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'''遠山 慶子'''(とおやま けいこ、英:Keiko Toyama、[[1934年]]〈昭和9年〉[[3月25日]] - [[2021年]]〈令和3年〉[[3月29日]])は日本のピアノ奏者。旧姓は「藤村」。
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'''遠山 慶子'''(とおやま けいこ、英:Keiko Toyama、[[1934年]]〈昭和9年〉[[3月25日]]<ref>{{Wayback|url=https://www.google.com/search?q=%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%85%B6%E5%AD%90+%E8%A5%BF%E9%BA%BB%E5%B8%83&rlz=1C1CHBD_jaJP732JP732&sxsrf=ALeKk03TGpn99Pjbi1byzs32HemRzvZuuw:1618312316834&source=lnms&tbm=bks&sa=X&ved=2ahUKEwjvxZ6Wi_vvAhWRBKYKHQRECg4Q_AUoAXoECAEQCw&biw=1438&bih=829|date=20210413111539}}</ref> - [[2021年]]〈令和3年〉[[3月29日]])は日本のピアノ奏者。旧姓は「藤村」。
  
東京府東京市本郷区の生まれ<ref>加賀との対談において、「どこでお生まれになりました?」と尋ねられた遠山が「本郷西片町十番地」と答えている。({{Cite book|title=光と風のなかで |publisher=彌生書房 |last1=遠山|first1=慶子|last2=加賀|first2=乙彦|year=1993|isbn=9784841506761|page=11|ref=harv}})</ref>。父は高等遊民で、母方の祖父が陸軍武官<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=12}}</ref><ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=18}}</ref>だった。4歳の頃に鎌倉市<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=12}}</ref>材木座<ref>遠山自身の言によると「家は滑川のほとり」{{Harv|遠山|加賀|1993|p=35}}</ref>に引っ越す。この頃に父親から子供用のヴァイオリンをプレゼントされたが、すぐに試奏したところ、あまりに酷い音が出たので、怒ってヴァイオリンの本体を足で踏みつぶし、弓も折ってしまった<ref>加賀との対談で、遠山は5歳頃の話として回想している{{Harv|遠山|加賀|1993|p=46-47}}</ref>。このことで父に「二度とヴァイオリンを触るな!」と叱責され<ref>{{Cite web|accessdate=2021-03-31|url=https://www.ojihall.jp/topics/interview/hink_toyama_int.html|archiveurl=http://archive.is/Eshn2|archivedate=2021-03-31|title=インタビュー ウェルナー・ヒンク&遠山慶子 ~銀座 王子ホール~|date=Unknown date}}</ref>、ヴァイオリン奏者への道を諦めた。6歳の頃からピアノを始め、曲折を経て井上貞吉<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=43}}</ref>にピアノを師事。鎌倉市立第一小学校に入学し、病弱ゆえに養護学級に入る。また片瀬乃木小学校に編入した際には校風と合わずに不登校となり、小学四年次<ref>出席日数が足りず、一年留年。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=60}}</ref>に第一小学校に復帰した。8歳の時には日比谷公会堂で開催されたヨーゼフ・ローゼンストックの指揮する新交響楽団等による[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の《レクイエム》の演奏を聴き、その不気味さにショックを受けて失神している<ref>この演奏会に、後に夫となる遠山一行が合唱団員として参加していた。{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=51-54}}</ref>。1946年に父を亡くした後、東京都世田谷区松原に転居。1947年には毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールの東日本大会で1位になったが、全国大会は棄権した<ref>遠山の言に従えば、「毎日の学生コンクールっていうの」を「受けてみたら、それで東日本大会の一等になっちゃったの。で、一等になっちゃったらば、演奏旅行に行かなければならないなんて話が出ちゃうわけね。