占領直後に起きた[[シンガポール華僑粛清事件]]の犠牲者の慰霊碑とすることが考えられていたが、最終的には、日本の占領中に犠牲になったシンガポールの全市民のための慰霊碑として建立された{{Sfn|岩崎|2013|pp=52-53}}{{Sfn|林|2007|p=237}}{{Sfn|篠崎|1976|pp=220-221は、「日本軍がシンガポールを占領した直後に虐殺された華僑犠牲者の霊を慰めるため」としており、{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}は、「日本軍がシンガポールを占領した直後に行った華僑虐殺の被害者のほか、戦争中の砲爆撃で亡くなった人や、占領中に治安維持法や軍規に触れたとして死刑になったり、獄中死した人々も含まれている」としている。}}
  
碑は高さ約68メートル<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}では「125メートル」、{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=220-221}}では「120メートル」としている</ref>の4本の白い塔からなり、4つはそれぞれ[[華人]]、[[マレー人]]、[[インド人]]、[[ユーラシア人]]を象徴している{{Sfn|岩崎|2013|pp=52-53}}{{Sfn|林|2007|p=14}}。
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碑は高さ222フィート(約68メートル)<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}は「125メートル」、{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=220-221}}は「120メートル」としている。</ref>の4本の白い塔からなり、4つはそれぞれ[[華人]]、[[マレー人]]、[[インド人]]、[[ユーラシア人]]を象徴している{{Sfn|岩崎|2013|pp=52-53}}{{Sfn|高嶋|1987|p=13}}{{Sfn|林|2007|p=14}}。
  
塔の名称は{{lang-en|the Civilian War Memorial}}(市民戦没者記念碑)と呼ばれており{{Sfn|林|2007|p=14}}、記念碑の正面礎石には「{{lang-zh|日本佔领时期死难人民纪念碑}}({{lang-en|The Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation}})1942-1945」と刻まれている{{Sfn|林|2007|pp=14,219,237}}{{Sfn|篠崎|1976|p=220}}<!--あとマレー語{{lang-ms|Tugu Peringatan Bagi Mangsa Awam Pemerintahan Jepun}}とタミル語でも書いてあるように思うが、参考文献では言及がない。-->。日本語文献では、中国語の正式名称から'''日本占領時期死難人民記念碑'''<ref><!--{{Harvtxt|岩崎|2013|pp=52-53}}-->{{Harvtxt|林|2007|pp=14,163,236}}{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}および{{Harvtxt|シンガポール日本人会|1978b|p=567}}(「日本占領時期'''受'''難人民記念碑」)。</ref>、あるいは[[血債問題]]との関連から'''血債の塔'''と呼ばれている<!--{{Harvtxt|岩崎|2013|pp=52-53}}-->{{Sfn|林|2007|pp=14,163,236}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1976|p=220}}では「華僑虐殺記念碑」。</ref>。また形状が似ていることから{{Sfn|サイレンバーグ|1988|p=316}}、「チョップスティックス(箸)」の愛称がある{{Sfn|シンガポール政府観光局|2013}}
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塔の名称は一般に{{lang-en|the Civilian War Memorial}}(市民戦没者記念碑)と呼ばれており{{Sfn|林|2007|p=14}}、正式名称は台座部分に4つの言語([[英語]]、[[中国語]]、[[マレー語]]および[[タミル語]])で示されていて、記念碑の正面礎石には{{lang-en|The Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation}}({{lang-zh|日本佔领时期死难人民纪念碑}})1942-1945と刻まれている{{Sfn|林|2007|pp=14,219,237}}{{Sfn|高嶋|1987|p=14}}{{Sfn|篠崎|1976|p=220}}<ref>(編注)写真などを見ると、マレー語では{{lang-ms|Tugu Peringatan Bagi Mangsa Awam Pemerintahan Jepun}}。タミル語の名称は不詳。</ref>。
  
