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− | '''唐'''(とう/から、[[英語|英]]:Tang Dynasty、[[618年]] - [[907年]])は、[[中国]]の王朝。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には、[[中央アジア]]の砂漠地帯も支配する大[[帝国]]で、[[朝鮮半島]]や[[渤海 (国)|渤海]]、[[日本]]などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。[[日本]]の場合は、遣唐使などを送り[[894年]]に[[菅原道真]]の意見で廃止されるまで、影響を受けた。 | + | <nowiki>'''唐'''(とう/から、[[英語|英]]:Tang Dynasty、[[618年]] - [[907年]])は、[[中国]]の王朝。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には、[[中央アジア]]の砂漠地帯も支配する大[[帝国]]で、[[朝鮮半島]]や[[渤海 (国)|渤海]]、[[日本]]などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。[[日本]]の場合は、遣唐使などを送り[[894年]]に[[菅原道真]]の意見で廃止されるまで、影響を受けた。 |
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'''唐'''(とう/から、[[英語|英]]:Tang Dynasty、[[618年]] - [[907年]])は、[[中国]]の王朝。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には、[[中央アジア]]の砂漠地帯も支配する大[[帝国]]で、[[朝鮮半島]]や[[渤海 (国)|渤海]]、[[日本]]などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。[[日本]]の場合は、遣唐使などを送り[[894年]]に[[菅原道真]]の意見で廃止されるまで、影響を受けた。 {{中国の歴史}} == 国号 == 国号の「唐」はもともとは[[晋]]の古名であり、もとは[[山西省]]を中心とする地域を指した。古代には[[堯]]が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、[[周]]の時代には[[武王 (周)|武王]]の子・唐叔虞が立てた'''[[晋 (春秋)|晋]]の別称'''としての唐とは別に、今の[[湖北省]]の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、[[五代十国時代]]には[[李存勗]]の[[後唐]]、十国のひとつ[[南唐]]などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの[[皇帝]]も唐室の血は引いていない。 == 李氏 == 唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ[[武川鎮軍閥]]の出身で、[[北魏]]・[[北周]]以来の八柱国・十二将軍と称される[[鮮卑]]系[[貴族]]の内、八柱国の一家として隋によって唐国公の[[爵位]]を与えられていた。のちに、隋から[[禅譲]]を受けて新朝を立てるという[[易姓革命]]の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。 『[[旧唐書]]』・『[[新唐書]]』によれば、李氏は李耳([[老子]])の子孫と称し、[[西涼]]の初代王・[[李コウ|李暠]]をその遠祖としている。北周に於いて鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)と言う姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗る事になる。しかし唐李氏の系譜はこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見方が支配的であり、建前はどうであれ、現実的には、大野が本来の姓(部族名)であり、李が北魏の漢化政策の時に付けた姓であると見られている。 == 歴史 == 唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史を更に'''初唐'''、'''盛唐'''、'''中唐'''、'''晩唐'''の四代に細分して通観する。 === 初唐(7世紀初頭~) === [[Image:Tang_gao_zu.jpg|right|thumb|200px|李淵]] [[Image:WuZetian.jpg|right|thumb|200px|武則天]] 7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第二代[[煬帝]]の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき[[太原市|太原]]留守(総督)であった[[李淵]]は[[617年]]([[義寧]]元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城([[長安]])を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)にまつりあげてその孫[[恭帝侑 (隋)|恭帝侑]]を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌[[618年]](隋義寧2年、唐[[武徳]]元年)に[[江南]]にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位(高祖)、唐を建国した。 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子[[太宗 (唐)|李世民]]が討ち滅ぼして行った。建国に勲功を立てた李世民は、[[626年]]に高祖の長男で[[皇太子]]の[[李建成]]を殺し(玄武門の変)、第二代の皇帝(太宗)となる。 太宗は外征においては当時の北方の強国[[突厥]]をくだして[[モンゴル高原]]を支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた[[三省六部]]、[[中国の宰相|宰相]]の制度が確立され、その政治は[[貞観の治]]として名高い。その治世について書かれたものが『[[貞観政要]]』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。 唐の基礎を据えた太宗の治世の後、三代([[高宗 (唐)|高宗]])の時代に隋以来の懸案であった[[高句麗]]征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后<ref>武則天により、それまでの「皇帝・皇后」が「天皇・天后」と改名された。</ref>であった武后([[武則天]])とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、[[690年]]([[載初]]元年)国号を周と改めた(武周)。 中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床にある事が多くなると権威は衰え、[[705年]]([[神龍 (唐)|神龍]]元年)、[[中国の宰相|宰相]][[張柬之]]に退位を迫られた。こうして武則天に退位させられた息子の[[中宗 (唐)|中宗]]が再び帝位につき唐を復活、周は一代15年で滅亡した。 