「鴻上尚史のオールナイトニッポン」の版間の差分
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2020年1月15日 (水) 00:47時点における最新版
鴻上尚史のオールナイトニッポン | |
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愛称 | |
放送方式 | 生放送 |
放送期間 | 金曜2部 1983年10月7日〜1985年3月30日 金曜1部 1987年10月16日〜1989年3月31日 |
放送時間 | 金曜2部時代 土曜日未明3:00〜5:00 金曜1部時代 土曜日未明1:00〜3:00 |
放送回数 | |
放送局 | ニッポン放送 |
制作 | |
ネットワーク | NRN |
パーソナリティ | 鴻上尚史 |
出演 | |
テーマ曲 | |
企画 | |
プロデューサー | |
ディレクター | |
提供 | |
公式サイト | |
特記事項: | |
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鴻上尚史のオールナイトニッポン(※こうがみしょうじ - )は、ニッポン放送の人気深夜番組、オールナイトニッポンにおいて放送されていたラジオ番組。最初、1983年10月7日から1985年3月30日までは金曜2部(毎週金曜日深夜27:00〜29:00)、のち1987年10月16日から1989年3月31日までは金曜1部(毎週金曜日深夜25:00〜27:00)に放送されていた。
(※ - 本来の読みは「こうかみ」であるが、ラジオという“声”や“音”が主体の媒体であるため、その響きから漢字を連想しやすい「こうがみ」と名乗っていた。当時は小劇場ブームの波に乗っており一部では人気を博していたが、一般にはまだ無名に近かったこともあり、まずは多くの人(リスナー)に認知されることを優先させたためである語っている。)
目次
パーソナリティ[編集]
概要[編集]
- 金曜2部時代から、バカバカしい事を大真面目にやってしまう、そしてその度に話題を呼び起こすエネルギッシュで行動的な番組だった。日比谷公園でのジェンカ、パノラマエクスプレスを借り切っての生放送、コンビニエンスストア荒らし、「ドラゴンクエストIII」のエンディング曲製作、「10回クイズ ちがうね!」、「究極の選択」など、色々な事を、リスナーと一緒に遊んだという番組である。
- オープニングに鴻上が「寝るなあ〜」と言って番組が始まり、エンディングに「いい夢を見るんだよ」と言って終わる、というのが2部時代からのパターンだった。(1部になってからのエンディングフレーズは「泣かないように、負けないように、いい夢を見るんだよ」となっていた。しかし当然その後に2部があるため、2部のパーソナリティ、リスナーから「3時で寝てくれなんて事言うなよ」みたいなクレームが付いたという)[1]
- いわゆる汚物ネタも多かったこの番組では「やめてくれ〜」という効果音が頻繁に流されていた[1]。
- 前述のSE「やめてくれ〜」はとんねるずのオールナイトニッポンで「そして伝説へ…」がOAされた際、堪えられなくなった石橋貴明が曲の途中でOAをストップさせたときの発言を流用したもの。同様のものに「やめやめやめ」(「Jrからの手紙」OA時の発言)がある。
- ノベルティは「奇跡シール」(遠赤外線シール。ドラクエの呪文のような、何が起こるかわからない力を秘めていたとか)のち、ノベルティに「落書きの天才」コーナーで代々木駅に展示された136枚を一冊にまとめた「ストリート・アート・ブック」が加わる[1]。
- ディレクターは金曜2部、金曜1部時代を通して松島宏、構成作家は寺崎要[1]。
- 金曜2部時代のオープニングテーマはROXY MUSICの「MORE THAN THIS」、金曜1部時代のエンディングテーマはECHOESの「ONEWAY RADIO」[1]。
- 金曜1部時代、当時「銀盤のゴクミ」と呼ばれた女子フィギアスケート選手・八木沼純子に注目。“ジュンジュン”と呼び、是非番組に登場して欲しい旨を放送を通じてアピールし続け、ジュンジュンを呼ぶためには…とリスナーからアイデアを募るミニコーナーまで作った。しかし、その努力は報われなかった[1]。
- ちなみに鴻上のギャラは金曜2部時代は1ヶ月3万円(金曜1部の最終回で本人が告白)、金曜1部時代も1ヶ月7万円(『東貴博 ニッポン全国 ラジベガス』出演時に本人が語る)に過ぎなかったという。なお、ギャラに関しては、2部時代は1ヶ月7万円・1部時代はたぶん1ヶ月20万〜30万円程度との発言(オールナイトニッポンアゲイン出演時に本人が語る)もある。このオールナイトニッポンアゲイン出演時には、ギャラが7万円と言われて1回7万円なら生活できると思ったが1ヶ月7万円だったこと、劇団員をハガキ整理アシスタントに月2万円で雇ったため実質1ヶ月5万円だったこと、1部時代はマネージャーが付いていた為にギャラの詳細は知らないこと、10回クイズの出版は1万部の買い取り契約だったこと、究極の選択の出版は2〜3%くらいの印税契約だったこと、などギャラについて語った。
