「山内一豊」の版間の差分
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2020年1月8日 (水) 04:03時点における版
{{武士 |開始=山内一豊 |肖像=[[画像:Yamanouchi Kazutoyo.jpg|200px|山内一豊]] |時代=[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期 |生誕=[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])<br />[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])とも |死没=[[慶長]]10年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[1605年]][[11月1日]]) |別名=辰之助(幼名)<br />猪右衛門、伊右衛門(通称) |戒名=大通院殿心峯宗伝大居士 |墓所=日輪山[[真如寺]] |官位=正五位下、[[対馬国|対馬]]守、従四位下、[[土佐国|土佐]]守<br />贈従三位 |主君=[[浅井政貞|浅井新八郎]]→[[前野長康]]→牧村政倫→[[山岡景隆]]→<br />[[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀次|秀次]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]] |藩=[[土佐藩]]主 |氏族=[[山内氏]]([[藤原氏]]) |父母=父:[[山内盛豊]]、母:法秀尼(梶原氏?) |兄弟=十郎、通、'''山内一豊'''、[[山内康豊]]、米、合 |妻=正室:'''[[見性院 (山内一豊室)|見性院]]'''<br />(千代?、[[若宮友興]]の娘または[[遠藤盛数]]の娘とも)<br />側室:なし |子=長女:[[与祢]]<br />養子:''[[湘南宗化]]''、'''''[[山内忠義]]''''' }} '''山内 一豊'''(やまうち かつとよ<!--「かずとよ」とせずに、「かつとよ」としている根拠は本文中にあります。「かずとよ」と変更する場合にはその根拠を提示してからお願いします。-->)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]の[[武将]]・[[大名]]である。[[土佐山内氏]]の当主であり[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]らに仕え[[関ヶ原の戦い]]において家康方について功績を認められたため、[[土佐国]]20万石を与えられた。[[土佐藩]]初代藩主。 岩倉[[織田氏]]の重臣・[[山内盛豊]]の三男。母は法秀尼(法秀院とする説もある。尾張の土豪・梶原氏の娘か)。祖父は[[山内久豊]]。兄に[[山内十郎]]、弟に[[山内康豊]]。妻は内助の功で知られる[[見性院 (山内一豊室)|見性院]](「千代」の名で有名だが、実名かどうかは定かでない。[[若宮友興]]の娘とも[[遠藤盛数]]の娘とも言われる)。通称は'''伊右衛門'''もしくは'''猪右衛門'''(いえもん)。のちに康豊の嫡男・[[山内忠義]](第2代藩主)を養子とした。 == 出自と「山内一豊」の読み == === 出自 === 一豊の生まれた[[土佐山内氏|山内氏]]の出自については、江戸時代後半に作成された『[[寛政重修諸家譜]]』に[[土佐藩]]が提出した内容によれば[[藤原秀郷]]の子孫である[[首藤山内氏]]の末裔である。ただし首藤山内氏の明らかな末裔は戦国時代当時には別に[[備後国|備後]]に存在し(この山内氏はその後[[毛利氏]]に帰属し、[[江戸時代]]まで続いている)ている一方、一豊の山内氏は曽祖父以前から八代分について名前すら伝わっておらず本当に首藤山内氏の末裔であるかどうかは不明である。また[[会津地方]]では[[葦名氏]]に仕えた山内氏(首藤山内氏の庶流)の子が流浪して信長に仕えたのが一豊であるとする伝承もあるが、これは尾張時代の一豊の事績と合致しないために否定されている。 一豊の山内氏が[[尾張国]]([[愛知県]]西部)に名を表すようになったのは一豊の祖父・久豊からであると考えられている。それ以前については[[丹波国|丹波]][[三宮城]]([[京都府]][[船井郡]][[京丹波町]]三ノ宮)あたりを拠点としていた小豪族がそれに当たるとも考えられるが、定かではない(その可能性をにおわせる史料は残っている)。ただし一豊の父・盛豊については尾張上四郡を支配する[[守護代]]・岩倉[[織田氏]]に重臣として仕えていたことは間違いない。 === 「山内」「一豊」の読み === 「山内」の読みについて、多くの歴史参考書や辞典などでは「やまのうち」と訓むとされてきた。これは、先に書いたとおり土佐山内氏が祖先であるとする首藤山内氏が「やまのうち」と訓むことによる。