「アグネス・チャン」の版間の差分
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[[Image:アグネス・チャン1.jpg|400px|thumb|アグネス・チャン]] '''アグネス・チャン'''とは、[[国際連合児童基金|ユニセフ]]とは異なる集金団体[[日本ユニセフ協会]](通称:ユ偽フ)の代表者である。 ユニセフ東京事務所(渋谷区)は、ニューヨーク本部直轄の国際機関事務所。日本ユニセフ協会(港区)は日本国内の財団法人。前者に寄付をすれば、全額が国連ユニセフに行く。後者に寄付をすれば、財団の経費として何割かが抜かれ、残りが国連ユニセフに行く。 ちなみに、[[黒柳徹子]]は前者の「ユニセフ親善大使」。 アグネス・チャンは後者の「財団法人日本ユニセフ協会大使」。 == 概要 == [[Image:アグネス・チャン2.jpg|600px|thumb|アグネス・チャン]] [[1972年]]、代表曲の一つである「[[ひなげしの花]]」で、[[日本]]での歌手[[デビュー]]を果たす。高く澄んだ歌声と愛くるしいルックス、たどたどしいが一生懸命[[日本語]]で歌う姿勢が受けて、一躍人気[[アイドル]]となった。日本ではその後も「[[草原の輝き (アグネス・チャンの曲)|草原の輝き]]」、「[[小さな恋の物語 (アグネス・チャンの曲)|小さな恋の物語]]」、香港における「The Circle Game」などヒット曲は多く、[[台湾]]や[[アメリカ合衆国]]などでも音楽活動を行っている。歌手としての活躍のほか、[[1998年]]には初代[[日本ユニセフ協会]]大使に就任するなど、ボランティアやチャリティーなどを通じた社会奉仕や貧困や平和についての発言でも知られている。近年では[[ピンクリボン]]運動への参加や、[[大学]]の客員教授や[[ニュージーランド]]の高校の学園長などとしての教育活動も行っている。 == ひろゆき、アグネスに公開質問状「募金額100%をユニセフ本部に送る黒柳さんの口座を紹介しないのはなぜ?」 == アグネス・チャンさんへの公開質問状 こんにちは。西村と申します。<br/> アグネスさんが、下記のページに書いていることに、どうしても理解出来ないことがあり、<br/> お答え頂きたく、公開質問状という形で書かせて頂きました。 http://www.agneschan.gr.jp/blog/?p=7324 「今一番大事なのは、子供達の為に私たちもできることを考える事です。」<br/> と仰られていますが、アグネスさんが募金先にあげている日本ユニセフ協会は、2012年度、募金の81%しか、ユニセフ本部に送っていません。 一方、ユニセフ親善大使をされている黒柳徹子さんは、募金の100%をユニセフ本部に送っているそうです。 http://www.inv.co.jp/~tagawa/totto/hope.html 子供のためを思えば、100%をユニセフ本部に送っているユニセフ親善大使の黒柳徹子さんを薦めるべきではないでしょうか? さて、私からの質問は、1点です。 ・募金額の100%をユニセフ本部に送っている黒柳徹子さんの振込先口座を紹介しないのはなぜですか? 以上となります。 ご多忙だと思いますので、ご回答を頂けなくても構いませんが、子供のためを思えば、子供により多くのお金が送られる手段を、影響力のあるアグネスさんに御紹介頂けると信じております。<br/> よろしくお願いします。 西村博之 http://hiro.asks.jp/90907.html == 自民党・小野寺まさる議員「日本ユニセフ協会に僕は驚愕した」 == [[小野寺まさる]] @onoderamasaru [[東日本大震災]]の募金では、日本ユニセフ協会は生活支援物資の殆どを“[[生協]]”から調達をしていた。<br/> しかも仕入価格は異常に高く、又「可能な限り被災地に近い業者から物資を購入する」との意図は欠片も無かった。<br/> 因みに、日本ユニセフ協会の各地区の支部の事務所はその殆どが全国各地の“生協”内にある。 [https://twitter.com/onoderamasaru/statuses/400778471367901184 ツイッター] 日本ユニセフ協会は、東日本大震災時に複数の企業から相当な量のミネラルウォーターを支援物資として受けとりながら、<br/> 何故か震災の募金からも相当なミネラルウォーターを購入していた。 そこで「支援物資の量と購入量、その配布先は?」と公式に質したが団体の答えは「お教え出来ない」…僕は驚愕した。 [https://twitter.com/onoderamasaru/statuses/400801353053650945 ツイッター] [http://www.unicef.or.jp/partner/partner_ichi.html日本ユニセフ協定地域組織一覧] == 日本ユニセフは天下り団体 == [[橋本大二郎]] :ユニセフは、世界の子供たちを助けるために設けられた、国連の一機関です。 :一方、日本ユニセフ協会は、ユニセフへの募金など、日本国内で、ユニセフの活動を支援するためにつくられた団体で、現在は、天下り団体の一つになっています。 [https://twitter.com/daichanzeyo/status/50904215345827840 ツイッター] == 日本ユニセフ問題とは? == 日本からユニセフ本部への送金方法には主に2つある。 一つはユニセフ大使の[[黒柳徹子]]氏の専用口座に入金する方法。これは寄付金全額がユニセフ本部へと送られる。個人として集めてはいるが、黒柳氏自体がユニセフ本部公認の大使で、ユニセフ本部の記事にもこの活動は好意的に紹介され、一つの送金方法なのは間違いない。 他方は[[アグネス・チャン]]の日本ユニセフに寄付する方法。寄付金の2割程度が日本ユニセフ(アグネス)の収益で、残り8割程度がユニセフ本部へと送られる。 次に日本ユニセフの存在意義について述べる。 「ユニセフ大使の黒柳氏が寄付金全額をユニセフ本部へと渡す」 ということを知らない人にとっては、日本ユニセフしかユニセフへの送金方法を知らないわけだから存在意義が発生する。逆に言うと、日本ユニセフは黒柳氏の活動を知らない人々の無知を利用し、寄付金を集めてきたことになる。 もしも黒柳氏が日本ユニセフとは異なり寄付金全額を届けてることが周知されると、日本ユニセフの存在意義は薄まる。わざわざ100の寄付金を約80に減らす為に日本ユニセフへ寄付する人は少ないからだ。だからこそ、日本ユニセフは、ユニセフ大使の黒柳氏の活動(=寄付金全額がユニセフ本部へ渡る事)を人々から隠す。 ここで西村氏による日本ユニセフへの公開質問に繋がる。 「日本ユニセフがユニセフ大使、黒柳氏の専用口座を紹介しないのはなぜですか?」西村氏は答えを知っていて質問する。 「意図的に黒柳氏の専用口座を言わない事で人々の無知を利用して黒柳氏ではなく日本ユニセフへ寄付を誘導し、寄付金の2割程度を懐に入れてるのね」という批判が前の質問には込められる。 (皆がやってることが正しいとは限らないが)寄付金のうち一定額を活動費と称して懐に収める慈善団体もいるかもしれない。しかし大半の正しい慈善団体は日本ユニセフみたく人々の無知を利用して集めた金を懐に入れような悪知恵は働かしてないはずだ。 また、騒動が起きたのは、寄付金着服の事実を日本ユニセフが寄付者に対し“十分に”周知せずに募金活動を行い、事実を知った皆が衝撃を受けたからだ。さらに、着服した寄付金の詳細な支出報告書が未公表なことも、日本ユニセフが批判される結果を生んでいる。 == 略歴 == * [[1971年]]に『Second Folk Album』と題する[[オムニバス]]アルバムで[[ジョニ・ミッチェル]]の「The Circle Game」を姉の[[アイリーン・チャン]]とカバー。シングル化されてヒットした。 * 1972年には姉と[[張徹]]監督の映画『年輕人』『反叛』に出演、映画が配給された[[マレーシア]]、[[タイ王国|タイ]]などの[[東南アジア]]でも人気がでるようになった。 * 香港のテレビ番組『Agnes Chan Show』のゲストとして知り合った[[平尾昌晃]]によって日本に紹介され、1972年[[11月25日]]に[[ワーナーミュージック・ジャパン#沿革|ワーナーパイオニア]](現[[ワーナーミュージック・ジャパン]])より「ひなげしの花」でデビュー。当初の衣裳はロングであったが、翌年[[ミニスカート]]に変えて人気が急上昇した。 * [[1973年]]7月発売の「草原の輝き」が大ヒット、同年12月に[[第15回日本レコード大賞]]新人賞を受賞。 * 1973年10月発売の「小さな恋の物語」が自身最大のヒット曲となり、[[オリコンチャート]]1位を獲得。だが、デビュー曲「ひなげしの花」及び前作の「草原の輝き」の印象が強烈である所為か、この曲は世間一般での印象が薄く、テレビの[[懐メロ]]番組でも歌われることは少ない。 * [[1974年]]、「草原の輝き」が春の[[選抜高等学校野球大会]]の[[選抜高等学校野球大会入場行進曲|入場行進曲]]に選ばれる。また、[[ブロマイド]]の売上成績第1位を獲得。