しかし今度は、中宗の皇后[[韋后]]が第二の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位した[[殤帝 (唐)|殤帝]]を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥[[玄宗 (唐)|李隆基]]と武則天の娘[[太平公主]]がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇位を離れていた李隆基の父・[[睿宗 (唐)|睿宗]]が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。 7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発した政乱は、これを主導したふたりの皇后の姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。 === 盛唐(8世紀初頭~) === [[画像:China_map.jpg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]] [[Image:Tang_XianZong.jpg|right|thumb|200px|玄宗]] [[712年]]([[先天 (唐)|先天]]元年)、李隆基は睿宗から譲位され、即位して[[玄宗 (唐)|玄宗]]皇帝となった。翌年、太平公主を殺し、完全に権力を掌握した。玄宗の治世の前半は[[開元の治]]と賞され、唐の絶頂期となった。この時期、唐の勢威は[[中央アジア]]の[[オアシス]]都市群にまで及んだが、[[751年]]に[[トランスオクシアナ]]の支配権をめぐって[[アッバース朝]]との間に起こった[[タラス河畔の戦い]]には敗れた。 玄宗は、長い治世の後半には[[楊貴妃]]を溺愛して政治への意欲を失い、宰相[[李林甫]]、ついで貴妃の一族[[楊国忠]]の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の[[安禄山]]と対立し、危険を感じた安禄山は[[755年]]に反乱を起こした。[[節度使]]は、玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方三州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて[[燕]]皇帝と称した。 都の長安も占領され、玄宗は[[蜀]]に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将[[郭子儀]]らの活躍や回鶻([[ウイグル]])の援軍(皇太子[[葉護]]ら)によって、[[763年]]に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の[[史思明]]の名をとって'''[[安史の乱]]'''と呼ばれる。 安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻(ウイグル)には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。 また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた(「[[河朔三鎮]]」)。 各地に小軍事政権([[藩鎮]])が割拠する状態は、後の[[五代十国時代]]まで続き、戦乱の原因となった。 以降、唐は次第に傾いていく。 === 中唐(8世紀半ば~) === 安史の乱により疲弊した唐は中央アジアのみならず[[西域]]までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たるの力を失っていった。また、この頃になると中央では[[宦官]]の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。 これに対し、中興の祖と言われる[[憲宗 (唐)|憲宗]]は[[禁軍]](皇帝直轄軍)を強化する事で中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。孫の[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官を誅殺しようと策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。 === 晩唐(9世紀半ば~10世紀初頭) === 文宗の弟の[[武宗 (唐)|武宗]]は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、[[牛僧孺]]と[[李徳裕]]の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。これは牛李の党争と呼ばれる。 政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、[[859年]]の[[裘甫の乱]]、[[868年]]の[[ホウ勛の乱|龐勛の乱]]に代表される反乱が各地で起きた。[[874年]]ごろから[[黄巣の乱]]が起きる。この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を[[斉]]として皇帝となった。しかし黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務が出来ず、自滅に近い形で長安を去った。この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後[[朱全忠]]と名乗る。この頃になると既に唐朝の支配地域は首都[[長安]]の周辺のみとなった。 経済の先進地である[[河南省|河南]]地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の[[開封]]に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。[[907年]](天祐 (唐)|4年)、朱全忠は[[哀帝 (唐)|哀帝]]より禅譲を受けて[[後梁]]を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に[[華北]]の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は[[五代十国時代|五代十国]]の分裂時代に入る。 == 政治 == ※兵制については下の[[唐#税制・兵制]]の項で述べる。 === 律令体制とその崩壊 === [[西晋]]で作られた[[泰始律令]]以来、何度か改変が重ねられ、[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。 律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして'''格式'''がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。 後述する[[三省六部]]、九品制、[[均田制]]、[[府兵制]]などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を[[律令制]]と呼んでいる。 唐律令は何度か変更がなされ、[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[737年]]([[開元]]25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。 ところが、この時既に律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されると言うわけではなかった。 更に[[安史の乱]]以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。 === 科挙と貴族政治 === 初唐は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]からの風潮を引き継いで完全な[[貴族政治]]である。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団の事を[[武川鎮軍閥|関隴貴族集団]]と呼ぶ。