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曹 仁(そう じん、168年 - 223年)は、中国の後漢末期から三国時代の魏の武将。字は子孝(しこう)[1]。曹操の従弟[1]。曹純の兄[2]。曹泰、曹楷、曹範らの父。曹初の祖父。
生涯[編集]
豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身[1]。曹操の親族として若い頃から従った股肱の家臣である[1]。
205年、曹操の華北平定に従軍していた曹仁は、袁尚の一族である高幹が立て籠もる壺関(現在の山西省)を包囲した[1]。この際、曹操から落城したら捕虜を全員生き埋めにするように命令された[1]。しかしそれを知った高幹軍は死に物狂いで抗戦し、数ヶ月たっても全く落とせる目処が立たなかった[1]。そこで曹仁は「城兵のために生きるための出口を示してやるべきで、敵は降れば必殺を布告されているから進んで守りについている。城壁は堅固で食料も豊富にある。このままでは我が方の士卒を傷つけるだけであり、包囲を続ければ長い日数をかけることになり、良策ではない」と曹操に進言した[1]。曹操が曹仁の意見に従い出口を開けると、壺関は間もなく降伏した[1]。
208年、赤壁の戦いで曹操軍は敗北する。曹仁は北に戻る曹操から江陵(現在の湖北省江陵)の守備を託された。周瑜率いる孫権軍が来襲すると、曹仁は牛金に軍兵300人を与えて迎撃させた[3]。周瑜は兵力を増強して牛金を包囲した[3]。曹仁は牛金らを救うために側近の諌めを振り切って数十騎を率いて出撃し、2度にわたって敵陣に突撃する[3]。そして激戦の中で牛金らを助け出し、曹仁の勢いを恐れた孫権軍は一時撤退したほどだった[3]。ただ、この戦いは最終的に曹仁は敗れているが、曹操は曹仁の功績を認めて安平亭侯に封じた[3]。
219年、関羽率いる劉備軍が北上してくると、その攻勢を樊城(現在の湖北省襄樊)でよく耐えた[3](樊城の戦い)。関羽による水攻めも耐え抜いて援軍の到着を待ち、最終的に関羽軍を打ち破った[3]。
220年、曹操が死去して曹丕が跡を継ぐとそれに従う。一族に冷淡な曹丕も曹仁だけは別格のように信任し、文帝として皇位に即位すると車騎将軍、陳侯に昇進して2000石の加増を受け、合計して3500石の知行を有した[3]。さらに曹一族の重鎮として大将軍、大司馬となった[2]。223年に56歳で死去[2]。忠侯と諡された[2]。
人物像[編集]
曹仁は若い頃は身を慎まなかった[3]。しかし成長して武将になると、厳格に法規を遵奉し、いつも法律の条文を身の回りに置いて、これと照らし合わせながら事を執り行った[3]。またその戦いぶりは苦しいときにいつも底力を発揮する粘り強さであり、多くの人から賞賛された。
小説『三国志演義』では劉備や徐庶を侮り李典の諌めも聞かずに新野城に攻め込んで大敗したり、諸葛亮を侮って攻めてまた大敗したりするなどの姿が描かれているが、これらは全て創作である。江陵の戦いでの牛金救出、樊城の戦いでの粘り強さは演義でも史実同様に描かれている。