新聞社の宣伝なのよ。第一回だから。そしたら母が絶対そんなのはだめ。演奏旅行なんてとんでもないって言って、その権利を放棄」したという。この記述から、「毎日の学生コンクール」が1947年に第一回のコンクールが開催された毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールであると同定できる。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=73-74}}</ref>。中高一貫校の恵泉女学園に進学し、中学二年生の時に受洗<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=73}}</ref>。また富ヶ谷の旧華族の本野家にフランス語を習いに通い<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=80}}</ref>、本野家が[[アルフレッド・コルトー]]と縁があったことから、1952年にコルトーが来日した時に、コルトーに演奏を聴いてもらう機会を得、その場でコルトーに才能を認められる<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=81-86}}</ref>。1954年にパリに留学し、エコール・ノルマル音楽院に入学してコルトーの門下となった<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=87}}</ref>。1955年に教授資格を取って音楽院を首席で卒業し、帰国するまでにポール・クローデル、ジャン・コクトー、エトヴィン・フィッシャー、ジョルジェ・エネスクやパブロ・カザルス等の知己を得た<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=96-97}}</ref>。また留学中に遠山一行と出会って帰国した年のうちに結婚し、2児を儲けた<ref>長男が1959年5月6日、次男が1960年8月26日に生まれている。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=111}}</ref>。1962年から1年間、再度フランスに渡り、演奏家資格を取得して帰国<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=114-117}}</ref>したが、1965年にまたフランスに渡り、フランス楽壇にデビュー<ref>遠山の語るところによれば「その演奏家資格というのを取っちゃったらば、フランスでデビューしないといけない」とのこと。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=126}}</ref>。以後、日本国内外で演奏活動を展開。1978年には日本ショパン協会賞を受賞。2009年にはウェルナー・ヒンクとのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集の演奏で毎日芸術賞を受賞した。1980年に草津国際音楽アカデミー&フェスティバルが創設された時から講師陣の一人として加わっている。
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東京府東京市本郷区の生まれ<ref>加賀との対談において、「どこでお生まれになりました?」と尋ねられた遠山が「本郷西片町十番地」と答えている。({{Cite book|title=光と風のなかで |publisher=彌生書房 |last1=遠山|first1=慶子|last2=加賀|first2=乙彦|year=1993|isbn=9784841506761|page=11|ref=harv}})</ref>。父は高等遊民で、母方の祖父が陸軍武官<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=12}}</ref><ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=18}}</ref>だった。4歳の頃に鎌倉市<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=12}}</ref>材木座<ref>遠山自身の言によると「家は滑川のほとり」{{Harv|遠山|加賀|1993|p=35}}</ref>に引っ越す。この頃に父親から子供用のヴァイオリンをプレゼントされたが、すぐに試奏したところ、あまりに酷い音が出たので、怒ってヴァイオリンの本体を足で踏みつぶし、弓も折ってしまった<ref>加賀との対談で、遠山は5歳頃の話として回想している{{Harv|遠山|加賀|1993|p=46-47}}</ref>。このことで父に「二度とヴァイオリンを触るな!」