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2014年2月1日 (土) 01:29時点における版
『中世』(ちゅうせい)は、三島由紀夫の短編小説。戦争中、20歳の三島が遺作として執筆していた作品である[1]。1945年(昭和20年)、雑誌「文藝世紀」2月号に第2回途中まで掲載され、続きから第3回までを掲載予定だった3月号は発行前に東京大空襲で焼失し、第4回は翌年1946年(昭和21年)1月号に掲載された。その後、同年に雑誌「人間」12月号に初めて全編掲載された。単行本は、三島死後の1998年(平成10年)3月10日に講談社文芸文庫より刊行された。同書には他に5編の短編が収録されている。
概要
25歳に陣中で夭折した足利義尚を悼んでの父・足利義政の嘆きと、この世ならぬ魂の招来を格調高い美文で綴った室町時代の物語。三島文学の美への基調を窺わせる作品となっている[2]。
本作は、戦争中、中島飛行機小泉製作所に勤労動員されていた三島が、赤紙で中断覚悟で執筆しはじめた作品である[1]。また、「文藝世紀」に掲載されたものを読んだ川端康成が賞讃の声を漏らしていたことから、戦後、三島の川端初訪問のきっかけとなった作品で、その後、川端主宰の雑誌「人間」の全編掲載に至った[1]。
あらすじ
足利義尚が陣中で亡くなった。義尚に寵愛されていた少人・菊若は後を追おうとするが、霊海禅師にその意を見抜かれ、禅師の蘭若(寺)に留まった。義尚の父・義政老公の悲しみも癒えなかった。ある夕、苔むした大亀が部屋に入ってきた。義政は、キキと鳴く澄んだ眼の大亀に愛着を覚える。星を見ては号泣する亀を抱きながら、義政は銀河を眺め暮した。義政は精霊の世界に心を惹かれ、ついには寝食を廃するに至った。老医師・鄭阿は不死の薬を求め旅に出た。義政は東山殿に巫女らを集め、降霊の儀式をするが、息子・義尚の霊は降りなかった。しかしその中の美しい一人の巫女・綾織が義政にみそめられ、酒宴が開かれた。
もはや菊若を離れて生き得なかった霊海禅師は、このまま菊若を寺に置きたいと希うのみだったが、心苦しい菊若が剃髪を願い出ると、そのみどりの黒髪をただ見つめるばかりで霊海には答えはなかった。入梅近き夜、菊若の床へ霊海が忍び、涙を流して愛を告白した。やがて寺の侍僧は悉く暇をとり、檀越たちは禅師と菊若が相携えて山道を歩くのをしばしば見かけるようになった。
霊に飽いた義政の心を翻えそうと力めた巫女・綾織は、近きに在るだろう巫を探すように義政に言った。義政は菊若を思い浮かべ、探索の使者を遣わした。不死の薬の調合書を手に入れて戻った鄭阿は心悩みながら、菊の花で満開の庭を歩く老大亀を呼んだ。物言わぬその魂、中世の体現者のようなその亀を、鄭阿もまた愛した。亀は赤い目で黙っていた。鄭阿の袖の中で亀はキキとも鳴かなかった。美しい菊若が義政の元へやって来た。菊若を見て綾織は愉悦に輝いた。菊若の蹠が時々すっと地を離れ、義尚の魂が乗り移った。菊若は綾織の腕に抱かれ、亡き義尚の霊の言葉を厳かに語り出した。その頃、鄭阿は遂に大亀を殺め、不死の薬に欠くべからざるその脳髄を取り出し、骸は星空の燦たる池に沈めた。
降霊を終え疲れ果てた菊若は、霊海禅師の寺に戻ったが、月の出と共にうなされはじめた。綾織が寺の山門に立ち、菊若を迎えに来た。綾織は母のように菊若をかき抱き、その冷たい手を温めた。その息は蓮の露がこぼれるかのように尊く、霊海は合掌した。綾織は菊若の手を引いて山を下りていった。霊海は縋ったが、綾織の神意の充ちた篝(かがり)のような眼差に負けた。綾織と菊若は上加茂の流れに二人手をとり合って入水し、後にそれを知った霊海も刃に伏した。