碑の台座には、英語、中国語、マレー語およびタミル語で碑文が刻まれている{{Sfn|林|2007|pp=14-15,237}}。英語碑文は「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」との内容になっている{{Sfn|林|2007|pp=14-15,237}}。
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日本語文献では、中国語の正式名称から「日本占領時期死難人民記念碑」{{Sfn|林|2007|pp=14,163,236}}{{Sfn|篠崎|1978|p=80}}{{Sfn|シンガポール日本人会|1978b|p=567。「日本占領時期'''受'''難人民記念碑」}}、あるいは[[血債問題]]との関連から「血債の塔」と呼ばれている{{Sfn|高嶋|1987|p=12}}{{Sfn|林|2007|pp=14,163,236}}{{Sfn|篠崎|1976|p=220は「華僑虐殺記念碑」としている。}}。また形状が似ていることから{{Sfn|サイレンバーグ|1988|p=316}}、「チョップスティックス(箸)」の愛称がある{{Sfn|シンガポール政府観光局|2020}}。
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塔の柱の下部内側には、4つの言語で碑文が刻まれており、「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」との内容になっている{{Sfn|林|2007|pp=14-15,237}}。
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塔の基底部には、台座下にある犠牲者の遺骨を納めた甕の象徴として、青銅の壺が置かれている{{Sfn|林|2007|p=5}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}および{{Harvtxt|篠崎|1976|p=222}}は、この壷には遺骨の一部が納められている、としている</ref>。
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壺の台座には、4つの言語で碑文が刻まれている{{Sfn|高嶋|1987|pp=14-15}}。英語の碑文の内容は「1942年2月15日から1945年8月18日までの間、日本軍によってシンガポールは占領されていた。その間、われら住民の内から無実の罪で殺された者は多く、数えきれないほどだった。20余年が過ぎたいま、はじめてここに遺骨を収集し、ていちょうに埋葬するとともに、この碑を建立して、その悲痛の念を永久に誌してとどめる」。{{Sfn|高嶋|1987|pp=14-15}}
  
塔の基底部には、台座下にある犠牲者の遺骨を納めた甕の象徴として、青銅の壹が置かれている{{Sfn|林|2007|p=5}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=80}}および{{Harvtxt|篠崎|1976|p=222}}では、この壷には遺骨の一部が納められている、としている</ref>。
 
 
== 所在地 ==
 
== 所在地 ==
シンガポール・{{仮リンク|ダウンタウン・コア|en|Downtown Core}}の、{{仮リンク|ブラス・バッサー路|en|Bras Basah Road}}と{{仮リンク|ビーチ路|label=ビーチ路 (シンガポール)|en|Beach Road, Singapore}}の交差点の、[[ラッフルズ・ホテル]]の向い側<!--{{Sfn|林|2007|p=14}}に「地下鉄シティ・ホール駅を出た海側」とあるが、google地図で見ると最寄は[[MRT環状線]]の{{仮リンク|プロムナード駅|en|Esplanade MRT Station}}(E番出口)っぽい。旅行ガイドブックとかで適当な出典をみつけられた方は、加筆をお願いします。-->にある{{仮リンク|戦争記念公園 (シンガポール)|label=戦争記念公園|en|War Memorial Park, Singapore}}の中にある{{Sfn|林|2007|p=14}}{{Sfn|篠崎|1978|p=80}}。
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シンガポール・{{仮リンク|ダウンタウン・コア|en|Downtown Core}}の、{{仮リンク|ブラス・バッサー路|en|Bras Basah Road}}と{{仮リンク|ビーチ路|label=ビーチ路 (シンガポール)|en|Beach Road, Singapore}}の交差点の、[[ラッフルズ・ホテル]]の向い側にある{{仮リンク|戦争記念公園 (シンガポール)|label=戦争記念公園|en|War Memorial Park, Singapore}}の中にある{{Sfn|林|2007|p=14}}{{Sfn|篠崎|1978|p=80}}。<ref>(編注){{Harvtxt|林|2007|p=14}}に「地下鉄シティ・ホール駅を出た海側」とあるが、Google mapsで見ると最寄は[[MRT環状線]]の{{仮リンク|プロムナード駅|en|Esplanade MRT Station}}(E番出口)のもよう。</ref>
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== 慰霊 ==
 