番組史[編集]
金曜2部時代[編集]
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
金曜1部時代[1][編集]
- 1987年11月13日深夜 - 東京都墨田区内のコンビニにおいて、放送終了後の28時(午前4時)から鴻上と集まったリスナー200人で「コンビニエンスストア荒らし」決行。コンビニの中の在庫が空っぽになるまで買い物をしまくろうという企画。この間、当時ちょうどこの時間に放送していた「久本雅美のオールナイトニッポン」に鴻上が電話出演、久本に「そんなことして何が楽しいの?」と言われる[2]。
- 1988年
- 1月1日深夜 - 金曜2部の久本雅美と29時(午前5時)まで4時間通しての放送。27時(午前3時)までは久本が、以降は鴻上が外回り中継を担当した。
- 1月8日深夜 - パノラマエクスプレスを借り切り「チップスカンパニー号ミッドナイトトレイン」と称して、136人のリスナーを乗せ、車内から2時間の生放送を行う。25時10分(午前1時10分)に新宿駅を出発、途中日野駅、八王子駅、高尾駅に停車した後、26時45分(午前2時45分)に大月駅到着。途中通過駅でも見送るリスナーの姿があった。なお、トンネル内などからは電波が届きにくい事が考えられたため、それに備えて金曜2部の久本雅美がニッポン放送のスタジオでスタンバイしていた[3]。
- 1月15日 - 「10回クイズ ちがうね!」発売。
- 2月26日 - 鴻上とデーモン小暮閣下の「10回クイズ」のカセット版が発売。同日深夜、南野陽子がゲスト出演。「信玄のハナクソ」コーナーで「ハナクソ」という言葉を連発する。
- 4月1日 - 「ドラゴンクエストIII」のエンディングテーマ「そして伝説へ…」のジャケット写真撮影をニッポン放送の銀河スタジオで、怪物に扮装したリスナー17人とともに行う。
- 4月29日深夜 - ラフィン・ノーズがゲスト出演。
- 5月13日深夜 - 「木村家の人々」のプロモーションのため、サンプラザ中野と滝田洋二郎監督ゲスト出演。
- 5月20日深夜 - 「そして伝説へ…」初オンエア。清水ひとみゲスト出演。
- 5月27日深夜 - 演歌歌手、鏡五郎の息子からのはがきが紹介される。ここから「鏡五郎の息子」プロジェクトが始まる。
- 6月17日深夜 - 工藤静香ゲスト出演。
- 6月21日 - 「そして伝説へ…」発売。
- 7月1日 - 「そして伝説へ…」がオリコン初登場29位という“快挙”を果たし、三宅裕司、上柳昌彦らから「驚いちゃうよな」「信じられないよ」などと言われる。
- 7月29日 - 銀座のローソンに150人のリスナーを集め「落書きの天才」イベントを行う。南野陽子、再びゲスト出演。
- 8月12日深夜 - 「夏休みトンデモはねてる放送局・鴻上尚史のオールコンビニエンスストアニッポン」と題して25時(午前1時)から29時(午前5時)までの4時間生放送。
- 8月12日~8月18日 - 代々木駅に「落書きの天才」コーナーで集まったリスナーの落書き作品136枚を展示。
- 9月2日深夜 - ラジオ大阪から生放送。鏡五郎が電話出演。なぜか自分の持ち歌ではなく「そして伝説へ…」を歌う。その鏡五郎の息子の芸名がズバリ、「鏡五郎の息子」と決まる。
- 12月2日 - 鏡五郎の息子の曲「Jrからの手紙」のジャケット写真撮影をニッポン放送の銀河スタジオで行う。リスナー91人がお玉を持って参加。同日深夜、鏡五郎、鏡五郎の息子、南野陽子(3回目)がゲスト出演。
- 12月31日深夜 - 大晦日スペシャルとして、ニッポン放送正面玄関から鍋を煮立てながら2時間生放送、リスナーに「具を持って来い」と呼びかける。当時ニッポン放送の金曜夜に放送していた「TOKYOベストヒット」の生放送を終えて出てきた関根勤、田中律子らを番組に出演させる。鏡五郎の息子とその母親が広島のカキを持って訪れる。鴻上、「そして伝説へ…」を歌って封印宣言。
- 1989年
- 1月13日深夜 - 昭和天皇の崩御を受け、オールナイトニッポンのこれまでの過去の放送を振り返る特別企画を放送。
- 1月20日深夜 - 「Jrからの手紙キャンペーン」として、東京都江戸川区内のレコード店から生放送。鏡五郎の息子が「Jrからの手紙」を集まったリスナー300人と合唱。封印宣言したはずの鴻上、再び「そして伝説へ…」を歌う。
- 1月21日 - 「Jrからの手紙」発売。
- 2月20日 - 書籍「脳みそパニック究極の選択」発売。
- 2月24日 - 大喪の礼に伴う特別企画の放送のため当番組が休止。
- 3月3日深夜 - 銀河スタジオで「究極の選択」公開生放送。この場でこの番組が3月いっぱいで終了することが発表される。