この頃のコンサートではバックバンドに[[鈴木慶一]]と[[ムーンライダーズ]]、司会は[[植田芳暁]]を起用していた。[[1976年]]には「恋のシーソーゲーム」で[[鳥塚しげき&ホットケーキ|ホットケーキ]]がバックをつとめ、さよならコンサートなどのコンサートに参加した。 * [[1974年]]、[[上智大学]]国際学部に入学。父の勧めもあって、[[1976年]]に芸能活動を休んで[[カナダ]]の[[トロント大学]]へ留学(編入学)。社会[[児童心理学]]を専攻。 * [[1978年]]、トロント大学を卒業。同年8月に日本に戻り、[[吉田拓郎]]作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開する。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる[[日本武道館]]でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」から[[SOUNDS MARKETING SYSTEM|SMS]]に移籍。 * [[1979年]]に[[香港]]で、初の[[広東語]]アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本では[[ゴダイゴ]]とのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。 * [[1984年]][[国際青年年]]記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[なるほど!ザ・ワールド]]』の主題曲「愛のハーモニー」から[[徳間ジャパン]]にレコード会社を移籍。 * [[1985年]]、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。4月、[[北京市|北京]]首都体育館で5万4千人を動員して[[宋慶齢]]基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤[[カセットテープ]]が販売された。 * 同年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[24時間テレビ]]』のために、[[旱魃]]による食料不足状態にあった[[エチオピア]]を取材。単に悲惨な情況を伝えるだけでなく、「[[ロンドン橋]]落ちた」の[[替え歌]]を[[アムハラ語]]で歌って現地の子供と交流する様子も伝えられた。 * [[1986年]]、元[[マネージャー]]の金子力(現所属事務所[[トマス・アンド・アグネス]]社長)と結婚し、[[カナダ]]で長男を出産した。 * [[1987年]]、テレビ局などへ生後まもない長男を連れて行ったことを[[林真理子]]が批判した。これを端初に[[アグネス論争]]が起こる。「アグネス」が[[新語・流行語大賞]]大衆賞を受賞するほどの社会的論争となり、[[男女雇用機会均等法]]成立の時期ともあいまって、日本の働く母親、女性の立場を再考させるきっかけとなった。 * [[1988年]]、[[ASKA|飛鳥涼]](現ASKA)作詞・作曲の歌「LIFE」で[[ポニーキャニオン]]に移籍。 * [[1989年]]には[[アメリカ合衆国|米国]][[スタンフォード大学]][[教育学部]]博士課程に留学、現地で次男を出産。[[東京大学]]とスタンフォード大学の卒業生の10年後の姿を調査し、日米両国の男女間格差の実態をまとめ、[[1994年]][[教育学]]博士号(Ph.D.)を取得した。この時の論文は『この道は丘へと続く』と題して2003年に日本でも翻訳出版されている。 * [[1994年]]、[[目白大学]]の助教授に就任(2008年現在は客員教授)。国際コミュニケーション学を担当する。 * [[1996年]]、香港にて三男を出産。その後もエッセイスト、[[共栄大学]][[客員教授]]として日本全国で講演を続けた。 * [[1998年]]、初代日本ユニセフ協会大使に就任([[#日本ユニセフ協会大使|後述]])。 * [[2000年]]には[[日本クラウン]]に移籍し、ロングヘアをやめてイメージチェンジして、「この身がちぎれるほどに」を歌うなど、[[ムード歌謡]]の分野で歌手活動に力を入れるようになった。8月に[[台場小香港]]に香港雑貨店「CHAN'S」を出店、[[2003年]]に[[ネット通販]]に移行したが、[[2010年]]に販売終了。 * [[2002年]]には[[小説]]『パーフェクト・カップル』、『銃弾の指輪』を出版し、[[作家]]活動も開始した。