== 慰霊 ==
 
=== 落成式 ===
 
=== 落成式 ===
1967年2月15日に、リー・クアンユー総理の主催で、政府幹部、各国使節、各界代表、遺族ら約1千人が参列して落成式が行われた{{Sfn|林|2007|p=236,238}}{{Sfn|南洋商報|1967-02-16}}<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=81}}では、中華総商会の孫炳炎会頭が祭主となり、各商工会議所代表、宗教団体、遺族多数が参列した、としている。</ref>
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1967年2月15日に、リー・クアンユー総理の主催で、政府幹部、各国使節、各界代表、遺族ら約1千人が参列して落成式が行われた{{Sfn|林|2007|p=236,238}}{{Sfn|南洋商報|1967-02-16}}{{Sfn|篠崎|1978|p=81は、中華総商会の孫炳炎会頭が祭主となり、各商工会議所代表、宗教団体、遺族多数が参列した、としている。}}。
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=== 追悼式 ===
 
=== 追悼式 ===
以来毎年2月15日に犠牲者の追悼式が行われている{{Sfn|篠崎|1978|p=81}}{{Sfn|篠崎|1976|p=223}}。<!-- 式は3拝3回の後、3分間の黙祷を捧げて犠牲者の冥福を祈った後解散する{{Sfn|篠崎|1976|p=223}}。 -->
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以来、(1987年当時まで)毎年2月15日に犠牲者の追悼式が行われている{{Sfn|高嶋|1987|p=24}}{{Sfn|篠崎|1978|p=81}}{{Sfn|篠崎|1976|p=223}}。
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=== 日本人の参拝 ===
 
=== 日本人の参拝 ===
1967年10月、血債問題が解決をみた直後に[[佐藤栄作]]首相がシンガポールを訪問したが、慰霊塔は訪問しなかった<ref>{{Harvtxt||2007||pp=15-16,241}}。日本の駐シンガポール大使は「祖国に忠誠を尽くした無名戦士の墓ならともかく、シンガポールの記念碑は戦争中に死んだ一般人の墓にすぎない。わざわざ首相が行く性質のものではないと思う」とコメントした(同、『朝日新聞』1967年8月19日付からの引用として)</ref>
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1967年2月の落成式には、駐在日本大使も出席した{{Sfn|高嶋|1987|p=24}}。
  
<!-- {{Quotation|この白亜の記念塔を仰ぐ日本人の感情は複雑で、占領当時を知る人々の心は限りなく疼くのである。慰霊祭が終って参列者が散会した後、ひっそりと参拝する日本人の姿も見られた。日本人会でも近年になって、慰霊祭に参加してはという意見もあり、やがては日本人の代表も参列することになるであろう。|[[篠崎護]]|著書『シンガポール占領秘録』より}}{{Sfn|篠崎|1976|p=223}} -->
+
同年10月に[[佐藤栄作]]首相がシンガポールを訪問したが、慰霊塔は訪問しなかった{{Sfn||2007||pp=15-16,241。日本の駐シンガポール大使は「祖国に忠誠を尽くした無名戦士の墓ならともかく、シンガポールの記念碑は戦争中に死んだ一般人の墓にすぎない。わざわざ首相が行く性質のものではないと思う」とコメントした(同、『朝日新聞』1967年8月19日付からの引用として)。}}。
<!--篠崎は1975年2月15日の慰霊式典に参列し、日本人の参列を拒否する気配はなく、寧ろ喜ばれることがわかった、としている{{Sfn|篠崎|1978|p=82}}。-->
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1976年2月15日の追悼式には、<!--桜井清彦のアレンジで-->高橋・[[シンガポール日本人会]]会長と林・日本商工会議所会頭が参列、供花した<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=82}}。「現地の人々に喜ばれた」(同)。</ref>{{Sfn|南洋商報|1976-02-16}}。
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1972年の慰霊塔建立5周年のとき、[[時事通信]]のシンガポール特派員が『[[世界週報]]』(時事通信社、1972年4月4日号、発売はその数日前)誌上で、碑をもう少し目立たない場所に移す計画があるという噂を取上げて、現地の日本人がそれに期待している旨の報道をし、これを[[荘恵泉]]が1972年4月2日の『[[星洲日報]]』で批判し、シンガポール政府と中華総商会に計画の有無を問いただし、「全くその気はない」との回答を得たことがあった{{Sfn|高嶋|1987|pp=28-29}}
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*{{Harvtxt|高嶋|1987|p=29}}は、同記事中には、塔が日本の無償援助の一部を充てて建設された、対日補償要求は1965年にシンガポールが分離独立した後「忽然として起こった」等々、事実を誤認した決め付けが多かったと指摘している。
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1976年2月15日の追悼式には、高橋・[[シンガポール日本人会]]会長と林・日本商工会議所会頭が参列、供花した{{Sfn|篠崎|1978|p=82。「現地の人々に喜ばれた」(同)。}}{{Sfn|南洋商報|1976-02-16}}。
  