関は[[関中]]([[陝西省]])、隴は現在の[[甘粛省]]東部のことである。 この関隴系の貴族は[[鮮卑]]系の北朝貴族であり、この他には漢族と[[北斉]]の流れを組む山東系貴族、そして[[南朝]]の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系のもの達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。 これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格のものに対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。 このようなことが行われる事は、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたと言う事を示している。 貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る[[門下省]]と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。 上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。 その一方で隋より受け継いだ[[科挙]]も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。更に前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。 この体制を崩そうとしたのが[[武則天]]である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。 武則天の政治自体は[[705年]]の時点で終わったものの、次に権力を握った[[玄宗]]は武則天が登用した[[閣僚]]を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし玄宗が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。 中期以降の唐では[[科挙]]出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめる事は出来ず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。 [[牛僧孺]]と[[李宗閔]]を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、[[政策]]争いから次第に[[党派]]争いへと堕し、この時期には既に唐の国力は傾いていた事もあって反って国力を弱める結果となった。 === 官制 === 律令制下の[[官制]]は'''[[三省六部]]'''を頂点とする。[[中書省]]が詔勅(皇帝の命令)の起草、[[門下省]]がその審議を行い、[[尚書省]]が配下の六部([[礼部]]・[[吏部]]・[[戸部 (六部)|戸部]]・[[兵部]]・[[刑部]]・[[工部 (六部)|工部]])を通して詔勅を実行する。門下省の長官は'''[[侍中]]'''(2名)、中書省の長官は'''[[中書令]]'''(2名)、尚書省の長官は[[尚書令]]と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の[[太宗 (唐)|太宗]]が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の'''[[僕射]]'''(ぼくや、左右一名づつ)が実質上の長官であった。 これら6人の省の長官たちが[[中国の宰相|宰相]]職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。 尚書六部の下には[[漢]]代以来の実務機関である'''[[九寺]]'''、'''[[五監]]'''があり、庶務を担当した。 また三省とは別に宮中の文書を扱う[[秘書省]]・皇帝の衣食などを取り扱う[[殿中省]]・[[後宮]]の管理を行う[[内侍省]]があり、合わせて[[六省]]と呼ばれる。他に監察機関として[[御史台]]があり、[[官僚]]たちの[[監察]]を行った。 これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。 しかし律令制の崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに[[州]]の監察を行う[[観察使]]、国家財政を司る[[度支使]]、運送を司る[[転運使]]、後述の塩鉄専売を司る[[塩鉄使]]などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら'''[[令外官]]'''を'''使職'''(ししょく)と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は[[北宋]]にまで引き継がれ、[[神宗 (宋)|神宗]]の改革まで残る。 これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部の一つ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、'''三司'''と称して中央財政を司る。 またそれまで[[中書省]]の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた[[翰林学士]]により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つ事になる。 === 地方制度 === 唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。 道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする[[州]]([[郡]])と、その下にあって県令を長官とする[[県]]の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。 県の下に100[[戸]]をまとめて1[[里]]とし、5里を1[[郷]]とする行政単位がある。この制度を'''[[郷里制]]'''と呼び、これは[[隋]]より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ[[里正]]と言う役が里の中から選ばれ、[[徴税]]・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して'''[[隣保制]]'''と言うものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。 [[安史の乱]]後は節度使・観察使の[[藩鎮]]勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。 また国内には領土の統治のために連絡用の[[駅伝]]が30[[里]]ごとに置かれており、有事に備えた。 === 宦官 === 唐代は歴代王朝の中でも[[後漢]]・[[明]]と並んで[[宦官]]悪の顕著な時代とされている。唐に於いて最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった[[高力士]]である。高力士は玄宗から絶大な信頼を受け、[[李林甫]]などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は玄宗への忠誠心で全てが出来ているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。 [[安史の乱]]後、[[粛宗 (唐)|粛宗]]擁立に功績を挙げて宦官として始めて宰相となった[[李輔国]]、[[代宗 (唐)|代宗]]の元で[[驃騎将軍]]となった[[程元振]]などを経て、[[神策軍]]を擁した[[魚朝恩]]の台頭の以後はほぼ宦官の存在が唐朝廷の大きな位置を占めることになる。 