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*棋風は「女らしくない、芯の強いところが特徴」「たいていの無理は押し通していく」「本因坊ほか二三人を除いては、日本中の碁客が受太刀」とされる<ref name=kawase></ref>。 | *棋風は「女らしくない、芯の強いところが特徴」「たいていの無理は押し通していく」「本因坊ほか二三人を除いては、日本中の碁客が受太刀」とされる<ref name=kawase></ref>。 | ||
*夢野久作の著作に、未完の伝記「喜多文子」がある。現存する久作日記の最後の日付は昭和十年十二月十四日に「残つてゐる俗用は、川原花本の始末、白骨標本、喜多文子訪問」と書かれている。伝記執筆のための訪問予定だったと推測される。 | *夢野久作の著作に、未完の伝記「喜多文子」がある。現存する久作日記の最後の日付は昭和十年十二月十四日に「残つてゐる俗用は、川原花本の始末、白骨標本、喜多文子訪問」と書かれている。伝記執筆のための訪問予定だったと推測される。 | ||
+ | *昭和3年、真野村教育委員会の主催により[[司馬凌海]]の50年祭が開催され、喜多文子が遺族代表として出席した。式典のあと山本半蔵による「司馬凌海について」講演があり、凌海が産湯を使った井戸水で茶席が設けられ、地元の人々と囲碁を楽しんだ。ここで喜多文子は和歌を詠んだ「静けさよ さざなみ照らす月影に 映るは真野の 二つ巌が根」。<ref>新潟日報,平成26年6月8日記事</ref> | ||
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2017年10月29日 (日) 22:34時点における版
喜多 文子(きた ふみこ、1875年11月16日 - 1950年5月10日)は、明治時代から昭和時代の女流囲碁棋士。多数の女流棋士を育てた。囲碁界の母といわれる。
経歴
佐渡国(新潟県)出身の医師司馬凌海の二女として東京の下谷で生まれた。父の司馬凌海は幼少の時から神童の誉れ高く、12歳の時に江戸に出て漢学と蘭学、医学を学んだ。1857年(安政四年、医師松本良順(のちの陸軍軍医総監松本順)に従い長崎に赴き、オランダ語と医学の研鑽をつんだ。明治維新後は私塾春風社を開いて英才の指導に当たった。大学東校、宮内省、元老院書記官、愛知県医学校教授を歴任した。同五年に日本最初の独和辞典『和洋独逸辞典』を出版するなど、日本におけるドイツ学の草分け的存在であった。その後、名古屋で開業したが、結核を発病し、凌海が元気な時は収入が多かったが、派手に使ってしまう性格のため、凌海が病気になるとたちまちに一家は窮地に陥った。1879年(明治12年)に凌海が亡くなると一家は故郷の佐渡へ帰ることになったが、わずか3歳で病弱であった文子は長旅に耐えられないと、凌海の全盛時代に碁の相手として家に出入りしていた林佐野の養女となった。「お上げになるのなら相当のお家へ」と固辞する佐野に、凌海未亡人の春江が頼み込んだものである。
長ずるに至り学校に馴染まず、養父米山が絵師であったことから絵を習わせようとしたがそれにも飽き、やむなく林佐野は文子を碁のお稽古まわりに連れて出るようになった。当時日本橋浜町にあった三井三郎助家や、安田善次郎家にも出入りした。佐野はやがて文子の才を見込んで本格的に囲碁を教え、文子は佐野の厳しい指導によく耐え、18歳で二段、1896年(明治29九年)21歳で三段に進んだ。 その年、喜多六平太と結婚した。若き家元同士を結びつけたのは、旧福岡藩主の黒田長知である。両名とも黒田家に出入りを許され、ともに芸をもって黒田侯の無聊を慰めていたところへ、侯の斡旋を受けて結婚に至った。 喜多六平太は、明治十七年十歳で能楽師喜多流十四代家元を襲名し、二十歳で六平太を襲名した。能楽は徳川家康の保護のもと幕府式楽の家元として観世、宝生、金剛、金春の四座が認められていたが、これとは別に喜多流が独立する事が認められた。そのころ能楽も囲碁の世界と同様、幕府の後ろ盾を失い衰退していた。六平太は辛苦の末、独創的なひらめきと絢爛にして変幻自在な芸風によって当代名人の世評を得ていた。文子は結婚当初は方円社やおつとめ廻りを続けていたが、「喜多はうまい嫁をもらった、あれなら貧乏の喜多流も立つに違いない」という噂話を耳にし、それからの13年間は囲碁から遠ざかり、六平太を助けて家事と家元の裏方の仕事に没頭し、喜多流の再興に貢献した。しかし伸び盛りの二十歳台に碁から離れていたことは、棋士としての喜多文子にとっては致命的であった