 
1994年8月28日に、[[村山富市]]首相が日本の首相として初めて慰霊塔を訪れ、献花した{{Sfn|林|2007|p=15}}{{Sfn|聨合早報|1994-08-29}}。
 
1994年8月28日に、[[村山富市]]首相が日本の首相として初めて慰霊塔を訪れ、献花した{{Sfn|林|2007|p=15}}{{Sfn|聨合早報|1994-08-29}}。
  
== 脚注 ==
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==観光ガイド==
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{{Harvtxt|高嶋|1987|pp=13-14}}は、{{仮リンク|戦争記念公園 (シンガポール)|label=戦争記念公園|en|War Memorial Park, Singapore}}はシンガポールの中心地にあり、周辺をツアーで訪れる日本人観光客は多いが、現地のツアーガイドは質問されない限り塔について説明しようとしないし、質問してもまともに答えない、としている。
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==付録==
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===関連文献===
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*『[https://eresources.nlb.gov.sg/printheritage/detail/d159f65b-27e4-4702-a647-40e10485cc82.aspx 日本占領時期死難人民紀念碑徴信録]』新嘉坡中華総商会、1969年
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=== 脚注 ===
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== 参考文献 ==
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=== 参考文献 ===
 
{{Commons&cat|Civilian War Memorial|Civilian War Memorial, Singapore}}
 
{{Commons&cat|Civilian War Memorial|Civilian War Memorial, Singapore}}
* {{Cite book|和書|last = 岩崎|year = 2013|first = 育夫|title = 物語シンガポールの歴史|publisher = 中央公論新社|series=中公新書|isbn = 9784121022080 |ref= harv}}
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*{{Aya|岩崎|year=2013}} 岩崎育夫『物語シンガポールの歴史』〈中公新書〉中央公論新社、ISBN 978-4121022080
* {{Cite book|和書|last = 林|year = 2007|first = 博史|title = シンガポール華僑粛清|publisher = 高文研|isbn = 978-4-87498-386-7 |ref= harv}}
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*{{Aya|林|year=2007}} 林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、ISBN 978-4874983867
* {{Cite journal|和書|last = 原|year = 1995|first = 不二夫|title = マレーシア、シンガポールの賠償問題|publisher = 日本の戦争責任資料センター|journal = 季刊戦争責任研究|issue = 10|date = 1995-12-15|pages = 26-30|ref= harv}}
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*{{Aya|原|year=1995}} 原不二夫「マレーシア、シンガポールの賠償問題」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.10、1995年12月、{{NDLJP|4427969/15}}{{閉}}、pp.26-30
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*{{Aya|サイレンバーグ|year=1988}} サイレンバーグ, ジョン・バートラム・グァン(著)幸節みゆき(訳)『思い出のシンガポール - 光の日々と影の日々』幻想社、ISBN 4874680550
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*{{Aya|高嶋|year=1987}} 高嶋伸欣『旅しよう東南アジアへ - 戦争の傷跡から学ぶ』〈岩波ブックレット 99〉岩波書店、ISBN 4000030396
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*{{Aya|篠崎|year=1978}} 篠崎護「日本占領時期死難人民記念碑」{{Harv|シンガポール日本人会|1978|pp=80-82}}
* {{Cite journal|和書|author = シンガポール日本人会|year= 1978b|first = |title = シンガポール・日本関係年表 |date = 1978-3 |publisher = シンガポール日本人会|journal = 「南十字星」10周年記念復刻版—シンガポール日本人社会の歩み |pages = 563-568 |ref= harv}}