延命の賀宴で、鄭阿による不死の薬の盃が義政老公へ参らされた。琥珀の液を老公は飲み干した。興に乗った人々は老公をお誘いして、紅葉の池に船を泛べた。二階堂行二は櫂に亀の骸が当たり絡まるのを見て、舟人を目で制し、お気付きになかったように祈りながら義政老公を盗み見た。老公は和やかな微笑で家臣らを見比べておられた。もしや亀の死も綾織の失踪もとうに老公は知っておられたのではなかったか。その顔は紅葉の影をうつして美しく茜さした。
鄭阿はお暇を賜り、再び旅に出た。死すべき時は選びえずとも、どうして死所を選びえぬことがあろう。帰思方(まさ)に悠なる哉。鄭阿は故地の福州を目指した。
登場人物
- 足利義尚
- 長享3年3月26日、25歳で近江国鈎里の陣中で死去。切れ長の目。智勇文武を兼ね備えた名君。
- 足利義政
- 義尚の父。東山殿に住む。息子亡き後、悲しみに打ちひしがれて衰弱し狂気の兆候が出る。ある日部屋に入ってきた草色の苔むした大亀の澄んだ眼が忘れられなくなり、それを飼う。精霊の世界に心惹かれてゆく。
- 菊若
- 能楽師。美しい少人。義政、義尚親子二代にわたり寵愛を受け、伽を勤める。15歳の時に義尚から「菊若」の名を賜り、お招きを受けた。女と見紛う双手の舞があでやか。匂いやかな黒髪。
- 霊海禅師
- 僧侶。義尚の後追い自殺をしようと考えていた菊若を思いとどまらせているうちに、菊若を愛するようになる。
- 能の囃子方
- 義尚の出陣の宴の舞台で、鼓の皮が破れ、義政老公に手討にされる。
- 若い女
- 東山殿の奥勤めをする女たちの中の最年少の女房。
- 二階堂政行(行二)
- 号は行二。義政を双六に誘う。剃髪している。
- 鄭阿
- 老医師。唐の血を引く。不死の薬を求めて北九州の湊へ赴く。悲しみを紛らす阿片で、百年前の福州の街に行った夢をみる。
- 神官と巫女たち
- 義尚の降霊のため、東山殿に呼ばれた巫女たちと肥満した神官。
- 綾織
- 際立った美形の巫女。義政にみそめられる。物言いたげに紅玉の光りを放つ唇。早百合の清らかさのある身のこなし。
- 西方の商人
- 北九州の港に停泊する船の船長たち。華南の異国人。昨の晩夏、嵐で打ち上げられた福州の商船から荷を盗み取った中に奇怪な銘の袋(秘薬の調合書)があり、鄭阿が買う。
- 相阿弥
- 義政と旧知の雅友。西城渡来の蓬萊図の古画を義政に献上する。
- 侍臣や人々
- 義政の家臣や、小舞を舞う人や管絃を奏でる人々。
作品評価・解説
三島由紀夫は『中世』執筆当時について、18年後の38歳の時に振り返り、「二十歳の私は、自分を何とでも夢想することができた。薄命の天才とも。日本の美的伝統の最後の若者とも。デカダン中のデカダン、頽唐期の最後の皇帝とも。それから、美の特攻隊とも。……こんなきちがひじみた考へが高じて、つひに私は、自分を室町の足利義尚将軍と同一化し、いつ赤紙で中断されるかもしれぬ『最後の』小説、『中世』を書きはじめた」[1]と述べている。また少年時代に中世文学に凝りはじめて、「特に謡曲の絢爛たる文体は、裡に末世の意識をひそめた、ぎりぎりの言語による美的抵抗であつて、かういふ極度に人工的な豪華な言語の駆使は、かならず絶望感の裏打ちを必要とする筈だ」[1]という思いの中で書いた『中世』は、終末観の美学の作品化を志したものだったと解説し、「赤紙が来ようが来まいが、一億玉砕は必至のやうな気がして、一作一作を遺作のつもりで書いていた」[1]と述べている。
さらに三島は、そのような終末観の気分は、強烈な影響を成長期に与えたと感じ、「今でも、核戦争を必至のやうに考へがちなのは、過去の一時期の感情体験を、未来へ投影するせゐかとも思はれる。戦後十七年を経たといふのに、未だに私にとつて、現実が確乎たるものに見えず、仮りの、一時的な姿に見えがちなのも、私の持つて生れた性向だと云へばそれまでだが、明日にも空襲で壊滅するかもしれず、事実、空襲のおかげで昨日在つたものは今日はないやうな時代の、強烈な印象は、十七年ぐらゐではなかなか消えないものらしい。戦時の私は、かくて自分の感受性だけに縋つて暮してゐたが、今から考へるとバカのやうだが、当時としては、仕方のない生き方だつたと考へられる」[1]と述べている。