「山本松代」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(Lewiston Tribune(1999)により加筆。)
1行目: 1行目:
 
[[File:Omori Matsuyo.JPG|thumb|大森(山本)松代、朝日新聞社 『アサヒグラフ』1948年12月15日号]]
 
[[File:Omori Matsuyo.JPG|thumb|大森(山本)松代、朝日新聞社 『アサヒグラフ』1948年12月15日号]]
'''山本(大森)松代'''(やまもと(おおもり)まつよ、[[1909年]]-没年不詳)は、日本の[[官僚]]。
+
'''山本(大森)松代'''(やまもと(おおもり)まつよ、[[1909年]]-[[1999年]][[8月10日]])は、日本の[[官僚]]。
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
 
*1909年生まれ<ref name="小田部(1988)p.164">小田部(1988)p.164</ref>。
 
*1909年生まれ<ref name="小田部(1988)p.164">小田部(1988)p.164</ref>。
14行目: 14行目:
 
*1943年10月21日、「軍政監に時局緊迫につきて相談する。大森を光機関にやる事につきて話す。帰りて美代子の決心をきく」…2人とも具体的なことは覚えていない。<ref>小田部(1988)p.165</ref>
 
*1943年10月21日、「軍政監に時局緊迫につきて相談する。大森を光機関にやる事につきて話す。帰りて美代子の決心をきく」…2人とも具体的なことは覚えていない。<ref>小田部(1988)p.165</ref>
 
-->
 
-->
 
+
*1999年8月10日に日本で死去、享年90。死因は不明。<ref>Lewiston Tribune(1999)</ref>
 
== 家族 ==
 
== 家族 ==
 
*兄は[[左翼]]の理論家・[[大森義太郎]]教授<ref>中野(1977)p.208</ref>。
 
*兄は[[左翼]]の理論家・[[大森義太郎]]教授<ref>中野(1977)p.208</ref>。
25行目: 25行目:
  
 
== 関連文献 ==
 
== 関連文献 ==
 +
*Lewiston Tribune(1999) [[:en:Lewiston Morning Tribune|Lewiston Tribune]], '[http://lmtribune.com/obituaries/matsuyo-omori-yamamoto-of-japan-wsu-grad/article_49c54797-badf-551d-8cee-57aac8f72b43.html Matsuyo Omori Yamamoto, 90, of Japan, WSU grad],' 1999年9月14日。
 
*市田(1995) 市田(岩田)知子「[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/nosoken/nogyosogokenkyu/pdf/nriae1995-49-2-1.pdf 生活改善普及事業の理念と展開]」農林水産政策研究所『農業総合研究』vol.49、no.2、1995年4月、pp.1-63,151
 
*市田(1995) 市田(岩田)知子「[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/nosoken/nogyosogokenkyu/pdf/nriae1995-49-2-1.pdf 生活改善普及事業の理念と展開]」農林水産政策研究所『農業総合研究』vol.49、no.2、1995年4月、pp.1-63,151
  
 
{{デフォルトソート:やまもと まつよ}}
 
{{デフォルトソート:やまもと まつよ}}
 
[[Category:日本占領下のシンガポール]]
 
[[Category:日本占領下のシンガポール]]

2017年9月8日 (金) 01:47時点における版

大森(山本)松代、朝日新聞社 『アサヒグラフ』1948年12月15日号

山本(大森)松代(やまもと(おおもり)まつよ、1909年-1999年8月10日)は、日本の官僚

経歴

  • 1909年生まれ[1]
  • 1931年、東京女子大学英文科を卒業[1]。米国・ワシントン州立大学に留学し、家政学を専攻[1]。卒業後、米国で商品実験研究や消費者教育機関での実務を学ぶ[1]
  • 1938年に日本に帰国し、東京YWCA附属駿河台女学院の家政学部主任となる[1]。同校では、敬虔なクリスチャンとして知られ、聖書研究のグループを手伝ったこともあった[1]
  • 太平洋戦争勃発後、駿河台女学院で礼法講師をしていて面識のあった徳川義親から「ラッフルズ・ライブラリー(昭南博物館附属図書館)にある書籍の翻訳に助力して欲しい」と要請を受け、1942年6月に徳川の秘書としてシンガポール(昭南特別市)に赴任[1]
  • シンガポールでは、図書館で英語の書籍(主に英国の行政関係の文献)の翻訳をし、またマレー人・アラブ人向けの日本語学校の教師をした[1]。本人は、「文化活動」のために赴任したが、「文化活動」的なものは何もなく、翻訳はイギリスの行政関係の文献ばかりで面白くなかった、日本語教育は、マレー人の熱意がなく、出席者がほとんどいなくなってしまった、として、「昭南」時代の生活を「空白の時期」と回想している[2]
  • 徳川の日記には、1943年にインド独立工作をしていた光機関を支援したと記されているが、本人は具体的なことは覚えていないと述懐している[3]
  • 1999年8月10日に日本で死去、享年90。死因は不明。[4]

家族

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 小田部(1988)p.164
  2. 小田部(1988)pp.164,166
  3. 小田部(1988)p.165
  4. Lewiston Tribune(1999)
  5. 中野(1977)p.208

参考文献

  • 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 中野(1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、全国書誌番号:78013751

関連文献