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*{{Aya|シンガポール日本人会|year=1978a}} 「戦後の日本人の歩み - シンガポール日本人会を中心に」{{Harv|シンガポール日本人会|1978|pp=83-137}}
* {{Cite book|和書|last = 篠崎|year = 1976|first = 護|title = シンガポール占領秘録―戦争とその人間像|publisher = 原書房|ref = harv}}
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*{{Aya|シンガポール日本人会|year=1978b}} 「シンガポール・日本関係年表」{{Harv|シンガポール日本人会|1978|pp=563-568}}
*{{Cite news |author = 聨合早報 |year=1994-08-29 |date=1994-08-29 |title= 日本首相村山富市到死难人民纪念碑献花圈|newspaper= 聨合早報 |url= http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/lhzb19940829-1.1.2.aspx |page= 2 |agency= REUTERS|accessdate=  |ref=harv}}{{クローズドアクセス}}
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*{{Aya|シンガポール日本人会|year=1978}} シンガポール日本人会『「南十字星」10周年記念復刻版 - シンガポール日本人社会の歩み』シンガポール日本人会、1978年、{{JPNO|79090009}}
*{{Cite news |author = 南洋商報 |year=1976-02-16 |date=1976-02-16 |title= 日治蒙難人民紀念碑‐舉行九週年祭奠|newspaper= 南洋商報 |url= http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19760216-1.1.18.aspx |page= 18 |accessdate=2016-03-12 |ref=harv}}
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*{{Aya|篠崎|year=1976}} 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、{{JPNO|73016313}}
*{{Cite news |author = 南洋商報 |year=1967-02-16 |date=1967-02-16 |title= 死難人民紀念碑擧行隆重揭幕禮|newspaper= 南洋商報 |url= http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19670216-1.1.1.aspx |page= 1 |accessdate=2016-03-12 |ref=harv}}
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*{{Aya|聨合早報|year=1994-08-29}} REUTERS「[https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/lhzb19940829-1.1.2.aspx 日本首相村山富市到死难人民纪念碑献花圈]{{}}」『聨合早報』1994年8月29日、p.2
*{{Cite news |author = 南洋商報 |year=1962-03-01 |date=1962-03-01 |title= 中華總商會董事會議一致通過‐請政府向日本交涉賠償遭屠殺者家屬|newspaper= 南洋商報 |url= http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19620301-1.1.5.aspx |page= 5 |accessdate=2016-03-12 |ref=harv}}
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*{{Aya|南洋商報|year=1976-02-16}} 「[https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19760216-1.1.18.aspx 日治蒙難人民紀念碑‐舉行九週年祭奠]」『南洋商報』1976年2月16日、p.18
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*{{Aya|南洋商報|year=1967-02-16}} 「[https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19670216-1.1.1.aspx 死難人民紀念碑擧行隆重揭幕禮]」『南洋商報』1967年2月16日、p.1
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*{{Aya|南洋商報|year=1962-03-01}} 「[https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/nysp19620301-1.1.5.aspx 中華總商會董事會議一致通過 ‐ 請政府向日本交涉賠償遭屠殺者家屬]」『南洋商報』1962年3月1日、p.5
  
