「中内功」の版間の差分
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復員後、1948年、神戸三宮元町のガード下に父秀雄が「友愛薬局」を設立し経営に参画する。1951年8月、医薬品の現金問屋「サカエ薬局」を大阪市東区平野町に設立する。1957年、大栄薬品工業株式会社(現ダイエー)を設立。9月23日、大阪市[[千林]]駅前に第1号店として「主婦の店ダイエー本店大阪」を開店する。店舗面積は97平米、社員数13名。安売り攻勢と牛肉特売で人気を博す。関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1964年、東京進出。1967年8月、[[日本チェーンストア協会]]会長に就任。1970年、売上高1000億円を突破する。1972年、東証一部上場。同年、売上高で三越を抜き、小売業日本一を達成。1975年コンビニ「ローソン」を開業した。1980.2.16、年間売上高1兆円突破。1990年、経団連副会長。 | 復員後、1948年、神戸三宮元町のガード下に父秀雄が「友愛薬局」を設立し経営に参画する。1951年8月、医薬品の現金問屋「サカエ薬局」を大阪市東区平野町に設立する。1957年、大栄薬品工業株式会社(現ダイエー)を設立。9月23日、大阪市[[千林]]駅前に第1号店として「主婦の店ダイエー本店大阪」を開店する。店舗面積は97平米、社員数13名。安売り攻勢と牛肉特売で人気を博す。関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1964年、東京進出。1967年8月、[[日本チェーンストア協会]]会長に就任。1970年、売上高1000億円を突破する。1972年、東証一部上場。同年、売上高で三越を抜き、小売業日本一を達成。1975年コンビニ「ローソン」を開業した。1980.2.16、年間売上高1兆円突破。1990年、経団連副会長。 | ||
− | + | 1983年から三期連続で連結赤字となり、中内功は浜松町の幹部会議で「もう一度、俺を男にしてくれ」と号泣し、[[河島博]]副社長(元ヤマハ社長)らに再建を託した。河島博を中心にした若手社員により業績をV字に回復させる通称「V革」を進めた。新経営陣の「V革」によってダイエーが復活すると中内功は経営権を取り戻し暴走が始まる。リッカーミシン買収、神戸オリエンタルホテル買収、[[流通科学大学]]創立、新神戸オリエンタルシティ建設、ホークス球団買収を僅か2年で進め、借入金を膨張させた。 | |
− | 1993年、日本チェーンストア協会会長。1998年、ダイエーの2月期決算が経常赤字(258億円の経常赤字)となり、8月中間決算では無配に転落した。「グループ全体で2兆6000億円の有利子負債」が露見し、ダイエーの経営難が深刻化した。1999.1.20、中内は、経営責任を取り社長辞任。後任は、元味の素社長の[[鳥羽董]]・副社長となる。3.30、長男の中内潤が代表取締役副社長から代表権のない無任所の取締役へ降格した。20011.30、創業者中内功が取締役退任。社長には元[[リクルート]]専務の[[高木邦夫]]が就任した。2002.3.19、経営再建中のダイエーが、同社と不動産管理子会社、オレンジエステート(東京・港)に対する産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を経済産業省に申請し、事実上倒産した。2002.5. | + | 1993年、日本チェーンストア協会会長。1998年、ダイエーの2月期決算が経常赤字(258億円の経常赤字)となり、8月中間決算では無配に転落した。「グループ全体で2兆6000億円の有利子負債」が露見し、ダイエーの経営難が深刻化した。1999.1.20、中内は、経営責任を取り社長辞任。後任は、元味の素社長の[[鳥羽董]]・副社長となる。3.30、長男の中内潤が代表取締役副社長から代表権のない無任所の取締役へ降格した。20011.30、創業者中内功が取締役退任。社長には元[[リクルート]]専務の[[高木邦夫]]が就任した。2002.3.19、経営再建中のダイエーが、同社と不動産管理子会社、オレンジエステート(東京・港)に対する産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を経済産業省に申請し、事実上倒産した。2002.5.30、ダイエーは[[プランタン銀座]]株を読売に売却する。2005年9月19日に[[神戸市立中央市民病院]において死去した。 |
== 人物 == | == 人物 == | ||
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*「功(いさお)」は正しくは「工偏に刀」である。 | *「功(いさお)」は正しくは「工偏に刀」である。 | ||
*1947年4月、[[神戸大学]]第二課程に入学するが、学費未納のため1947年10月に除籍となる。 | *1947年4月、[[神戸大学]]第二課程に入学するが、学費未納のため1947年10月に除籍となる。 | ||
− | * | + | *ダイエーの「価格破壊」を消費者は歓迎したが、メーカーは猛反発し、中内功は[[松下電器産業]](現パナソニック)と「30年戦争」を戦った。 |