翌年には月刊『[[すばる (雑誌)|すばる]]』に短編小説の連載もしている。 * [[2005年]]にリリースした、初の[[セルフカバー]]曲『草原の輝き2005』は[[アサヒ飲料]][[十六茶]]の[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に使われた。9月に発売された『しあわせの花』は、[[手話]]を取り入れた[[振り付け]]で歌った。[[10月]]には[[広島大学]]の主宰する「[[ペスタロッチー教育賞]]」の14回目を受賞。 * [[2006年]]2月、[[ジャッキー・チェン]]との[[デュエット]]曲を含む英語盤CD『 [http://www.officialagneschan.com/ Forget Yourself]』を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で発売した。12月には日本デビュー35周年を記念するコンサートの第一弾が行われた。年末に香港で[[唾液腺]][[腫瘍]]の摘出手術を受けるも、その後早くも年明けから芸能活動を行う。 * [[2007年]] ** 「そこには幸せがもう生まれているから」など、平和をテーマに[[池田大作|山本伸一]]<!--楽曲のクレジット通り-->作詞、自から作曲した3作のシングル(内1作は2008年発売)とアルバム、それに2作の著作を出した。また、日本各地で[[民主音楽協会]]主催による日本デビュー35周年のコンサートツアーが行われており、[[2008年]]までに112回開催した。 ** 10月31日、[[北京市|北京]]の[[人民大会堂]]で同会場初のポップス系の楽曲でチャリティーコンサートを行った。この前に初期の[[乳癌|乳ガン]]が発見され、摘出手術を受けた。 ** 11月、民主音楽協会にコンサートツアーの実績が認められ、「民音文化賞」を受賞。 * 2008年 ** 9月、(財)日本対がん協会「ほほえみ大使」に就任。自分の乳がん体験から、日本全国で催されている「リレーフォーライフ」、「[[ピンクリボン]]運動」にも参加。 ** 12月、これまで続けて来た「歌で平和を」活動で、第50回日本レコード大賞特別賞を受賞。 * 2009年 9月、ブログ「アグネスちゃんこ鍋」を開設。 * 2010年 ** 2月、日本ユニセフ協会大使として[[ソマリア]]の現状を視察するため、ソマリア北部で事実上ソマリアから独立状態にある[[ソマリランド]]の首都[[ハルゲイサ]]を訪問。危険に遭遇した場合に備え、これまでで三度目となる遺書を記したが、ソマリランドは[[ソマリア内戦]]が続く中にあって比較的安定している地域であり、訪れる観光客も多い。 ** 3月、[[日本武道館]]において[[民主音楽協会]]主催によるコンサートを32年ぶりに行い、ヒット曲のメドレーなど懐かしい曲を披露し、2月に視察を行ったソマリアの子どもたちへの思いを込めて作詞作曲した「小さな祈り」も披露した。 ** 4月、AICニュージーランド校([[AICJ中学校・高等学校]]姉妹校)の学園長に就任。 ** 10月、初のプロデュース活動として、[[中華人民共和国|中国]]出身の[[ローラ・チャン]]を「ひなげしの花」でデビューさせる旨を発表。 ** 10月27日「ユニセフ新戦略=僻地の子を最優先に」(読売ホール)にてソマリアの視察報告を行い、今後の人道支援のあり方をテーマにシンポジウムを行う。 ** 11月、デビュー曲のアンサーソング「あの丘で」をリリース。作詞はカシアス島田([[島田紳助]])。 *2011年 ** [[3月11日]]の[[東日本大震災]]で被災した子どもたちを支援するため、[[日本ユニセフ協会]]への寄付をよびかけ、自らも1000万円を寄付した。また、4月1日には、[[ジャッキー・チェン]]の呼びかけで[[香港]]で行われた『[[:zh:愛心無國界311燭光晚會]]』に参加、香港の[[救世軍]]を通じて被災者へ支援物資を送るための募金を呼びかけた。 2015年 9月19日。Twitterで殺害予告された 9月23日。帰国し会見した。穴子夫人のせいで目覚ましとぐっととスッキリ以外放送されなかった === NHKクルー10人以上でブータン大名旅行(2012年4月) === <div style="border:solid #99c 1px; background:#eeeeee; padding:0.5em; margin:1em 0.5em"> ユニセフのミッションの為に明日から10日間ブータン王国へ参ります。 