「中川亀三郎」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
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十二世名人[[本因坊丈和]]の第三子として、武蔵国・江戸[[上野]]車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世[[井上節山因碩]])、姉の花子は[[本因坊秀策]]妻となる。幼名を長三郎とし、後に亀三郎となった。本姓は葛野。叔父の家を相続し、中川姓となる。幼児のころ囲碁で身を立てる気がなく、11歳で父が亡くなり石を持つ。13歳で秀策に伴われ、本因坊秀和に入門。16歳で初段となる。20歳で三段、26歳で五段、1866年(慶応2年)、29歳で六段。
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十二世名人[[本因坊丈和]]の第三子として、武蔵国・江戸[[上野]]車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世[[井上節山因碩]])、姉の花子は[[本因坊秀策]]妻となる。幼名を長三郎とし、後に亀三郎となった。本姓は葛野。叔父の家を相続し、中川姓となる。幼児のころ囲碁で身を立てる気がなく、11歳で父が亡くなり石を持つ。13歳で秀策に伴われ、本因坊秀和に入門。16歳で初段となる。20歳で三段、26歳で五段、1866年(慶応2年)、29歳で六段<ref name=abdo>安藤豊次『坐隠談叢』,青木嵩山堂,1910-03</ref>。
 
1873年(明治6年)、[[小林鉄次郎]]と十番碁。1876年(明治9年)、[[林秀栄]]と十番碁。
 
1873年(明治6年)、[[小林鉄次郎]]と十番碁。1876年(明治9年)、[[林秀栄]]と十番碁。
  
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秀栄と秀甫が和解すると、中川は本因坊家は実子相続しても差し支えないとはいえ、技芸を考えると、技量卓絶の士をもって相続すべしと語る。秀栄これを聞いて、明治18年7月、本因坊家を秀甫に譲った。亀三郎は本因坊家相続の意思がなく、秀栄が争碁をもって十二世を定めようとの申込を退けたため、秀栄は十二世本因坊となる。
 
秀栄と秀甫が和解すると、中川は本因坊家は実子相続しても差し支えないとはいえ、技芸を考えると、技量卓絶の士をもって相続すべしと語る。秀栄これを聞いて、明治18年7月、本因坊家を秀甫に譲った。亀三郎は本因坊家相続の意思がなく、秀栄が争碁をもって十二世を定めようとの申込を退けたため、秀栄は十二世本因坊となる。
 
秀甫没後は、[[1886年]]に[[方円社]]二代目社長となる。[[1899年]]に社長を引退、[[巌崎健造]]が3代目社長となる。同年、准名人八段に推される。
 
秀甫没後は、[[1886年]]に[[方円社]]二代目社長となる。[[1899年]]に社長を引退、[[巌崎健造]]が3代目社長となる。同年、准名人八段に推される。
1903年(明治36年)9月13日、悪性感冒により死去。
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2017年9月12日 (火) 23:07時点における版

中川 亀三郎(なかがわ かめさぶろう、1837年天保8年) - 1903年明治36年)10月13日)は、囲碁棋士。2代目方円社社長。

経歴

十二世名人本因坊丈和の第三子として、武蔵国・江戸上野車坂下に生まれる。長兄は水谷順策(後の十二世井上節山因碩)、姉の花子は本因坊秀策妻となる。幼名を長三郎とし、後に亀三郎となった。本姓は葛野。叔父の家を相続し、中川姓となる。幼児のころ囲碁で身を立てる気がなく、11歳で父が亡くなり石を持つ。13歳で秀策に伴われ、本因坊秀和に入門。16歳で初段となる。20歳で三段、26歳で五段、1866年(慶応2年)、29歳で六段[1]。 1873年(明治6年)、小林鉄次郎と十番碁。1876年(明治9年)、林秀栄と十番碁。

明治維新後、井上家の小林鉄次郎高橋周徳等と研究会を組織し、越後にいた村瀬秀輔を呼び寄せ、1879年(明治12年)4月、方円社を神田区表神保町に設立し、中川亀三郎は副社長に就任した。方円社の設立者は、秀甫ではなく、中川である。明治14年方円社の会議で村瀬秀輔を准名人、中川亀三郎を上手、小林鉄次郎を六段に進めた。このあとの対局で秀甫に敗れて先二に打込まれる。方円社の常置指南役の一人を務める。

秀栄と秀甫が和解すると、中川は本因坊家は実子相続しても差し支えないとはいえ、技芸を考えると、技量卓絶の士をもって相続すべしと語る。秀栄これを聞いて、明治18年7月、本因坊家を秀甫に譲った。亀三郎は本因坊家相続の意思がなく、秀栄が争碁をもって十二世を定めようとの申込を退けたため、秀栄は十二世本因坊となる。 秀甫没後は、1886年方円社二代目社長となる。1899年に社長を引退、巌崎健造が3代目社長となる。同年、准名人八段に推される。 1903年(明治36年)9月13日、悪性感冒により死去[1]

人物

  • 墓は谷中の共同墓地。
  • 巌崎健造いわく、先生平生性格温厚、珠のごとしと評す。対局時の手厳しい打ち方は別人のようであったとする。
  • あまりに暢気すぎて、要領を得ないことがあった。
  • 趣味は義太夫であった。
  • 子弟は三男三女。長子安二郎は早く没す。他はすべて他姓であった。
  • 雑誌「囲棋新報」を発行
  • 1900年(明治33年)1月に発行された方円社の「囲碁段級人名録」で、住所は東京市神田区五軒町2番地(現千代田区外神田六丁目)であった。

棋風

  • 若い頃は非力であったが、25、6歳頃から腕力家になったといわれる。

門下 

門下に雁金準一

参考文献

  1. 1.0 1.1 安藤豊次『坐隠談叢』,青木嵩山堂,1910-03