そして『中世』執筆後の終戦当時については、「戦時中の小さなグループ内での評判などはうたかたと消え、戦争末期に、われこそ時代を象徴する者と信じてゐた夢も消えて、二十歳で早くも、時代おくれになつてしまつた自分を発見した。これには私も途方に暮れた。私が愛してきたラディゲも、ワイルドも、イエーツも、日本古典も、すべて時代の好尚にそむいたものになつてしまつた。実はさういふ言ひ方は大袈裟であつて、戦争中は却つてひそかな個人的嗜好がゆるされたのに、戦後の社会は、たちまち荒々しい思想と芸術理念の自由市場を再開し、社会が自らの体質に合はないものは片つ端から捨ててかへりみない時代となつたのである」と述べ、「戦時中、小グループの中で天才気取りであつた少年は、戦後は、誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生にすぎなかつた」[1]と述懐している。
当時、雑誌「展望」を主宰していた臼井吉見は、無名の帝大生の三島が『中世』をはじめ、8編の小説を持ち込んだときのことを述懐し、「自分の肌には合わないんですよ、決して好きじゃないんだけれども、とにかく一種の天才だ、と言ったところが、中村光夫が、とんでもない、マイナス150点(120点とも)だとぼくを叱咤したね」[3]と述べ、顧問だった中村の意向で没にしてしまったと述べている。その後三島贔屓となり、臼井の言でいうところの「三島のPTA会長」のようになる中村からして、当時の三島を全く認めなかった中、川端康成だけは三島を評価していたため、本多秋五は、「川端康成は、さすがに新人発見の名人だけのことが、どこかあったのである」[4]と述べている。
古典的・抒情的な作風の当時の三島が堀辰雄より以上に川端康成に深い共感を覚えていたことは、その書簡にも窺えられ、「単なる詩と感覚」ならば堀辰雄にもあるが、三島が堀よりも川端を高く評価するのは、「肉体と感覚と精神と本能と、すべて霊的なるもの肉体的なるものとが、青空とそこを染める雲のやうに、微妙な黙契をみせてゐるからです。その触媒としては日本人のあのさゝやくやうな『悲しみ』の秘密がありませう」[5]というふうに記されている。それをふまえ佐藤秀明は、その川端と三島の感覚の共通性について、古典的・抒情的な作風に加えて、川端の『抒情歌』に見られる「霊的なるもの」への感性は、三島の『中世』や『花ざかりの森』に通じるものであったとし、「三島は、川端を師とすることで、自分の持っているものを壊さないで戦後の出発ができると考えたにちがいない」[6]と解説している。
植木朝子は、三島が『梁塵秘抄』を読み、その中の「われをたのめて来ぬ男」の歌からの影響が、『中世』の菊若の様子を描写している箇所の、「菊若の身は澄みゆく独楽のやうに、と揺りかう揺り、夢見つゝ揺られて行つた」という表現に出ていると指摘し、三島の作品への古典歌謡の影響を論じている[7]。また植木は、三島が東文彦に『梁塵秘抄』を貸してほしいという依頼から読破、返却までわずか2週間であったことにも注目し、少年時代の三島の精力的な読書と古典文学愛好の様子をたどっている[7]。
三島は40歳の時、本作を読み返し、「少年時代に人に出した恋文が、手もとに帰つてきたのを読み返すやうな、何ともいへない気恥かしさに襲われる」[8]気持だったと述べ、「それなりに美しいことは、すでに中年になつた作者自身には、安心して認めることができる」と前置きしながら、この恋文の相手の正体は誰か、と自問自答し、「それは言葉である。『言葉』に対しての熱烈な恋文の数々がこれだ」と述べている。