神策軍は元は唐の地方軍の一つに過ぎなかったのだが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命されるようになり、宦官の権力の拠り所となった。 これら宦官の専横に対して皇帝側でも宦官を排除しようとする動きが出てくる。[[憲宗 (唐)|憲宗]]は前述したように危険な薬物の副作用で宦官を虐殺したとされるが、これを副作用に事付けて宦官を殺そうとしていたのではないかと見る向きもある。憲宗の孫の[[文宗 (唐)|文宗]]は宦官に対して不快感を抱いており、それを察した官僚[[李訓]]・[[鄭注]]は宦官殺害の策を練り、[[835年]]に「甘露が降ると言う瑞兆があった」と言う偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致によりこの計画は失敗し、李訓たちは殺される。これを[[甘露の変]]と呼び、これ以降は宦官を抑えようとする動きは無くなる。 これらのことを皇帝と宦官の対立と見るのは正しくない。宦官の権力の源泉は何といっても皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。その逆もまたある意味で真であり、宦官がこれほどに権勢を振るったのも皇帝側がそれを必要としていたからであると考えなければ説明が付かない。 十九代[[昭宗 (唐)|昭宗]]は[[朱全忠]]の力を借りて宦官勢力を全滅させるが、そのすぐ後に朱全忠により暗殺され、唐自体もまもなくして滅ぶ。これは皇帝と宦官とが運命共同体であったと言う傍証となりえないだろうか。 == 経済 == ※唐代の単位については以下の通り。1畝=約580平方メートル。100斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=37.3g。 === 税制・兵制 === 唐の税制は[[北周]]以来の'''[[均田制]]'''・'''[[租庸調制]]'''であり、兵制は'''[[府兵制]]'''である。この両制度は互いが互いに不可欠な制度である。 均田制はまず全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき[[永業田]](その後、永久にその土地を所有する事が認められ、子孫に受け継がれる)を20[[畝]]、[[口分田]](当人が死亡するか、60歳になるかすると国家に返却する)が80畝支給される。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。 そしてこれらの支給に対して、[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟(穀物)2[[石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]]を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、それを免れるために収める税を[[庸]]と言い、労役一日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。 府兵制はこれらの[[戸籍]]に基づいて3年に1度、丁男に対して[[徴兵]]の義務を負わせた。 均田制・府兵制の両制度の実施には[[戸籍]]が必要不可欠であるが、[[玄宗 (唐)|玄宗]]期になると窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する([[逃戸]]と呼ばれる)事が多くなり、また窮迫した農民から買い取る事により、土地の兼併が進んだために戸籍を正確に把握することが難しくなった。均田・租庸調制と府兵制は崩壊し、それに代わる新しい税制・兵制が必要となる。 新しい兵制は[[節度使]]・[[募兵制]]である。それまでは労働税として[[兵役]]に就かせていたが、節度使制ではその土地の租税を節度使が徴収し、それを基に兵士を雇い入れて国境防備に使うというものである。 [[710年]]に[[安西節度使]]([[天山南路|天山山脈南路]]の防衛)を置いたのを初めとして[[719年]]までに10の節度使を設置している。当初はあくまで国境警備のためのものであり、[[辺境]]地域にしか置かれていない。しかしこの制度は節度使に過度の権力を持たせる事になり、[[安史の乱]]の原因となった事は前述した。安史の乱後は内地にも節度使が置かれるようになる。このことで唐は半割拠状態となり、地方の節度使は唐に対する税の貢納は行っていたものの、徐々に自立色を深めていき、最終的には節度使により唐は滅ぼされることになる。 [[780年]]に施行された新しい税制は、それまで貧乏・富裕関らずに均等な額の税を徴収していたのを財産に応じた額に改めたものである。[[夏]](6月)と[[秋]](11月)の年二回徴収するので[[両税法]]と呼ばれる。ただし夏に収めるものは[[麦]]であり、秋に収めるものは[[粟]]と[[稲]]である。税額は一定しておらず、まずその年に使われる年間[[予算]]を計算し、それに併せて税額を各地に割り当てるというものである。 かつて[[安禄山]]軍から投降した三人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の三つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この三つを河朔三鎮と呼んでいる。 [[憲宗 (唐)|憲宗]]は節度使勢力を抑えるために自立傾向の強い節度使に対して討伐を加え、その結果、反抗の度合いが薄くなった節度使の権限を縮小し、その任期を短くする事で再び反抗することを抑えようとした。この思惑は成功はするが、思わぬ副作用を生んだ。任期を短くされた節度使のポストは官僚が中央へ帰るときに使う賄賂を溜め込むための物となり、短い任期の中で厳しい収奪と兵士の食料・給料などの着服が行われるようになる。 この影響は初めのうちは不満を持った兵士が兵乱(兵士中心の反乱)を起こす事により、上司たる節度使を追放し、自分達に都合の良い節度使を地位に据えるという形で現れる。このようになると新たに強い権限を得た上級兵士の間では不正が横行するようになり、その不正を是正するために強硬な姿勢を取った節度使もいたが、これも追放された。このような兵乱の代表が[[裘甫の乱]]である。 兵乱はあくまで自分達の利益のために背いただけであって、何れは矛を収めるのが、いわば予定調和としてあった。しかし収奪された民衆は節度使にも不満を抱くが、それを抑制できない唐政府にも不満を抱き、唐にとってより危険な存在であった。[[ホウ勛の乱|龐勛の乱]]は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱(民衆が中心の反乱)と化した。この乱は[[黄巣の乱]]の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。 === 専売制 === 安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために[[758年]]に[[塩]]と[[鉄]]の[[専売制]]を実施した。 専売の統括をする役職が[[塩鉄使]]である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、出来た塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。 専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。 生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。 === 貴族の没落と市民経済の勃興 === 科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格のためには長期間にわたって勉強にのみ集中できる環境が必要であり、また書物を購入するための金額もかなりの高額になることから合格するにはそれなりの財産を持つ事が必要であった。 貴族によって科挙が軽視されていた時代に科挙を受けていた層は新興地主層で、唐全体の流通が活性化したことで財産を積み上げてきた。これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を元に更に財産を積み上げて行き、豪商・富農と呼べる存在が現れてくる。 商業が活発化したことは都市の市(いち)の変化によっても知れる。唐前半までの市は場所と時間が限られており、商売するためには役所に登録しなくてはならず、また都市の区画ごとに壁を作って、自由な流通を妨げていた。しかし唐後半より、商取引を望むものの増加に伴い、そこかしこで市が開かれるようになり、時間制限や登録制は有名無実化した。また、都市以外の場所でも[[草市]]([[墟市]])の形成が見られた。 また[[煬帝]]によって作られた[[大運河]]も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・[[長安]]より、大運河沿いの商業都市・[[開封]]が中国の中心都市の地位を奪うことになる。 これら社会の変化に貴族層は付いていけず、貴族の影響力の牙城であった[[門下省]]はその実質を失い、[[中書省]]に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。前述のように退勢を自覚した貴族層は科挙を受けるようになるが、流れを止めることは出来ず、[[五代十国時代]]の戦乱の中で中国史に於ける貴族と言う存在は消滅する。 これら新興地主層は五代十国の中でも更に勢力を積み上げて、[[北宋]]代の[[形勢戸]]に繋がり、この層が科挙官僚を生み出す事で[[士大夫]]層の形成へと繋がる。 === 荘園の形成 === 初唐の[[荘園]]は皇族と貴族層によって経営されていた。荘園と[[均田制]]とは相容れない存在のはずであるが、間違いなく荘園は存在していた。貴族達の持つ均田制はその範疇外にあったと見る説もあり、そもそも均田制が全国的に施行されていたのかを疑問視する説もあるが、研究途上であり、容易に結論は出ない。 均田制が崩壊して、両税法に変わった。このことは別の面から見れば大土地所有を公認した事になる。 荘園の大きさは大体10頃から100頃(58~580[[アール]])の大きさで、雇い入れた客戸(本籍地を離れた民)あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を[[小作農]]に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借り賃で破産してそのまま荘園に囲い込まれる例も多かった。 後期以降は新興地主層が荘園の主な経営者となるが、他にも新たに台頭した[[節度使]]勢力も積極的に荘園経営に取り組み、財力を蓄えた。 == 文化 == 首都の[[長安]]は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。[[日本]]や[[新羅]]、[[吐蕃]]など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。 === 思想・宗教 === 科挙制度において[[儒教]]の経典が必須科目となり、太宗は[[孔穎達]]に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった[[四書五経|五経]]を一つの解釈にまとめる『[[五経正義]]』を編纂させた。このことによりそれまでの不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。しかしこれによって逆に思想の発展が阻害されることにもなった。 [[後漢]]代に伝来した[[仏教]]は[[魏晋南北朝時代]]の混乱の中で飛躍的にその勢力を伸ばし、在来宗教である[[道教]]を圧するほどになった。[[玄奘]]・[[義浄]]などは[[インド]]へ赴いて大量の経典を持ち帰った。貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に[[武則天]]は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には[[禅宗]]・[[浄土教]]・[[密教]]・[[華厳宗]]などがあり、それぞれ栄えたが、[[三階教]]は徹底的に弾圧された。 皇室の李氏は李耳([[老子]])を祖とすると称していたので、[[道教]]は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後と言う原則が定められていた。特に玄宗はその[[廟号]]も道教風であり、道教に傾倒している。しかしこの保護はあくまで皇族の間に留まり、民間では圧倒的に仏教の勢力が強かった。 その他にも長安には[[イスラム教]]・[[マニ教]]・景教([[ネストリウス派]][[キリスト教]])・{{lang|zh|祆教}}(祆は示偏に天。[[ゾロアスター教]])などの寺院が立ち並び国際都市としての景観を持っていた。これらが領土の広さと並んで唐の世界国家としての象徴である。 しかし安史の乱以後は領土が縮小し、西方を[[吐蕃]]に奪われたことで次第に国粋主義的になった。第15代武宗は道教を信奉し、仏教を初めとした外来宗教を弾圧した([[会昌の廃仏]]・[[三武一宗の法難]]の第三)。ただしこの弾圧は宗教的な色は薄く、出家することで税逃れをする私度僧と呼ばれる者を[[還俗]]させる事で財政の改善を狙う目的が主だった。しかしながらこの弾圧を契機として、[[仏教]]はもとより上記の各宗教も大打撃を被り、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教も、[[禅宗]]や再興した[[天台宗]]が中心となるが、それらは、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなっていた。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である[[百丈]][[清規]]中の「'''一日作さざれば一日食らわず'''」という有名な言葉に表されている。 また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、[[韓愈]]の著した『[[原道]]』『[[原性]]』などの中に見られる思想で、[[堯]][[舜]]や[[孔子]]以来脈々と続く「[[道統]]」論を提唱し、[[宋学]]の先駆となった。 === 文学 === 唐は歴代でも[[漢詩]]の最高峰とされる時代である。[[日本]]にも『[[唐詩選]]』などを通じて多く紹介されており、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。 初唐の代表的詩人として、[[王勃]]・[[楊炯]]・[[盧照鄰]]・[[駱賓王]]の四人を初唐の四傑と呼んでいる。盛唐の詩人としては[[王維]]・[[孟浩然]]・[[岑参]]・[[高適]]・[[王昌齢]]などがあり、更に'''[[李白]]'''・'''[[杜甫]]'''の中国歴代でも最高とされる両人がいる。中唐では[[白居易]]・[[元シン|元<font lang="zh">稹</font>]](<font lang="zh">稹</font>は禾編に真)が代表とされ、晩唐の代表が[[李商隠]]である。 中唐において[[韓愈]]・[[柳宗元]]らにより、それまでの[[六朝時代|六朝]]から引き継いだ[[四六駢儷体]]と呼ばれる華美であるが、空疎になってしまう事もある文体を[[漢]]代の質実剛健な物に戻そうと言う運動が行われ、それが漢詩においても反映されている。 [[歴史]]の分野においては、太宗によりそれまでに作られていなかった時代についての[[歴史書]]を作るようにとの命が出され、『[[晋書]]』・『[[梁書]]』・『[[陳書]]』・『[[周書]]』・『[[隋書]]』が[[房玄齢]]らにより編纂された。『[[史記]]』や『[[漢書]]』などは私選の書物が後から国定に昇格したものであるが、この事業の後は[[正史]]は国選のものとされ、滅びた王朝の正史を作る事が時代の王朝にとってある種の義務となった。しかし「このことにより、正史が国家の正当を主張するための道具とされるようになった」と批判する人もいる。