今荷造り中です。 忘れ物がないように 集中しますね。 頑張ります! http://ameblo.jp/agneschan/entry-11223939289.html ブータンに持っていく荷物が出来ました。 明日は朝出発です。9時に成田集合です。 NHKの撮影隊、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、雑誌社、フリーカメラマン など、10何人で参ります。 ブータンの子供達と会うのが本当に楽しみです。 子供目線から見たブータンの生活、幸せの秘密を見て来ます。 課題問題も理解して、みんなで支援して行きましょうね。 山奥に行くためテントで寝泊まりです。 テントの視察は南スーダン以来ですね。 頑張ります! http://ameblo.jp/agneschan/entry-11224048701.html </div> == 活動 == === アグネスの人権活動の特徴 === アグネスは民族としては中国人であり、国籍はカナダ人である。しかし、人権活動は日本でのみ行い、母国である中国の民主化弾圧、チベット、ウイグル弾圧に対しては全く興味がない。実際に組織的に児童売買が行われているアジア諸国に対しても関心はなく、ひたすら日本での2次元児童ポルノ禁止をライフ・ワークとしている。 「'''金にならない人権活動は行わない'''」のが、アグネスの特徴である。 === 児童ポルノ批判 === [[児童ポルノ#推進派の動向]]参照 アグネスは、自らがアイドル時代に不本意な水着撮影をさせられたり、下着の見える写真を雑誌に掲載された体験もあり、児童ポルノに関して厳しい立場をとっている。[[2008年]][[3月11日]]には[[森山眞弓]]元法務大臣と共に、「児童ポルノの単純所持禁止、ゲームや漫画等で児童を性的に描いたものも『準児童ポルノ』として禁止するべきだ」という声明を発表。政府、国会に意見を求めている。NHKの番組『視点・論点』に出演した際にも、「私は子供たちの人権を守りたい」「[[表現の自由]]を守りたい」と語り、日本も既に法制化を実現している先進諸国と足並みを揃えるべきではないかと提言している。 === 新疆の子供ら2274人救出。誘拐され、都市で窃盗に従事(中国公安省) === [[中国]][[新疆ウイグル自治区]]の子供ら未成年者を誘拐し、[[北京]]、[[上海]]などの大都市に連れて行き、窃盗や略奪を強要するなどしていたとして、公安省は[[2012年]][[11月21日]]までに、容疑者2749人を拘束し、2274人の未成年者を救出したと発表した。 2011年4月以降に全国で展開した集中捜査の結果、1770件を摘発し、336の犯罪グループを検挙した。10月30日には公安省が北京、[[吉林省]]、上海、[[広東省]]、新疆ウイグル自治区など7地域の公安当局を指揮し、新疆の未成年者の救出に向け一斉捜査に着手し、計12の犯罪グループを摘発した。 この件に関し、アグネスは一切コメントしていない。 == 批判 == [[トマス・アンド・アグネス#論争]] 2010年8月、[[大槻義彦]]が公式ブログ上にて[[アグネス・チャン]]の経営する販売会社[[チャンズ]](CHAN'S)が霊芝エキスやパワーストーンを販売している事を霊感商法だと批判した。批判を受けて販売を中止した。 == エピソード == * [[中学校|中学生]]の時に始めた[[ボランティア]]活動で、[[ギター]]を手に校内で[[募金]]を集めた。これが噂になり、香港の[[フォークソング|フォーク]]歌手の[[オムニバス]][[アルバム]]へのレコーディングの話が出たという。 * [[日本語]]ができなかったデビュー当時、事務所が用意する食事は彼女が「中国系だから」と毎回のように[[中華丼]]だった。今では一番嫌いで見たくもない食べ物だという。 *逆に当時好きな食べ物は焼き鳥だった。又日本に来日直後、公園など野生に放されている[[鳩]]を見ては、「凄くうまそうでつい無性に食べたくて仕方なかった」「こんなおいしそうなハトが沢山放し飼いにされるなんて、日本は相当お金持ちの国なのかしら?」と思っていたらしい。 *そんな中、アメリカンスクールに通い英語が堪能だった先輩の[[南沙織]]とは仲が良く、彼女の引退直前にはインタビューもされている。 *彼女の父の口癖は「上海出身の人間は信用するな」だった。その言葉の真意は解らないが「父は過去に上海出身者との間で何かあったのかもしれない」と『徹子の部屋』に出演した時に父の思い出を語った。 * [[1976年]]に芸能活動を休止し、トロント大学に留学したのは父の勧めであったという。