- 3月31日深夜 - 最終回放送。ゲストに翌々週[4]より同時間帯を担当するウッチャンナンチャンが出演。ラストは「泣かないように、負けないように、いい夢を見てください」の言葉で締めくくる[5]。
主なコーナー、企画[1][編集]
金曜2部時代[編集]
真夜中のジェンカ[編集]
ニッポン放送近くの日比谷公園で放送終了後の午前6時から鴻上と一緒にジェンカを踊ろう、と言う企画。最高で200人を集め、6〜7回続いた。東大合格発表の場で「東大合格ジェンカ」を踊ったこともあった。
アマリリス[編集]
ジェンカと同じ様に、午前6時の日比谷公園で鴻上と一緒に縦笛で楽曲「アマリリス」を吹いた。
トイレットペーパーの芯投げ大会[編集]
「国際スポーツフェア」が行われている国立代々木競技場の隣の代々木公園にて、誰が一番遠くまで投げられるかを競った。
裏コピーコーナー[編集]
逆に物を売れなくするためのキャッチコピーを考えるコーナー。当時、週刊文春で連載されていた「萬流コピー塾」を意識して作られたコーナーで、2部終盤には同塾家元の糸井重里に挑戦状を出したこともあった。
- その他、リスナーにレコードを持ってきてもらってそのままオンエアしてしまうコーナー、リスナーと電話をつないで「スチュワーデス物語」のパロディを演じる(リスナーが松本千秋(堀ちえみ)役、鴻上が教官役)コーナーもあった。
金曜1部時代[編集]
奇妙な相関関係[編集]
(1987年10月16日〜1989年3月)
ニュース私だけが知っている[編集]
(のちにニュースステーションIIに改題。1987年10月16日〜1989年3月)
「カルガリーオリンピック」「リクルート事件」など、当時の話題、世相、流行などからお題を決め、それに答える大喜利的コーナー。
信玄のハナクソ[編集]
(1988年1月15日〜同年3月)
「ニュース私だけが知っている」から派生した企画。当時NHK大河ドラマが「武田信玄」だったとあって、「干しぶどうを“信玄のハナクソ”として売り出す」と言うネタからこのプロジェクトが動き出した。この案をアメリカのレーズン会社に持ち掛けたところ、日本支社は乗ったがアメリカの本社からは拒否され、結局没となってしまう。
10回クイズちがうね[編集]
(1987年11月 - 1988年3月) まず最初に単語(語句)を10回連呼させてから、簡単なクイズを出題するという企画。連呼させる単語は、クイズの正解に類似した「誤答」に語感が似ている語句でうっかり間違えて答えてしまうという引っ掛けを楽しむコーナーであった。
例題:「ソックス」って10回いってみて
↓
問題です。「男と女が合体するのは?」
↓
「…え!?セックス? ち〜が〜う〜ねっ!」
↓
答え。「ウルトラマンA」
相手が回答した時に「ち〜が〜う〜ねっ!(イントネーションはage↑age↑で)」と大声で言う所がポイント。
末期には、「手袋を10回言ってみて」→「手袋の反対は?」→「ろくぶて」→「ポカ×6(実際に6回ぶつ)」といった、クイズとは全く関係無い引っ掛けの投稿も多数存在した。
コロンブスのCM[編集]
(1988年8月26日〜9月)
その地方だけでしか見られないCMをビデオに撮って送ってもらうコーナー。当然ラジオでは映像が見えないため、それが難点だった。
テレクラのプロ[編集]
(1988年9月2日〜10月)
テレクラに電話して遊んでいる女子高生からの手紙を待っていたコーナー。
Jrからの手紙[編集]
(1988年3月〜1989年3月)
リスナーに、有名人のジュニアになってもらったつもりでネタを募集。
ネタコーナーだったが、1988年5月に鴻上が、“売れない演歌歌手の息子”を話題にしたところ、鏡五郎の息子が自分の父親をネタにはがき投稿し、長らくヒットに恵まれなかった鏡五郎が番組内で著名になるきっかけとなった。
どっちを選ぶ 究極の選択[編集]
(1988年10月7日〜1989年3月)
「どっちを選ぶ? カレー味のうんことうんこ味のカレー」など、どっちを選んでも問題が生じる選択肢の二択問題を出題するコーナー。後期には「この人に聞く どっちを選ぶ」として、
などといった風刺ネタも数多く登場している。
本番組終了後もこのコーナーは後番組「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン」に受け継がれた。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 月刊ラジオパラダイス 1989年3月号特集「鴻上尚史のオールナイトニッポン大研究」より。
- ↑ 月刊ラジオパラダイス 1988年1月号「ラジパラタイムス・鴻上ANNでコンビニエンス荒し」(67ページ)より。
- ↑ 月刊ラジオパラダイス 1988年3月号記事「鴻上尚史オールナイトがミッドナイトトレインから生放送!!」より。
- ↑ 翌週はTM NETWORKが出演するスペシャルだった。
- ↑ 月刊ラジオパラダイス 1989年6月号サブ特集「グッバイ最終回特集(鴻上尚史のオールナイトニッポン)」より。