== 外部リンク ==
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=== 外部リンク ===
* {{Cite web |author= シンガポール政府観光局 |year= 2013 |url= http://www.yoursingapore.com/content/traveller/ja/browse/see-and-do/culture-and-heritage/a-touch-of-history/landmarks-and-memorials/civilian-war-memorial.html |title= Home>閲覧する>観光&体験>文化と遺産>文化の一面>ランドマークおよび記念碑>ウォー・メモリアル(市民戦没者記念碑) |accessdate=2016-04-02|ref= harv}}
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* {{Aya|シンガポール政府観光局|year=2020}} [https://www.visitsingapore.com/ja_jp/see-do-singapore/history/memorials/civilian-war-memorial/ ホーム &gt; 観光&体験 &gt; 歴史 &gt; ウォー・メモリアル(市民戦没者記念碑)] 2020年6月7日閲覧
  
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2020年6月7日 (日) 16:23時点における最新版

日本占領時期死難人民記念碑(にほんせんりょうじきしなんじんみんきねんひ)、一般に英語the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)は、シンガポールダウンタウン・コアEnglish版戦争記念公園English版にある高さ222フィート(約68メートル)の慰霊塔1967年に、シンガポール中華総商会English版が中心となって、1960年代初めにシンガポール島内で発掘された華僑粛清の犠牲者の遺骨を納め、1942年2月から1945年8月の日本軍占領時期に殺害された無辜(むこ)の市民を追悼するために建てられた。日本語文献では血債問題との関連から血債の塔とも呼ばれる。

遺骨の発掘[編集]

詳細は 血債問題 を参照

1961年の暮れから翌1962年1月にかけて、大規模な宅地造成工事が行われていたシンガポールイースト・コーストEnglish版7.5マイルの「シグラップの谷」と呼ばれる場所で、大量の遺骨が出土し、日本がシンガポール占領直後に行った中国人粛清の犠牲者として新聞で連日報道された[1]

シンガポール中華総商会English版は、1962年1月31日に「日本占領時期死難人民遺骸善後委員会」を組織して、埋葬地点の情報を集めて遺骨の発掘調査をシンガポール全島で展開[2][1]。1965年までの第1次発掘で、遺骨収容容器155個分の遺骨が集められた[3][4]

  • うち1個分については氏名が判明したため、遺骨は遺族に引き渡され、また別の容器1個分の遺骨は英国兵のものであることが明らかだったため、英軍に引き渡された[3][5]

1962年2月28日に中華総商会はシンガポール政府に対日賠償要求交渉を進めるよう要請することを決議[1]。同年3月15日にリー・クアンユー首相は立法院で、日本に賠償を要求するとともに、シンガポール政府が遺骨の発掘区域を買い上げ、慰霊碑を建設する計画だと発表した[1][6][7][8]

1963年3月に「日本占領時期死難人民記念碑募捐委員会」が結成され、記念碑建設のための募金が始められた[9][10]。同年4月21日にシンガポールで行われた募金運動の開会式では、リー首相が英国植民地政府が締結したサンフランシスコ条約ですべてが解決済とする主張を批判する演説をした[11]

1966年に行われた遺骨の第2次発掘では、島内12地点から収容容器452個分の遺骨が発掘された[12]

塔の建立[編集]

いつ?慰霊碑については、シンガポール政府代表と中華総商会の代表とで「紀念碑工作委員会」が組織され、政府がラッフルズ・ホテル斜め前の空地を提供したことにより、建設計画が具体化[12]

1966年3月に慰霊塔の建設工事が開始され、建設途中の同年11月に、島内35ヵ所から発掘・収集された遺骸を納めた甕607甕のうち、身元が判明した2甕を除く605甕が塔の土台部分を含む池の地下に収められた[12][13]

1967年1月に竣工、竣工後の管理はシンガポール政府に委ねられた[14][15][16]

記念碑の建設費用48.7万シンガポール・ドルは、シンガポール中華総商会などが集めた募金28万シンガポール・ドルと、政府からの拠出金20.7万シンガポール・ドルで賄われた[17][18]