現に首藤山内氏が苗字の元とした鎌倉・山内庄([[神奈川県]][[鎌倉市]]山ノ内)の地名は「やまのうち」と訓む。 一方、一豊の山内氏は既出の『寛政重修諸家譜』には「やまうち」とひらがなでルビがふってある。また[[淀殿]]の侍女であった[[大蔵卿局]]が一豊に向けて送った書簡が現在も山内家に残っているがそのあて先はひらがなで「やまうちつしまどの」となっており、これらの点から最近では「やまうち」と訓むのが正しいのではないかと考えられている。 次に「一豊」の読みについては一般的には「かずとよ」と訓まれてきたが、一豊が偏諱を家臣に与えた際の訓みから「かつとよ」であると実際には考えられている。 [[2006年]]に放送された[[大河ドラマ]]『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』では、「かつとよ」「かずとよ」いずれの読みとするか製作サイドでも最後まで問題となった。これについて、現在の山内家より「親しまれている名前で呼んでやってください」とのメッセージがあり「やまうちかずとよ」と読むことになったという。 == 生涯 == === 立身 === [[尾張国]][[葉栗郡]]黒田(現在の[[愛知県]][[一宮市]]木曽川町黒田)にある山内家の居城であった[[黒田城 (尾張国)|黒田城]]に生まれる。当時山内家は[[岩倉城 (尾張国)|岩倉]]織田氏(当主は[[織田信安]]、のち[[織田信賢|信賢]])の配下であり、父・盛豊は家老として仕えていた。ところが岩倉織田氏は同族の有力者・[[織田信長]]と対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれる。まず[[弘治_(日本)|弘治]]3年([[1557年]])に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに[[永禄]]2年([[1559年]])に主家の居城・岩倉城が落城、この際に父・盛豊が討死ないし[[自刃]]した可能性が高い。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し流浪することとなった。 一豊自身は当初は[[苅安賀城]](一宮市)主・[[浅井政貞|浅井新八郎(政貞)]]、[[松倉城 (尾張国)|松倉城]]([[岐阜県]][[各務原市]])主・[[前野長康]]、その後尾張を出て[[美濃国]][[牧村城]](岐阜県[[安八郡]][[安八町]])主・[[牧村政倫]]や[[近江国]][[勢多城]]([[滋賀県]][[大津市]])主・[[山岡景隆]]に仕えるなどした。しかし永禄11年([[1568年]])頃には織田信長に仕え、木下秀吉(のちの[[豊臣秀吉]])の[[与力]]となったと考えられる<ref>この時期の一豊に関する史料がなく、仕官時期の確定は難しい。</ref>。 その後、元亀元年([[1570年]])9月の[[姉川の戦い]]で初陣し<ref>初陣については諸説がある。(金ヶ崎撤退戦か)</ref>[[天正]]元年([[1573年]])8月の[[朝倉氏]]との[[刀禰坂の戦い]]にも参加し顔に重傷を負いながらも敵将[[三段崎為之|三段崎勘右衛門]]を討ち取った<ref>『一豊公御武功附御伝記』による。『[[信長公記]]』にはこのとき取った将校の首の1つとして三段崎六郎の名があり、当該人物か。勘右衛門の死は元亀元年という説も。</ref>。このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢はこのとき矢を抜いた郎党の[[五藤為浄]]の子孫が家宝とし、現在[[高知県]][[安芸市]]の歴史民俗資料館に所蔵されている。 「山内一豊の妻」こと[[見性院 (山内一豊室)|見性院]]との結婚は、元亀年間から天正元年([[1573年]])の間であったと見られる。 これらの功績により、近江国[[浅井郡]]唐国(現在の[[東浅井郡]][[虎姫町]]域)で400石を与えられた。この際に秀吉自身が自身の郎党をほとんど持たないことから彼の直臣に立場を変えたと考えられる。なお、400石という禄は同僚であった[[浅野長政]]・[[堀尾吉晴]]・[[中村一氏]]らが同じ時期に100石台であったことから、彼らより一歩先に出るものであった。 この後[[天正]]5年([[1577年]])には[[播磨国]]有年([[兵庫県]][[赤穂市]]内)を中心に2000石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の[[三木城]]を巡る戦い([[三木合戦]])や[[因幡国|因幡]]の[[鳥取城]]包囲などに参加している。 === 豊臣幕下の小大名として === 信長の死後もそのまま秀吉の家臣として活躍した。天正11年([[1583年]])の[[賤ケ岳の戦い]]では、その前哨である[[亀山城 (伊勢国)|伊勢亀山城]]([[三重県]][[亀山市]])攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]の参加の際には秀吉から命じられて家康を包囲するための付城(前線基地)構築に当たっている。