室井光広は、万葉集に「寄物陳思」(物に寄せて思いを陳べる)という方法の一つがあったことと、日本古代における「モノ」が物質のみを指さず、物と心とその二つながらの次元を併せもつことや、それが「言葉」と一体化した存在であったことを述べ、三島が取り憑かれたモノについて探りつつ、「戦後日本の『面の皮』がぶ厚くなるのとほとんど軌を一にして三島由紀夫は『太陽と鉄』に象徴されるモノへの親愛感をあらわにしはじめた」[9]と述べ、『中世』の中に書き記された、「星にそれほど親近しうる心は、人間界にははげしい白熱した酷薄さを以て臨むにちがひあるまい」という言葉を引き、「太陽もまた星の一つだとすれば、“人間界にははげしい白熱した酷薄さを以て臨”んだ作家の後の振舞にも一貫性があったとみるべきかもしれない」[9]と解説している。
また室井は、戦後日本にモノ足りなさを感じていた三島の心理について、「それはモノ(物)がモノ(言葉)をいうような究極の姿を視たい心理につながっている」[9]とし、「早熟な詩人時代に作家(三島)は遺書の代わりの『詩の罠』作り――寄物陳思に専念していた。純粋精神と純粋物質の化合物の如き魔モノの降臨をひたすら請い願いながら、小説的陳思に没頭していた。陳思は、後にこの作家特有の心理描写を花開かせる。長編においてもそうだが、物を直截に描写するかにみせかけたかれの作品世界には、あの歌舞伎的意匠を思わせる心理の隈取りがどこまでもロジカルに展開」[9]されると解説している。そして、「複雑だが明晰な心理を孕む内部が、やがていっきょに外部の魔モノによって破砕される。そのカタストローフの瞬間こそ、作物が“モノになる”――あるいは名づけえぬ外部によって“モノにされる”――作品が“眼にモノみせる”時である」[9]と述べ、ドン・キホーテとなった三島は、書物(ショモツ)の世界に片寄った文士の「面の皮を剥ぐ」意気込みで、もう一つのモツである贓物を白昼にさらけ出すべく腹の皮を刻み、生首を謎の魔モノに差し出したと論じている[9]。
おもな刊行本
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 三島由紀夫『私の遍歴時代』(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)
- ↑ 「カバー解説」(『中世・剣』)(講談社文芸文庫、1998年)
- ↑ 臼井吉見(中村光夫との対談)『対談・三島由紀夫』(文學界 1952年11月号に掲載)
- ↑ 本多秋五『物語戦後文学史』(新潮社、1960年。岩波現代文庫、2005年)
- ↑ 三島由紀夫「川端康成への書簡 昭和21年4月15日付」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)
- ↑ 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- ↑ 7.0 7.1 植木朝子『三島由紀夫と古典歌謡』(同志社大学国文学会、2007年)
- ↑ 三島由紀夫「あとがき」(『三島由紀夫短編全集 第一巻』)(講談社、1965年)
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 室井光広「寄物陳思という方法」(文庫版『中世・剣』)(講談社文芸文庫、1998年)
参考文献
- 文庫版『中世・剣』(付録・解説 室井光広)(講談社文芸文庫、1998年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第32巻・評論7』(新潮社、2003年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第16巻・短編2』(新潮社、2002年)
- 『私の遍歴時代―三島由紀夫のエッセイ1』(付録・解説 田中美代子』(ちくま文庫、1995年)
- 植木朝子『三島由紀夫と古典歌謡』(同志社大学国文学会、2007年)
- 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)