意匠[編集]

当初は、日本軍の占領直後に起きたシンガポール華僑粛清事件の犠牲者の慰霊碑とすることが考えられていたが、最終的には、日本の占領中に犠牲になったシンガポールの全市民のための慰霊碑として建立された[6][19][20]

碑は高さ222フィート(約68メートル)[21]の4本の白い塔からなり、4つはそれぞれ華人マレー人インド人ユーラシア人を象徴している[6][22][23]

塔の名称は一般に英語the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)と呼ばれており[23]、正式名称は台座部分に4つの言語(英語中国語マレー語およびタミル語)で示されていて、記念碑の正面礎石には英語The Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation(中国語日本佔领时期死难人民纪念碑)1942-1945と刻まれている[24][25][26][27]

日本語文献では、中国語の正式名称から「日本占領時期死難人民記念碑」[28][29][30]、あるいは血債問題との関連から「血債の塔」と呼ばれている[31][28][32]。また形状が似ていることから[33]、「チョップスティックス(箸)」の愛称がある[34]

塔の柱の下部内側には、4つの言語で碑文が刻まれており、「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」との内容になっている[35]

塔の基底部には、台座下にある犠牲者の遺骨を納めた甕の象徴として、青銅の壺が置かれている[36][37]

壺の台座には、4つの言語で碑文が刻まれている[38]。英語の碑文の内容は「1942年2月15日から1945年8月18日までの間、日本軍によってシンガポールは占領されていた。その間、われら住民の内から無実の罪で殺された者は多く、数えきれないほどだった。20余年が過ぎたいま、はじめてここに遺骨を収集し、ていちょうに埋葬するとともに、この碑を建立して、その悲痛の念を永久に誌してとどめる」。[38]

所在地[編集]

シンガポール・ダウンタウン・コアEnglish版の、ブラス・バッサー路English版ビーチ路 (シンガポール)English版の交差点の、ラッフルズ・ホテルの向い側にある戦争記念公園English版の中にある[23][29][39]

慰霊[編集]

落成式[編集]

1967年2月15日に、リー・クアンユー総理の主催で、政府幹部、各国使節、各界代表、遺族ら約1千人が参列して落成式が行われた[14][40][41]

追悼式[編集]

以来、(1987年当時まで)毎年2月15日に犠牲者の追悼式が行われている[42][43][44]

日本人の参拝[編集]

1967年2月の落成式には、駐在日本大使も出席した[42]

同年10月に佐藤栄作首相がシンガポールを訪問したが、慰霊塔は訪問しなかった[45]

1972年の慰霊塔建立5周年のとき、時事通信のシンガポール特派員が『世界週報』(時事通信社、1972年4月4日号、発売はその数日前)誌上で、碑をもう少し目立たない場所に移す計画があるという噂を取上げて、現地の日本人がそれに期待している旨の報道をし、これを荘恵泉が1972年4月2日の『星洲日報』で批判し、シンガポール政府と中華総商会に計画の有無を問いただし、「全くその気はない」との回答を得たことがあった[46]

  • 高嶋 (1987 29)は、同記事中には、塔が日本の無償援助の一部を充てて建設された、対日補償要求は1965年にシンガポールが分離独立した後「忽然として起こった」等々、事実を誤認した決め付けが多かったと指摘している。

1976年2月15日の追悼式には、高橋・シンガポール日本人会会長と林・日本商工会議所会頭が参列、供花した[47][48]

1994年8月28日に、村山富市首相が日本の首相として初めて慰霊塔を訪れ、献花した[49][50]

観光ガイド[編集]

高嶋 (1987 13-14)は、戦争記念公園English版はシンガポールの中心地にあり、周辺をツアーで訪れる日本人観光客は多いが、現地のツアーガイドは質問されない限り塔について説明しようとしないし、質問してもまともに答えない、としている。

付録[編集]