この後秀吉の甥・[[豊臣秀次]]の宿老となり[[天正]]13年([[1585年]])には[[若狭国]][[高浜城]]主、まもなく近江[[長浜城 (近江国)|長浜城]]主となり2万石を領した。この時期に同じく秀次の宿老に列した中に[[田中吉政]]・[[堀尾吉晴]]・[[中村一氏]]・[[一柳直末]]らがいる。なお、同年に起こった[[天正大地震]]によって一人娘の[[与祢]]姫を失った。このころ従五位対馬守に任官。 天正18年([[1590年]])の[[小田原の陣]]にも参戦し、[[山中城]]攻めに参加している。まもなく[[遠江国]][[掛川城|掛川]]に5万1000石の所領を与えられた。掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった[[大井川]]の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する[[駿府城]]主・中村一氏とともに行っている。また[[文禄・慶長の役|朝鮮の役]]には他の秀次の宿老格であった諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や[[伏見城]]の普請などを担当して人夫を供出している。文禄4年([[1595年]])には秀次が謀反の疑いで処刑され、一豊と同じく秀次付き重臣であった[[渡瀬繁詮]]はこの事件に関わって秀次を弁護したために切腹させられた。しかし一豊は他の宿老の田中・中村・堀尾らとともに無関係の立場を貫き、連座を免れた。このときに秀次の所領から8000石を加増されている。 秀吉の死後の[[慶長]]5年([[1600年]])には[[五大老]]の[[徳川家康]]に従って会津の[[上杉景勝]]の討伐に参加し、家康の留守中に[[五奉行]]の[[石田三成]]らが挙兵すると東軍に与している。この最中、一豊は[[下野国]][[小山城|小山]]における軍議(いわゆる「[[小山評定]]」)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言しその歓心を買っている。この居城を提供する案は[[堀尾忠氏]]と事前に協議した際に堀尾が提案したものを盗んだといわれる([[新井白石]]『[[藩翰譜]]』)。ただし東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っているなかで周辺の勢力が東軍につくよう一豊が積極的にとりまとめていたことは事実である。[[三河国]][[吉田城 (三河国)|吉田城]]主の[[池田輝政]]などもこの時期、一豊とたびたび接触しており、なんらかの打ち合わせをしていると考えられる。[[関ヶ原の戦い]]本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の功績を高く評価され[[土佐国]]一国・9万8000石([[太閤検地]]時に長宗我部氏が提出した石高、のちに山内氏自身の検地で20万2,600石余の石高を申告)を与えられた。 === 土佐一国の領主として === {{右| [[画像:Yamauchi Katsutoyo01s3872.jpg|200px|thumb|none|高知城の銅像]] }} 慶長6年([[1601年]])に領地を掛川から土佐に移封となり[[浦戸城]]に入城する。大幅な加増があり余所から入部してきた大名はただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、[[一領具足]]を中心とした旧[[長宗我部氏]]の武士の多くは新領主に反発し土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、[[種崎浜]]での討伐などあくまで武断措置を取ってこれに対応した。この為に命を狙われる危険性があり、築城の際などには5人の[[影武者]]と共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例)。各地にくすぶりを残しこの課題(以前からの山内家家臣を[[上士]]、旧長宗我部氏の家臣を[[郷士]]とした差別的扱い)は次代から[[幕末]]になるまで引き継がれ[[坂本龍馬]]などの人物が生まれることになる。また高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として[[高知城]]を築城し(奉行は関ヶ原の戦いの後浪人となった[[百々綱家]]を7000石で招聘、慶長8年([[1603年]])完成)、[[城下町]]の整備を行った。また、このころに官位が従四位下土佐守に進んでいる。 また、領民に対して食中毒を気にし[[カツオ|鰹]]を[[刺身]]で食べることを禁じた。それに対し、領民がかつおの表面のみをあぶって刺身ではないと言い食すようになった。これが[[鰹のタタキ]]の起源だとされている。 慶長10年(1605年)、高知城にて病死。享年60。 法名:大通院殿心峯宗伝大居士。