しかし彼女の父は翌[[1977年]]に他界し、大学を卒業する姿を見せることはできなかった。 * 助教授をつとめた[[目白大学]]の教え子に[[猫ひろし]]がいる。 * 2007年10月の北京でのチャリティコンサートは、9月開催の予定が[[中国共産党]]の指示を受けて延期しており、その時に空いたスケジュールで受けた検査で[[乳癌|乳ガン]]が発見された。10月に摘出手術を受けて無事成功し、わずか1週間で芸能活動を再開している。 * 2007年に発表した平和をテーマにした曲の第一弾は、自ら[[ピアノ]]を弾きながら詞にメロディーをつけた「そこには幸せがもう生まれているから」。続く「ピースフルワールド」、「朗らかに」をリリース。いずれもアグネスが作詞しており、「みんな地球に生きるひと」など、平和をテーマにしたこの三曲のカップリング曲はすべて彼女の詞である。 * 1985年には広尾に自宅を購入。リビング・ルームは事務所の会議室も兼ねるため、人が集まる「運命の場所」だという考えから、[[風水]]を取り入れて広めに設計した。白い[[大理石|マーブル]]を基調とし、シャンデリアや暖炉などにこだわったほか、カーテンや椅子などの家具はほぼイタリア製でそろえたという。香港で買うと日本よりかなり安いという。 * 家庭では子供たちが納得するまで最長8時間説教したことが学びの場.comで公表されている。 ====テレビ==== 洋子の演歌(2015年9月27日。テレビ東京。) ビビッド。(2015年12月16日。TBS. ) == 関連項目 == * [[人権屋]] * [[プロ市民]] * [[ボランティア詐欺]] * [[アグネス論争]] * [[華流]] == 関連文献 == * アグネス・チャン、[[チャック・ウイルソン]]、[[ピーター・バラカン]]「日本の若い奴らに礼儀教えます」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』62巻10号、[[1984年]][[9月]]、460-467頁。 * アグネス・チャン、梁泰昊「国籍は、どうってことないの」『[[世界]]』480号、[[1985年]][[10月]]、209-222頁。 * 大和田滝恵「これが『新大学改革か』――アグネス・チャンを客員講師にした信州大経済学部教官公募の内幕」『[[朝日ジャーナル]]』28巻9号、[[1986年]][[3月7日]]、11-15頁。 * アグネス・チャン「アグネス・バッシングなんかに負けない」『[[中央公論]]』102巻12号、[[1987年]][[10月]]、244-251頁。 * 竹内好美「林真理子のアグネス・チャン批判――『会社に託児所』を要求しない働く女性の論理」『朝日ジャーナル』30巻21号、[[1988年]][[5月27日]]、84-86頁。 * アグネス・チャン「『家』の履歴書――結婚式や新居もすべて風水の指示で」『[[週刊文春]]』42巻18号、[[2000年]][[5月18日]]、74-77頁。 * 「安倍首相がアグネス・チャンの結婚式で『介添え役』」『週刊文春』48巻45号、[[2006年]][[11月23日]]、30-31頁。 * 「『アグネス・チャン』新曲の作詞家は『池田大作』センセイ」『[[週刊新潮]]』52巻12号、[[2007年]][[3月29日]]、50頁。 * 「『池田大作』作詞CDで『顔面マヒが治った』アグネス・チャン」『週刊新潮』53巻10号、[[2008年]][[3月13日]]、138-139頁。 * 「実況中継『創価友誼之証』を贈られたアグネス・チャン」『週刊文春』51巻40号、[[2009年]][[10月22日]]、137-138頁。 * 「『アグネス・チャン』が遺書を残して『ソマリランド』快適旅行」『週刊新潮』55巻12号、[[2010年]][[3月25日]]、44-45頁。 {{デフォルトソート:ちやん あくねす}} [[Category:香港の歌手]] [[Category:日本の歌手]] [[Category:日本のアイドル]] [[Category:日本の教育学者]] [[Category:目白大学の教員]] [[Category:共栄大学の教員]] [[Category:日本のカトリック教会の信者]] [[Category:在日外国人の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:過去の渡辺プロ系列所属者]] [[Category:NHK紅白歌合戦出演者]] [[Category:アイビー・リーガー]] [[Category:詐欺師]]