と叱責され<ref>{{Cite web|accessdate=2021-03-31|url=https://www.ojihall.jp/topics/interview/hink_toyama_int.html|archiveurl=http://archive.is/Eshn2|archivedate=2021-03-31|title=インタビュー ウェルナー・ヒンク&遠山慶子 ~銀座 王子ホール~|date=Unknown date}}</ref>、ヴァイオリン奏者への道を諦めた。6歳の頃からピアノを始め、曲折を経て井上貞吉<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=43}}</ref><ref>「井上定吉」と記す資料もある。({{Wayback|url=http://www.camerata.co.jp/artist/detail.php?id=50|date=20150523121526}})</ref>にピアノを師事。鎌倉市立第一小学校に入学し、病弱ゆえに養護学級に入る。また片瀬乃木小学校に編入した際には校風と合わずに不登校となり、小学四年次<ref>出席日数が足りず、一年留年。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=60}}</ref>に第一小学校に復帰した。8歳の時には日比谷公会堂で開催されたヨーゼフ・ローゼンストックの指揮する新交響楽団等による[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の《レクイエム》の演奏を聴き、その不気味さにショックを受けて失神している<ref>この演奏会に、後に夫となる遠山一行が合唱団員として参加していた。{{Harv|遠山|加賀|1993|pp=51-54}}</ref>。1946年に父を亡くした後、東京都世田谷区松原に転居。1947年には毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールの東日本大会で1位になったが、全国大会は棄権した<ref>遠山の言に従えば、「毎日の学生コンクールっていうの」を「受けてみたら、それで東日本大会の一等になっちゃったの。で、一等になっちゃったらば、演奏旅行に行かなければならないなんて話が出ちゃうわけね。新聞社の宣伝なのよ。第一回だから。そしたら母が絶対そんなのはだめ。演奏旅行なんてとんでもないって言って、その権利を放棄」したという。この記述から、「毎日の学生コンクール」が1947年に第一回のコンクールが開催された毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールであると同定できる。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=73-74}}</ref>。中高一貫校の恵泉女学園に進学し、中学二年生の時に受洗<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=73}}</ref>。また富ヶ谷の旧華族の本野家にフランス語を習いに通い<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=80}}</ref>、本野家が[[アルフレッド・コルトー]]と縁があったことから、1952年にコルトーが来日した時に、コルトーに演奏を聴いてもらう機会を得、その場でコルトーに才能を認められる<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=81-86}}</ref>。1954年にパリに留学し、エコール・ノルマル音楽院に入学してコルトーの門下となった<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|p=87}}</ref>。1955年に教授資格を取って音楽院を首席で卒業し、帰国するまでにポール・クローデル、ジャン・コクトー、エトヴィン・フィッシャー、ジョルジェ・エネスクやパブロ・カザルス等の知己を得た<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=96-97}}</ref>。また留学中に遠山一行と出会って帰国した年のうちに結婚し、2児を儲けた<ref>長男が1959年5月6日、次男が1960年8月26日に生まれている。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=111}}</ref>。1962年から1年間、再度フランスに渡り、演奏家資格を取得して帰国<ref>{{Harvnb|遠山|加賀|1993|pp=114-117}}</ref>したが、1965年にまたフランスに渡り、フランス楽壇にデビュー<ref>遠山の語るところによれば「その演奏家資格というのを取っちゃったらば、フランスでデビューしないといけない」とのこと。{{Harv|遠山|加賀|1993|p=126}}</ref>。以後、日本国内外で演奏活動を展開。1978年には日本ショパン協会賞を受賞。2009年にはウェルナー・ヒンクとのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集の演奏で毎日芸術賞を受賞した。1980年に草津国際音楽アカデミー&フェスティバルが創設された時から講師陣の一人として加わっている。
  