1907年、夫の六平太の勧め出で棋界に復帰したが、長年のブランクを埋めるにあたり、頭山満の支援により修業時代からの知己であった田村保寿(後の本因坊秀哉)と霊南坂の頭山家での週一回の対局を行う機会に恵まれ、対局は52局に及んだ。13年のブランクを持つ者が教えを請うにはあまりに遠い存在であったものを、その文子の願いを聞きつけた頭山が秀哉を動かし、霊南坂の私邸を対局場所に提供したものである。はじめは負け続きで、文子はこの時のことをのちに「女が家事に埋もれるというのはこんなに落ちてしまうことなのかと、一局一局がしんと骨身に堪えました。」と語っている。十七、八回続くと不思議に焦りもなくなり、謙虚な状態となり、するとどうしたことかぼつぼつ勝ち目が出てきて、田村からも「喜多さん、ようやく石が活きてきた」といわれるようになった。本因坊と喜多文子の毎週水曜日の対局は、やがて人の知るところとなって観戦を願う者が増えてきたため、52番のうち最後の20番ほどは古島一雄宅に場所を移した。次いで三井家の支援で、中川亀三郎と20番を行う。こうした好意に支えられて文子は見るみる棋力を回復し、1911年の万朝報の坊社対抗戦、時事新報の方円社勝ち抜き戦でそれぞれ5人抜きを果たし、復活を遂げた。この年に女流棋士として初の四段となり、1921年には五段に昇段した[1]。
1923年に本因坊家と方円社が合同して中央棋院が設立され、その後に再分裂したとき文子は旧方円社であったが、碁界合同を進める立場から小野田千代太郎と共に旧坊門側の中央棋院に残った。同年の関東大震災後から日本棋院設立までの間、方円社の中川亀三郎、裨聖会の瀬越憲作らとの調整に走り回った。日本棋院設立に際し、中央棋院に残った喜多文子は、方圓社の中川亀三郎らをはじめ、裨聖会の瀬越憲らとの人的つながりを活かして、大同団結に至る接着剤としての役割を果たしている。大倉喜七郎が喜多文子を贔屓にしていたことも大きな要素であったといわれる。
1924年の日本棋院設立後は現役を引退した。 1950年死去。日本棋院から七段を追贈され、1973年に名誉八段を贈られた。
夫の喜多六平太は1953年(昭和28年)に文化勲章を受章し、1955年には重要無形文化財保持者に指定され、1965年1月没。
人物
- 女流棋士の育成、発展に力を注ぎ、鈴木秀子、伊藤友恵、荻原佐知子、小杉勝子、神林春子、大山寿子、鈴木津奈、杉内寿子ら多くの女流棋士を門下として育てた[2]。
- 1918年に本因坊秀哉が野沢竹朝を破門した際、1923年の和解の席で喜多文子が立会人となっている。
- 1928年の呉清源の来日後に医者に連れていくなどの世話をし、1940年の富士見高原診療所への入院中もしばしば見舞いに訪れた。1942年の呉清源の結婚式では、喜多夫妻が媒酌人を務めている。
- 呉清源は、日本棋院設立に当たっての喜多文子の功績を高く評価し、日本棋院に大倉喜七郎と本因坊秀哉の胸像はあっても喜多文子の胸像がないことを、「日本棋院の怠慢」とまで言い切っている。
- 方円社に通った頃は、頭を五分刈りにし、紅白粉は一切無縁の男姿で通った[3]。
- 棋風は「女らしくない、芯の強いところが特徴」「たいていの無理は押し通していく」「本因坊ほか二三人を除いては、日本中の碁客が受太刀」とされる[3]。
- 夢野久作の著作に、未完の伝記「喜多文子」がある。現存する久作日記の最後の日付は昭和十年十二月十四日に「残つてゐる俗用は、川原花本の始末、白骨標本、喜多文子訪問」と書かれている。伝記執筆のための訪問予定だったと推測される。
- 昭和3年、真野村教育委員会の主催により司馬凌海の50年祭が開催され、喜多文子が遺族代表として出席した。式典のあと山本半蔵による「司馬凌海について」講演があり、凌海が産湯を使った井戸水で茶席が設けられ、地元の人々と囲碁を楽しんだ。ここで喜多文子は和歌を詠んだ「静けさよ さざなみ照らす月影に 映るは真野の 二つ巌が根」。[4]