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'''益田 孝'''(ますだ たかし、[[嘉永]]1年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]([[1848年]][[11月12日]]) - [[昭和]]13年([[1938年]])[[12月28日]])は、[[三井財閥]]を支えた[[実業家]]。幼名は徳之進。[[茶道|茶人]]としても高名で'''鈍翁'''と号し、近代[[小田原三茶人]]の一人としても知られる。[[男爵]]。
 
  
== 経歴 ==
 
[[佐渡島|佐渡]]の出身。父の鷹之助は箱館(函館)奉行を務めたのち、江戸に赴任。孝も江戸に出て、麻布善福寺に置かれていた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]公使館に勤務する。[[ヘボン塾]](現・[[明治学院大学]])に学んだ。[[文久]]3年([[1863年]])[[フランス]]に派遣された父とともにヨーロッパにも行っている。
 
 
明治維新後は明治5年([[1872年]])に[[井上馨]]の勧めで[[大蔵省]]に入り、[[造幣権頭]]となり大阪へ。明治7年には井上とともに[[先収会社]]も設立している(副社長に就任)。[[明治]]9年([[1876年]])の[[三井物産]]設立とともに、同社の総轄に就任する。同年には[[中外物価新報]]([[日本経済新聞]]の前身)を創刊。三井物産は日本の商社の代表として綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には日本の貿易総額の2割ほどを占めていたという。また、益田は工部省から三池炭鉱の払下げを受け、明治22年([[1889年]])「三池炭鉱社」(のちの[[三井鉱山]])を設立、[[團琢磨|団琢磨]]を事務長に据えた。明治33年([[1900年]])に[[台湾製糖]]設立。大正2年([[1913年]])辞任。
 
 
明治中期頃から茶道をたしなみ、[[明治39年]]([[1906年]])には[[小田原市]]の[[板橋 (小田原市)|板橋]]に[[掃雲台]]を造営し、「白雲洞」・「不染庵」・「対字斎」という庵を立てた。このことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めとなっている。
 
 
趣味の茶器収集も有名であった。'''鈍翁'''の号は、彼が収集した茶器「'''鈍太郎'''」に由来する。墓所は[[護国寺]]にある。
 
 
== 系譜 ==
 
* 実妹に[[津田梅子]]、[[山川捨松]]とともにアメリカ留学して帰国後女子教育で活躍した[[永井繁子]]がいる。
 
* 長男は夭逝。次男に[[劇作家]]・[[益田太郎冠者]]。三男は初代[[小田原市]][[市長]]の[[益田信世]]。[[歌手]]・[[岩崎宏美]]の前夫は益田の玄孫にあたる。
 
 
== 自伝・伝記 ==
 
* 「自叙益田孝翁伝」益田孝(中公文庫) 
 
* 「鈍翁・益田孝」〈上・下〉[[白崎秀雄]](中公文庫)
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[井上馨]]
 
* [[山縣有朋]]
 
* [[渋沢栄一]]
 
* [[大野鈍阿]]
 
* [[原富太郎]]
 
* [[野崎廣太]]
 
* [[松永安左エ門]]
 
* [[松永記念館|松永記念館(小田原)]]
 
* 老欅荘、掃雲台の朝鮮門を移築してある
 
 
{{DEFAULTSORT:ますたたかし}}
 
[[Category:1848年生]]
 
[[Category:1938年没]]
 
[[Category:日本の実業家]]
 
[[Category:日本の華族]]
 
[[Category:新潟県出身の人物]]
 
[[Category:茶人]]
 
[[Category:日本のコレクター]]
 
[[Category:三井グループの人物]]
 
[[Category:三井物産]]
 

2010年8月10日 (火) 18:27時点における版