墓所:[[高知県]][[高知市]]天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。[[京都市]][[右京区]]花園妙心寺町の正法山[[妙心寺]]大通院(遺骨があるのは日輪山真如寺の墓所、妙心寺大通院には位牌のみ)。 高知城には、[[騎馬]]姿で[[槍]]を持った銅像が存在する。 == 官歴と所領推移 == * [[天正]]元年([[1573年]])、近江国唐国(滋賀県東浅井郡虎姫町唐国)に400石を領す。 * 天正3年([[1577年]])、播磨国有年(兵庫県赤穂市有年)に700石を加増。時に、合計2,700石を領す(石高総計については異説あり)。 * 天正10年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]([[1582年]][[10月21日]])、播磨国印南郡(兵庫県南部地域)に500石を加増。 * 天正11年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1583年]][[9月16日]])、河内国禁野(大阪府枚方市禁野本町あたり)に361石を加増。 * 天正12年([[1584年]])9月、近江国長浜城主となって、5,000石を領す。 * 天正13年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1585年]][[6月29日]])、若狭国高浜城主となって1万9,870石を領す。8月、豊臣秀次の宿老となる。[[8月21日 (旧暦)|閏8月21日]]([[10月21日]])、近江国長浜城主となって2万石を領す。 * 天正13年([[1585年]])9月~天正14年([[1586年]])4月 正五位下対馬守に叙任(『一豊公記』)。なお豊臣家臣で一豊と同格の人物の多くは当時従五位下に叙せられているため、正五位下ではなく従五位下の誤記ではないかとの説もある。 * 天正18年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[1590年]][[10月21日]])、遠江国掛川城主として5万石を領す。さらに[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]([[11月22日]])、遠江国周智郡一宮(静岡県周智郡森町一宮)1万9980石の代官にもなる。 * [[文禄]]3年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]([[1594年]][[11月2日]])、伊勢国鈴鹿郡(三重県鈴鹿市)で1,000石加増。 * 文禄4年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]([[1595年]][[8月26日]])、遠江国内の豊臣秀次所有の蔵入地より8,000石を加増。 * [[慶長]]5年([[1600年]])11月、土佐国内9万8,000石(後の検地で20万2,600石)を領有する大名となる。 * 慶長8年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1603年]][[5月6日]])、従四位下に昇叙し、土佐守に転任する(『[[徳川実紀]]』)。 * 慶長10年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[1605年]][[11月1日]])、卒去。 * [[大正]]8年([[1919年]])[[11月15日]]、贈従三位。 == 見性院 == [[Image:Gifu Park M2.JPG|thumb|right|200px|山内一豊と千代 婚礼の地」の碑<br/>[[岐阜公園]]([[岐阜市]])]] 一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻とされており、嫁入りの持参金(貧しいながらも貯めたへそくりとの説もある)で名馬([[名馬一覧#鏡栗毛|鏡栗毛]])を買った。この逸話は特に戦前日本において教科書に採りあげられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。真偽の程は定かではないが、[[千代紙]]の由来になった人物としても知られている。 == 史料 == * 『山内家史料一豊公記』 * 『一豊公御武功附御伝記』 ** どちらも山内家が一豊の功績をまとめたもの == 参考書籍 == * 渡部淳『検証・山内一豊伝説 -「内助の功」と「大出世」の虚実』[[講談社現代新書]]、2005年 ISBN 9784061498129 * [[小和田哲男]]『山内一豊 -負け組からの立身出世学』[[PHP新書]]、2005年 ISBN 9784569646213 * 田端泰子『山内一豊と千代―戦国武士の家族像―』[[岩波新書]]、2005年 ISBN 9784004309741 == 山内一豊を題材とした作品 == === [[小説]] === * [[司馬遼太郎]]『[[功名が辻]]』文芸春秋社、上下巻組。