また[[劉知幾]]による『[[史通]]』は中国に於ける史学を開いた存在とされ、後世の史学者にとって必携の書となった。 六朝時代に誕生した志怪小説が伝奇小説へと内容的に変貌を遂げて流布するようになり、『[[古鏡記]]』や『[[遊仙窟]]』、『[[杜子春伝]]』といった数々の作品が生み出された。 === 美術 === [[Image:Westerner_on_a_camel.jpg|right|thumb|200px|唐三彩]] 唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは[[莫高窟]]や[[龍門洞窟|龍門石窟]]などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、更に仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。 絵画に於いては[[閻立本]]・[[呉道玄]]・[[李思訓]]・王維と言った名前が挙がる。閻立本は[[太宗 (唐)|太宗]]に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。[[ボストン美術館]]にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、[[北宋]]代の模写であると推察されている。呉道玄は[[玄宗]]に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたと言う。[[蘇軾]]曰く「画は呉道士(道玄の元の名)に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は[[武則天]]期の人で、色鮮やかな[[山水画]]を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ[[北宗画]]・[[南宗画]]の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。この代表として同時代の絵画評論文集『[[唐朝名画録]]』は[[王墨]]・[[李霊省]]・[[張志和]]の三人を挙げている。 [[王羲之]]によって芸術の域にまで高められた書はその王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が[[虞世南]]・[[チョ遂良|褚遂良]]・[[欧陽詢]]である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して[[張旭]]は狂草と呼ばれる奔放な書体をつくり、更に張旭に師事した[[顔真卿]]は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と。 [[陶磁器]]の分野では唐[[三彩]]と呼ばれる逸品が作られた。これらには[[サーサーン朝]]の影響があると言われており、その名のとおり色鮮やかなことが特徴である。人物像や動物像([[涌]])などが多く、器になっているものも実用性の低いものが多い。一方、高温度で焼成する[[磁器]]も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。 == 国際関係 == 唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばであり、東西は朝鮮北部から[[天山山脈]]のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域では異民族を緩やかに支配する間接支配を取っている。 唐の異民族支配は'''[[羈縻政策|羈縻支配]]'''(きびしはい)と呼ばれる。この政策は[[冊封]]と似ているが、少し違い、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、その長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封との間を取ったものと言える。 都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。 *安西 - [[640年]]設置。[[シルクロード]]の天山南路の守備。 *安北 - [[647年]]設置。外[[モンゴル]]支配。 *単于 - [[650年]]設置。内モンゴル支配。 *安東 - [[668年]]設置。[[朝鮮]]・[[満州]]支配。 *安南 - [[679年]]設置。[[ベトナム]]・その他の南海諸国支配。 *北庭 - [[701年]]設置。天山北路の守備。 盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、[[高句麗]]の[[高仙芝]]、[[百済]]の[[黒歯常之]]、[[日本人]]の[[阿倍仲麻呂]]や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。 安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境地方への節度使の配置を進め、羈縻支配を改めていった。しかしこのことは周辺諸国の動きを活発化させ、ウイグルや吐蕃により唐の周辺は非常に不安定になる。9世紀にはそのウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。 === 北方 === [[6世紀]]に巨大帝国を築いた[[突厥]]は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の[[626年]]には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。 しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、[[630年]]には突厥から独立した[[鉄勒]]と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府(設置当初の名称は燕然都護府)・単于都護府を設置した。 太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)は[[ハーン]]、すなわち[[遊牧民]]世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。 しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、[[682年]]に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は[[745年]]に[[ウイグル]]を中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる[[遊牧国家]]を建設する。 ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし[[8世紀]]に[[キルギス人|キルギス]]の攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。 === 西方 === 唐は[[640年]]に[[高昌国]](現[[トルファン]])を滅ぼしたのを初めとして、[[シルクロード]]沿いの[[オアシス]]国家を服属させて安西都護府([[クチャ]])を設置し、[[西域]]経営を行った。 また[[635年]]に[[青海省|青海]]の[[吐谷渾]]を支配下に置き、[[チベット高原]]の[[吐蕃]]も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を和蕃[[公主]]として嫁がせるなどして懐柔に努めた。 唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・[[パミール高原]]以西の[[トランスオクシアナ]]にまで及ぶが、[[751年]]の[[タラス河畔の戦い|タラス河畔の敗戦]]によって頓挫、中央アジアの支配権は[[イスラム帝国]]に譲ることになる。 さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の[[787年]]には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、[[822年]]に唐と和睦した。 さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、[[天山ウイグル王国]]や[[甘州ウイグル]]、[[タングート]](後の[[西夏]])などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降は[[インド洋]]・[[南シナ海]]を通じて[[西アジア]]の商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くの[[アラブ人]]や[[ペルシア人]]のムスリム商人が[[広州]]に来航した。 === 東方 === 隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の[[高句麗]]に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし[[新羅]]と連合して[[660年]]にまず南の[[百済]]を滅ぼし、[[668年]]には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、[[平壌]]に安東都護府を設置する。 しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配をめぐって唐と対立するようになると安東都護府は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の[[冊封]]を受けて和解した。 一方同じ頃、東北地方([[満州]])ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国(のち[[渤海 (国)|渤海]])を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・[[大武芸]]は[[黒水靺鞨]]の支配をめぐって唐と対立し、[[733年]]には[[水軍]]を送って[[山東半島]]の登州を一時占領したが、間もなく講和した。 渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。 === 南方 === [[南越]]の滅亡以来、長い間中国の支配下に置かれていた[[ベトナム]]は、漢代から何度と無く独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治は出来ていなかったようだ。 安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた[[雲南省|雲南]]の[[南詔]]が勢力を拡大、[[四川省|四川]]の[[成都]]付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。 === 日本との関係 === [[日本]]からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が[[660年]]に日本の同盟国である朝鮮半島の[[百済]]を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに[[663年]]、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を[[白村江の戦い]]で打ち破る。 しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて[[遣唐使]]による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。 [[9世紀]]になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。[[894年]]、[[菅原道真]]の建議により遣唐使は廃止され、その後[[明]]の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。 == 脚注 == <references/> == 唐の皇帝と元号 == [[画像:唐系図.PNG|180px|thumb|right|唐の系図]] <!--この表はウィキ英語版[[EN:Tang Dynasty|Tang Dynasty]]から持ってきたものです。--> <table border="1" cellpadding="2" cellspacing="0"> <tr><th style="background:#efefef;">[[皇帝]]</th><th style="background:#efefef;">名</th><th style="background:#efefef;">統治年数</th><th style="background:#efefef;">[[元号]]</th></tr> <tr><td>[[李淵|高祖]]</td><td>李淵</td><td>[[618年]]-[[626年]]</td> <td>[[武徳]] [[618年]]-[[626年]]<br></td></tr> <tr><td>[[太宗 (唐)|太宗]]</td><td>李世民</td><td>[[626年]]-[[649年]]</td> <td>[[貞観 (唐)|貞観]] [[627年]]-[[649年]]<br></td></tr> <tr><td>[[高宗 (唐)|高宗]]</td><td>李治</td><td>[[650年]]-[[683年]]</td> <td>[[永徽]] [[650年]]-[[655年]]<br> [[顕慶]] [[656年]]-[[661年]]<br> [[龍朔]] [[661年]]-[[663年]]<br> [[麟徳]] [[664年]]-[[665年]]<br> [[乾封]] [[666年]]-[[668年]]<br> [[総章]] [[668年]]-[[670年]]<br> [[咸亨]] [[670年]]-[[674年]]<br> [[上元 (唐高宗)|上元]] [[674年]]-[[676年]]<br> [[儀鳳]] [[676年]]-[[679年]]<br> [[調露]] [[679年]]-[[680年]]<br> [[永隆 (唐)|永隆]] [[680年]]-[[681年]]<br> [[開耀]] [[681年]]-[[682年]]<br> [[永淳]] [[682年]]-[[683年]]<br> [[弘道 (唐)|弘道]] [[683年]]</td></tr> <tr><td>[[中宗 (唐)|中宗]]</td><td>李顯</td><td>[[684年]]([[705年]]-[[710年]]に[[重祚]])</td> <td>[[嗣聖]] [[684年]]</td></tr> <tr><td>[[睿宗 (唐)|睿宗]]</td><td>李旦</td><td>[[684年]]([[710年]]-[[712年]]に重祚)</td> <td>[[文明 (唐)|文明]] [[684年]]</td></tr> <tr><td>[[武則天]]</td><td>武照</td><td>[[684年]]-[[705年]]</td> <td>[[光宅]] [[684年]]<br> [[垂拱]] [[685年]]-[[688年]]<BR> [[永昌 (唐)|永昌]] [[689年]]<BR> [[載初]] [[690年]]<BR> [[天授 (周)|天授]] 690年<BR> [[如意]] [[692年]]<BR> [[長寿 (周)|長寿]] 692年<BR> [[延載]] [[694年]]<BR> [[証聖]] [[695年]]<BR> [[天冊万歳]] 695年<BR> [[万歳登封]] [[696年]]<BR> [[万歳通天]] 696年<BR> [[神功]] [[697年]]<BR> [[聖暦]] [[698年]]<BR> [[久視]] [[700年]]<BR> [[大足]] [[701年]]<BR> [[長安 (周)|長安]] 