関連文献[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 シンガポール日本人会 1978a 101-102
  2. 高嶋 1987 21-22
  3. 3.0 3.1 高嶋 1987 22
  4. シンガポール日本人会 1978a 101-102。同書は、遺骨の発掘は1962年いっぱい継続された、としている。
  5. 林 2007 163
  6. 6.0 6.1 6.2 岩崎 2013 52-53
  7. 林 2007 163,236
  8. 南洋商報 1962-03-01
  9. 林 2007 236
  10. 篠崎 1978 80は、シンガポール華僑粛清事件の被害者遺族を中心とした「集体鳴冤委員会」の発議に基づいて建てられた、としている。
  11. 林 2007 240
  12. 12.0 12.1 12.2 高嶋 1987 23
  13. 林 2007 163,236。同書は、台座の下に納められた、としている。
  14. 14.0 14.1 林 2007 236,238
  15. 篠崎 1978 80,81
  16. 篠崎 1976 220-221
  17. 林 2007 238
  18. 篠崎 1976 222は、シンガポール政府が中華総商会に対して記念碑建設費として50万ドルを交付し、当時の中華総商会主席・孫炳炎(ソンペンヤム)が更に50万ドルを会より支出、合計100万ドルで建設した、としており、篠崎 (1978 81)は、「中華総商会はさらに50万ドルを預金して」塔を建設したとし、政府の支出については言及していない。
  19. 林 2007 237
  20. 篠崎 1976 220-221は、「日本軍がシンガポールを占領した直後に虐殺された華僑犠牲者の霊を慰めるため」としており、篠崎 (1978 80)は、「日本軍がシンガポールを占領した直後に行った華僑虐殺の被害者のほか、戦争中の砲爆撃で亡くなった人や、占領中に治安維持法や軍規に触れたとして死刑になったり、獄中死した人々も含まれている」としている。
  21. 篠崎 (1978 80)は「125メートル」、篠崎 (1976 220-221)は「120メートル」としている。
  22. 高嶋 1987 13
  23. 23.0 23.1 23.2 林 2007 14
  24. 林 2007 14,219,237
  25. 高嶋 1987 14
  26. 篠崎 1976 220
  27. (編注)写真などを見ると、マレー語ではマレー語Tugu Peringatan Bagi Mangsa Awam Pemerintahan Jepun。タミル語の名称は不詳。
  28. 28.0 28.1 林 2007 14,163,236
  29. 29.0 29.1 篠崎 1978 80
  30. シンガポール日本人会 1978b 567。「日本占領時期難人民記念碑」
  31. 高嶋 1987 12
  32. 篠崎 1976 220は「華僑虐殺記念碑」としている。
  33. サイレンバーグ 1988 316
  34. シンガポール政府観光局 2020
  35. 林 2007 14-15,237
  36. 林 2007 5
  37. 篠崎 (1978 80)および篠崎 (1976 222)は、この壷には遺骨の一部が納められている、としている
  38. 38.0 38.1 高嶋 1987 14-15
  39. (編注)林 (2007 14)に「地下鉄シティ・ホール駅を出た海側」とあるが、Google mapsで見ると最寄はMRT環状線プロムナード駅English版(E番出口)のもよう。
  40. 南洋商報 1967-02-16
  41. 篠崎 1978 81は、中華総商会の孫炳炎会頭が祭主となり、各商工会議所代表、宗教団体、遺族多数が参列した、としている。
  42. 42.0 42.1 高嶋 1987 24
  43. 篠崎 1978 81
  44. 篠崎 1976 223
  45. 林 2007 15-16,241。日本の駐シンガポール大使は「祖国に忠誠を尽くした無名戦士の墓ならともかく、シンガポールの記念碑は戦争中に死んだ一般人の墓にすぎない。わざわざ首相が行く性質のものではないと思う」とコメントした(同、『朝日新聞』1967年8月19日付からの引用として)。
  46. 高嶋 1987 28-29
  47. 篠崎 1978 82。「現地の人々に喜ばれた」(同)。
  48. 南洋商報 1976-02-16
  49. 林 2007 15
  50. 聨合早報 1994-08-29

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

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