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2015年4月3日 (金) 23:44時点における版
北条 政村(ほうじょう まさむら、元久2年6月22日(1205年7月10日) - 文永10年5月27日(1273年6月13日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての武士・政治家。鎌倉幕府の第7代執権(在職:文永元年8月11日(1264年9月2日) - 文永5年3月5日(1268年4月18日))。政村流北条氏の祖。父は第2代執権の北条義時。母は伊賀朝光の娘・伊賀の方。兄弟に泰時、朝時・重時、実泰、有時、時尚、時経らで実泰・時尚らは同母兄弟。子に通時、時通、時村、宗房、厳斎、政長、政頼、政方、北条実時、北条宗政、安達顕盛、北条業時、北条時茂に嫁いだ娘ら。
生涯
北条義時の子で泰時の異母弟。元仁元年(1224年)6月に義時が死去する。義時の死は急死であったため、世継ぎや遺産分配などの遺言は無かった。そのため母親の伊賀の方は政所執事であった実兄の伊賀光宗と謀って実子の政村を執権に、娘婿の参議中将である一条実雅を将軍に擁立して幕府の実権を握ろうとした。この際、伊賀の方は当時北条家と対抗しうる三浦義村を味方にしようとした。義村は政村の元服の際の烏帽子親である。しかし北条政子の強談判により義村は泰時を支持し、伊賀氏の陰謀は無血の内に失敗に終わった(伊賀氏の変)。伊賀の方や光宗、実雅らは流罪に処されたが、政村は兄弟であるとして泰時からの温情により処分は免れた[1][2][3][4]。
以後は泰時の政権に参画し、延応元年(1239年)に評定衆に列する。泰時没後も後継の得宗政権に忠実に従い、建長元年(1249年)に引付頭人となる。康元元年(1256年)11月に北条長時が第6代執権に就任した際には長時の連署となって補佐を務めた[1]。
文永元年(1264年)8月11日、長時が重病により出家したため、第7代執権に就任する。もともと長時は第5代執権で得宗の時頼が重病に倒れた際、時頼の嫡子である時宗が当時7歳のため「眼代」として立てられていた執権であった。しかし長時が倒れた際でも時宗はまだ14歳であり、時宗がもう少し成長するまで政村が新しい眼代として執権に立てられたのである[1]。この際、時宗が連署に就任している。
文永5年(1268年)に時宗が18歳に成長したのを機に執権職を時宗に譲り、連署に再任して時宗を補佐する。文永10年(1273年)、出家して全ての職を辞職し、覚崇と号した。同年に69歳で没した[1]。
人物
北条家一門の中では泰時から時宗まで5代の政権に関与した最長老であった。文化人としても名を馳せ、常盤に別業を建て、ここを中心に和歌の道に励んで政村の37首の歌は勅撰和歌集に入集している[1]。
経歴
※日付=旧暦
- 寛喜2年(1230年)1月13日、常陸大掾に任官。閏1月4日、式部少丞に転任。10月15日、従五位下に叙位。式部少丞如元。
- 嘉禎2年(1236年)3月4日、右馬助に遷任。4月14日、右馬権頭に転任。
- 嘉禎3年(1237年)9月15日、従五位上に昇叙。右馬権頭如元。
- 嘉禎4年(1238年)8月28日、正五位下に昇叙。右馬権頭如元。
- 延応元年(1239年)10月、幕府の評定衆と就る。
- 仁治元年(1240年)4月5日、右馬権頭辞任。月日不詳、評定衆筆頭と就る。
- 寛元2年(1244年)6月22日、従四位下に昇叙。
- 建長2年(1249年)12月9日、引付頭人(一番)を兼務。
- 建長8年(1256年)3月30日、連署と就る。4月5日、陸奥守に任官。
- 正嘉元年(1257年)6月12日、相模守に遷任。
- 文永元年(1264年)8月11日、執権と就る。
- 文永2年(1265年)2月21日、従四位上に昇叙。相模守如元。3月28日、左京権大夫に転任。
- 文永3年(1266年)3月2日、正四位下に昇叙。左京権大夫如元。
- 文永5年(1268年)3月5日、執権職を時宗に譲り、再び連署と就り、侍所別当を兼務。
- 文永10年(1273年)5月18日、出家。常盤院覚崇を称す。5月27日卒去。享年69。