[[1965年]]6月/7月刊 * [[永井路子]]『[[一豊の妻]]』文春文庫、[[1972年]]。千代の悪妻ぶりに一豊が辟易するという『[[功名が辻]]』と全く逆のストーリー。 * [[橋田壽賀子]]『旦那さま大事 山内一豊の妻』ラインブックス、[[1995年]]。同名ドラマのノベライズ。 === [[映画]] === * 『山内一豊の妻』[[新興キネマ]]製作。監督:[[牛原虚彦]]、一豊:[[羅門光三郎]]、千代:[[国友和歌子]]。昭和14年([[1939年]])公開 === [[テレビドラマ]] === * 戦国夫婦物語「功名が辻」([[1966年]]、[[日本教育テレビ|NET]]〔[[テレビ朝日]]の前身〕 一豊:[[三橋達也]]、千代:[[団令子]]) * [[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]([[1973年]]、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]] 一豊:[[東野英心]]、千代:[[樫山文枝]]) : このドラマでは司馬原作の5小説の主人公が活躍しており、『功名が辻』の主人公である千代の朗らかな魅力が人気を博した。 * [[関ヶ原 (テレビドラマ)|関ヶ原]](TBS) 一豊:[[千秋実]] * 旦那さま大事([[1986年]]、[[東京放送|TBS]] 一豊:[[西田敏行]]、千代:[[佐久間良子]]) * 司馬遼太郎の功名が辻([[1997年]]、テレビ朝日・[[東映]] 一豊:[[宅麻伸]]、千代:[[檀ふみ]]) * [[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]([[2006年]]、NHK大河ドラマ 一豊:[[上川隆也]]、千代:[[仲間由紀恵]]) 信長、秀吉、家康と戦国の三傑に仕えた一豊だが上記のように千代を取り上げた作品以外のテレビドラマでの出番はほとんどない。家康を中心に描いたドラマにおいて、小山評定の場面で一瞬登場する程度である(NHK大河ドラマでは『[[徳川家康_(NHK大河ドラマ)|徳川家康]]』・[[1983年]]、『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』・[[1989年]]、『[[葵徳川三代]]』・[[2000年]]など)。 === [[漫画]] === * [[みなもと太郎]]『[[風雲児たち]]』 == 一豊公&千代様サミット == 山内一豊に関連する[[市町村]]が集まって、「一豊公&千代様サミット」が開かれている。[[平成]]6年([[1994年]])結成。旧[[土佐藩]]に当たる[[高知市]]では、読みについては現山内家(元侯爵)口伝(史料、系図、家臣に与えた偏諱も同様)により「やまうち かつとよ」である。 このサミット以外に、血縁関係の市町村が結成するサミットには[[伊達氏#伊達交流サミット|伊達交流サミット]]などがある。 ; 参加市町村 * [[高知市]](高知県) * [[掛川市]](静岡県) * [[一宮市]]、[[犬山市]]、[[岩倉市]](愛知県) * [[東浅井郡]][[虎姫町]]、[[長浜市]]、[[米原市]](滋賀県) * [[大飯郡]][[高浜町]](福井県) * [[郡上市]](旧[[郡上郡]][[八幡町 (岐阜県)|八幡町]])、[[安八郡]][[安八町]](2005年より参加)(岐阜県) == 一豊が仕えた主君たち == * [[浅井新八郎]] * [[山岡景隆]] * [[織田信長]] * [[豊臣秀吉]] * [[徳川家康]] == 山内氏の家臣 == * [[五藤為浄]] * [[五藤為重]] * [[祖父江勘左衛門]] * [[祖父江一秀]] * [[百々綱家]] * [[市川山城]] * [[乾正信]] == 関連項目 == * [[山内神社]] - 山内一豊と[[見性院 (山内一豊室)|正室の見性院]]を奉る神社 * [[山内氏]] * [[近江国]] * [[若狭国]] * [[美濃国]] * [[尾張国]] {{先代次代|[[土佐藩|山内氏(土佐藩初代)藩主]]|1601年 - 1605年|-|[[山内忠義]]}} {{DEFAULTSORT:やまうち かつとよ}} [[Category:土佐山内氏|かつとよ]] [[Category:尾張国の人物]] [[Category:土佐国の人物]] [[Category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:江戸の大名]] [[Category:外様大名]] [[Category:愛知県の歴史]] [[Category:滋賀県の歴史]] [[Category:福井県の歴史]] [[Category:静岡県の歴史]] [[Category:高知県の歴史]] [[Category:1545年生]] [[Category:1605年没]] {{Wikipedia/Ja}}