東京都港区の自宅にて脳腫瘍の為、死去<ref>{{Cite news|publisher=読売新聞|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210331-OYT1T50175/|date=2020-12-24|title=上皇后さま、遠山慶子さん宅を弔問…ピアノ通じ親交|archiveurl=http://archive.is/3aHKN|archivedate=2021-03-31|accessdate=2021-03-31}}</ref><ref>{{Wayback|urlhttps://www.jiji.com/jc/article?k=2021033000683|date=20210412163315}}</ref>。
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東京都港区の自宅にて脳腫瘍の為、死去<ref>{{Cite news|publisher=読売新聞|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210331-OYT1T50175/|date=2020-12-24|title=上皇后さま、遠山慶子さん宅を弔問…ピアノ通じ親交|archiveurl=http://archive.is/3aHKN|archivedate=2021-03-31|accessdate=2021-03-31}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021033000683|date=20210412163315}}</ref>。
 
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2021年4月13日 (火) 20:22時点における版

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遠山 慶子(とおやま けいこ、英:Keiko Toyama、1934年〈昭和9年〉3月25日[1] - 2021年〈令和3年〉3月29日)は日本のピアノ奏者。旧姓は「藤村」。

東京府東京市本郷区の生まれ[2]。父は高等遊民で、母方の祖父が陸軍武官[3][4]だった。4歳の頃に鎌倉市[5]材木座[6]に引っ越す。この頃に父親から子供用のヴァイオリンをプレゼントされたが、すぐに試奏したところ、あまりに酷い音が出たので、怒ってヴァイオリンの本体を足で踏みつぶし、弓も折ってしまった[7]。このことで父に「二度とヴァイオリンを触るな!」と叱責され[8]、ヴァイオリン奏者への道を諦めた。6歳の頃からピアノを始め、曲折を経て井上貞吉[9][10]にピアノを師事。鎌倉市立第一小学校に入学し、病弱ゆえに養護学級に入る。また片瀬乃木小学校に編入した際には校風と合わずに不登校となり、小学四年次[11]に第一小学校に復帰した。8歳の時には日比谷公会堂で開催されたヨーゼフ・ローゼンストックの指揮する新交響楽団等によるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《レクイエム》の演奏を聴き、その不気味さにショックを受けて失神している[12]。1946年に父を亡くした後、東京都世田谷区松原に転居。1947年には毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールの東日本大会で1位になったが、全国大会は棄権した[13]。中高一貫校の恵泉女学園に進学し、中学二年生の時に受洗[14]。また富ヶ谷の旧華族の本野家にフランス語を習いに通い[15]、本野家がアルフレッド・コルトーと縁があったことから、1952年にコルトーが来日した時に、コルトーに演奏を聴いてもらう機会を得、その場でコルトーに才能を認められる[16]。1954年にパリに留学し、エコール・ノルマル音楽院に入学してコルトーの門下となった[17]。1955年に教授資格を取って音楽院を首席で卒業し、帰国するまでにポール・クローデル、ジャン・コクトー、エトヴィン・フィッシャー、ジョルジェ・エネスクやパブロ・カザルス等の知己を得た[18]。また留学中に遠山一行と出会って帰国した年のうちに結婚し、2児を儲けた[19]。1962年から1年間、再度フランスに渡り、演奏家資格を取得して帰国[20]したが、1965年にまたフランスに渡り、フランス楽壇にデビュー[21]。以後、日本国内外で演奏活動を展開。1978年には日本ショパン協会賞を受賞。2009年にはウェルナー・ヒンクとのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集の演奏で毎日芸術賞を受賞した。1980年に草津国際音楽アカデミー&フェスティバルが創設された時から講師陣の一人として加わっている。

東京都港区の自宅にて脳腫瘍の為、死去[22][23]

脚注

  1. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  2. 加賀との対談において、「どこでお生まれになりました?」と尋ねられた遠山が「本郷西片町十番地」と答えている。(遠山 加賀 (1993) 遠山慶子 加賀乙彦 [ 光と風のなかで ] 彌生書房 1993 9784841506761 11 )
  3. 遠山 加賀 1993 12
  4. 遠山 加賀 1993 18
  5. 遠山 加賀 1993 12
  6. 遠山自身の言によると「家は滑川のほとり」(遠山 加賀 1993 35)
  7. 加賀との対談で、遠山は5歳頃の話として回想している(遠山 加賀 1993 46-47)
  8. (Unknown date) インタビュー ウェルナー・ヒンク&遠山慶子 ~銀座 王子ホール~ Unknown date arch. 2021-03-31 2021-03-31
  9. 遠山 加賀 1993 43
  10. 「井上定吉」と記す資料もある。(アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ)
  11. 出席日数が足りず、一年留年。(遠山 加賀 1993 60)
  12. この演奏会に、後に夫となる遠山一行が合唱団員として参加していた。(遠山 加賀 1993 51-54)
  13. 遠山の言に従えば、「毎日の学生コンクールっていうの」を「受けてみたら、それで東日本大会の一等になっちゃったの。で、一等になっちゃったらば、演奏旅行に行かなければならないなんて話が出ちゃうわけね。新聞社の宣伝なのよ。第一回だから。そしたら母が絶対そんなのはだめ。演奏旅行なんてとんでもないって言って、その権利を放棄」したという。この記述から、「毎日の学生コンクール」が1947年に第一回のコンクールが開催された毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクールであると同定できる。(遠山 加賀 1993 73-74)
  14. 遠山 加賀 1993 73
  15. 遠山 加賀 1993 80
  16. 遠山 加賀 1993 81-86
  17. 遠山 加賀 1993 87
  18. 遠山 加賀 1993 96-97
  19. 長男が1959年5月6日、次男が1960年8月26日に生まれている。(遠山 加賀 1993 111)
  20. 遠山 加賀 1993 114-117
  21. 遠山の語るところによれば「その演奏家資格というのを取っちゃったらば、フランスでデビューしないといけない」とのこと。(遠山 加賀 1993 126)
  22. (2020-12-24) 上皇后さま、遠山慶子さん宅を弔問…ピアノ通じ親交 読売新聞 arch. 2021-03-31 2021-03-31
  23. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