*「良い商品をどんどん安く」をキャッチフレーズに高度成長期に急成長し「流通革命の旗手」となった。 | *「良い商品をどんどん安く」をキャッチフレーズに高度成長期に急成長し「流通革命の旗手」となった。 | ||
== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
*恩地祥光(2013)『中内功のかばん持ち』,プレジデント社 | *恩地祥光(2013)『中内功のかばん持ち』,プレジデント社 |
2018年7月29日 (日) 22:34時点における版
中内 功(なかうち いさお、1922年8月2日 - 2005年9月19日)は、日本の経営者。株式会社ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務める。日本チェーンストア協会会長、日本経済団体連合会副会長、学校法人中内学園(流通科学大学)学園長、理事長。
経歴
1922年8月2日、大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法)に父・中内秀雄、母・リエの長男として生まれる。父親は大阪薬学専門学校(現大阪大学薬学部)を卒業した薬剤師である。1928年4月神戸市入江尋常小学校に入学する。1934年神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校入学する。1941年、兵庫県立神戸高等商業学校(神戸商科大学の前身、現・兵庫県立大学)を繰り上げ卒業する。1942年3月神戸商業大学を受験するが不合格。神戸空襲の焼夷弾がサカエ薬局に落ちるが消し止める。1942年日本綿花(現ニチメン)に入社する。1943年、1月陸軍現役兵として広島で入隊。独立重砲兵第四大隊に配属され、ソ満国境守備隊に送られスイフンガへ赴く。7月陸軍軍曹として、山下奉文・山下兵団の所属ルソン島リンガエンの守備につく。1945年6月6日、切込隊で夜襲をかけ手榴弾を浴び全身負傷。8月20日、マニラ戦時俘虜収容所の捕虜となる。11月3日、マニラ出港。
復員後、1948年、神戸三宮元町のガード下に父秀雄が「友愛薬局」を設立し経営に参画する。1951年8月、医薬品の現金問屋「サカエ薬局」を大阪市東区平野町に設立する。1957年、大栄薬品工業株式会社(現ダイエー)を設立。9月23日、大阪市千林駅前に第1号店として「主婦の店ダイエー本店大阪」を開店する。店舗面積は97平米、社員数13名。安売り攻勢と牛肉特売で人気を博す。関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1964年、東京進出。1967年8月、日本チェーンストア協会会長に就任。1970年、売上高1000億円を突破する。1972年、東証一部上場。同年、売上高で三越を抜き、小売業日本一を達成。1975年コンビニ「ローソン」を開業した。1980.2.16、年間売上高1兆円突破。1990年、経団連副会長。 1983年から三期連続で連結赤字となり、中内功は浜松町の幹部会議で「もう一度、俺を男にしてくれ」と号泣し、河島博副社長(元ヤマハ社長)らに再建を託した。河島博を中心にした若手社員により業績をV字に回復させる通称「V革」を進めた。新経営陣の「V革」によってダイエーが復活すると中内功は経営権を取り戻し暴走が始まる。リッカーミシン買収、神戸オリエンタルホテル買収、流通科学大学創立、新神戸オリエンタルシティ建設、ホークス球団買収を僅か2年で進め、借入金を膨張させた。 1993年、日本チェーンストア協会会長。1998年、ダイエーの2月期決算が経常赤字(258億円の経常赤字)となり、8月中間決算では無配に転落した。「グループ全体で2兆6000億円の有利子負債」が露見し、ダイエーの経営難が深刻化した。1999.1.20、中内は、経営責任を取り社長辞任。後任は、元味の素社長の鳥羽董・副社長となる。3.30、長男の中内潤が代表取締役副社長から代表権のない無任所の取締役へ降格した。20011.30、創業者中内功が取締役退任。社長には元リクルート専務の高木邦夫が就任した。2002.3.19、経営再建中のダイエーが、同社と不動産管理子会社、オレンジエステート(東京・港)に対する産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を経済産業省に申請し、事実上倒産した。2002.5.30、ダイエーはプランタン銀座株を読売に売却する。2005年9月19日に[[神戸市立中央市民病院]において死去した。
人物
- 総入れ歯になった理由は、太平洋戦争末期にフィリピン戦線で軍曹として、最前線で戦っていたが、極度の飢餓状態になり、栄養失調で歯が抜けてしまったためである。
- 「功(いさお)」は正しくは「工偏に刀」である。
- 1947年4月、神戸大学第二課程に入学するが、学費未納のため1947年10月に除籍となる。
- ダイエーの「価格破壊」を消費者は歓迎したが、メーカーは猛反発し、中内功は松下電器産業(現パナソニック)と「30年戦争」を戦った。
- 「良い商品をどんどん安く」をキャッチフレーズに高度成長期に急成長し「流通革命の旗手」となった。
参考文献
- 恩地祥光(2013)『中内功のかばん持ち』,プレジデント社