701年</td></tr> <tr> <td colspan="4" align="center" style="background:#efefef;">'''武周([[690年]] - [[705年]])'''</td></tr> <tr><td colspan="4" align="center" style="background:#efefef;">'''唐の復興'''</td></tr> <tr><td>中宗</td><td>李顯</td><td>[[705年]]-[[710年]]</td> <td>[[神龍 (唐)|神龍]] [[705年]]-[[707年]]<br> [[景龍 (唐)|景龍]] [[707年]]-[[710年]]</td></tr> <tr><td>[[殤帝 (唐)|殤帝]]</td><td>李重茂</td><td>[[710年]]</td> <td>[[唐隆]] [[710年]]</td></tr> <tr><td>睿宗</td><td>李旦</td><td>[[710年]]-[[712年]]</td> <td>[[景雲 (唐)|景雲]] [[710年]]-[[711年]]<br> [[太極 (唐)|太極]] [[712年]]<br> [[延和 (唐)|延和]] [[712年]]</td></tr> <tr><td>[[玄宗 (唐)|玄宗]]</td><td>李隆基</td><td>[[712年]]-[[756年]]</td> <td>[[先天 (唐)|先天]] [[712年]]-[[713年]]<br> [[開元]] [[713年]]-[[741年]]<br> [[天宝 (唐)|天宝]] [[742年]]-[[756年]]</td></tr> <tr><td>[[粛宗 (唐)|粛宗]]</td><td>李亨</td><td>[[756年]]-[[762年]]</td> <td>[[至徳 (唐)|至徳]] [[756年]]-[[758年]]<br> [[乾元 (唐)|乾元]] [[758年]]-[[760年]]<br> [[上元 (唐粛宗)|上元]] [[760年]]-[[761年]]</td></tr> <tr><td>[[代宗 (唐)|代宗]]</td><td>李豫</td><td>[[762年]]-[[779年]]</td> <td>[[宝応]] [[762年]]-[[763年]]<br> [[広徳 (唐)|広徳]] [[763年]]-[[764年]]<br> [[永泰 (唐)|永泰]] [[765年]]-[[766年]]<br> [[大暦 (唐)|大暦]] [[766年]]-[[779年]]></td></tr> <tr><td>[[徳宗 (唐)|徳宗]]</td><td>李适</td><td>[[780年]]-[[805年]]</td> <td>[[建中 (唐)|建中]] [[780年]]-[[783年]]<br> [[興元]] [[784年]]<br> [[貞元 (唐)|貞元]] [[785年]]-[[805年]]</td></tr> <tr><th style="background:#efefef;">[[皇帝]]</th><th style="background:#efefef;">名</th><th style="background:#efefef;">統治年数</th><th style="background:#efefef;">[[元号]]</th> <tr><td>[[順宗 (唐)|順宗]]</td><td>李誦</td><td>[[805年]]</td> <td>[[永貞 (唐)|永貞]] [[805年]]</td></tr> <tr><td>[[憲宗 (唐)|憲宗]]</td><td>李純</td><td>[[806年]]-[[820年]]</td> <td>[[元和 (唐)|元和]] [[806年]]-[[820年]]</td></tr> <tr><td>[[穆宗 (唐)|穆宗]]</td><td>李恆</td><td>[[821年]]-[[824年]]</td> <td>[[長慶]] [[821年]]-[[824年]]</td></tr> <tr><td>[[敬宗 (唐)|敬宗]]</td><td>李湛</td><td>[[825年]]-[[826年]]</td> <td>[[宝暦 (唐)|宝暦]] [[824年]]-[[826年]]</td></tr> <tr><td>[[文宗 (唐)|文宗]]</td><td>李昴</td><td>[[826年]]-[[840年]]</td> <td>宝暦 [[826年]]<br> [[大和 (唐)|大和]][[元号一覧 (中国)#唐|<sup>1</sup>]] [[827年]]-[[835年]]<br> [[開成 (唐)|開成]] [[836年]]-[[840年]]</td></tr> <tr><td>[[武宗 (唐)|武宗]]</td><td>李炎</td><td>[[840年]]-[[846年]]</td> <td>[[会昌]] [[841年]]-[[846年]]</td></tr> <tr><td>[[宣宗 (唐)|宣宗]]</td><td>李忱</td><td>[[846年]]-[[859年]]</td> <td>[[大中]] [[847年]]-[[859年]]</td></tr> <tr><td>[[懿宗 (唐)|懿宗]]</td><td>李漼</td><td>[[859年]]-[[873年]]</td> <td>大中 [[859年]]<br> [[咸通]] [[860年]]-[[873年]]</td></tr> <tr><td>[[僖宗 (唐)|僖宗]]</td><td>李儼</td><td>[[873年]]-[[888年]]</td> <td>咸通 [[873年]]-[[874年]]<br> [[乾符]] [[874年]]-[[879年]]<br> [[広明 (唐)|広明]] [[880年]]-[[881年]]<br> [[中和 (唐)|中和]] [[881年]]-[[885年]]<br> [[光啓]] [[885年]]-[[888年]]<br> [[文徳 (唐)|文徳]] [[888年]]<br></td></tr> <tr><td>[[昭宗 (唐)|昭宗]]</td><td>李曄</td><td>[[888年]]-[[904年]]</td> <td>[[龍紀 (唐)|龍紀]] [[889年]]<br> [[大順 (唐)|大順]] [[890年]]-[[891年]]<br> [[景福 (唐)|景福]] [[892年]]-[[893年]]<br> [[乾寧]] [[894年]]-[[898年]]<br> [[光化]] [[898年]]-[[901年]]<br> [[天復 (唐)|天復]] [[901年]]-[[904年]]<br> [[天祐 (唐)|天祐]] [[904年]]</td></tr> <tr><td>[[哀帝 (唐)|哀帝]]</td><td>李祝</td><td>[[904年]]-[[907年]]</td> <td>天祐 [[904年]]-[[907年]]</td></tr> </table> == 参考文献 == *『世界帝国の形成』([[谷川道雄]] [[講談社現代新書]]452 新書東洋史2 中国の歴史2 [[1977年]]) *『中国史2』([[山川出版社]] [[1996年]]) *『隋唐帝国と古代朝鮮』([[砺波護]] [[中央公論社]] [[1997年]])ISBN 4124034067 *『隋唐の国際秩序と東アジア』([[金子修一]] 名著刊行会 [[2001年]]) *『絢爛たる世界帝国 : 隋唐時代』([[気賀沢保規]] [[講談社]] [[2005年]] 『中国の歴史』06)ISBN 4062740567 == 関連項目 == *[[唐物語]] == 外部リンク == *[http://www.hoolulu.com/zh/ 二十五史(簡体中国語/繁体中国語)] ---- {| border="1" align="center" |-align="center" |width="30%"|前の時代:[[隋]] |width="40%"|[[中国の歴史]] |width="30%"|次の時代:[[五代十国時代]] |} {{jawp}} [[Category:隋唐|*とう]]